我が在所では「スベリヒユ」を『ひょう』と呼ぶ^^;
『おやじぃ』が小学1年生の時、「オオバコ」「スズメノテッポウ」「スベリヒユ」の絵が教科書(副読本だったと思う。)に載っておりました。(草の名前は無かったなぁ!)先生の質問は「さて、この内で雑草はどれでしょう?」…指名され答えに窮した女の子を笑ったら、怒った教師は『おやじぃ』を次に指名した。はて、指名された『おやじぃ』もハタと困ってしまったのである。植物名こそ書いていないものの、「オオバコ」は『オオバコ相撲』で遊ぶ草であり、「スズメノテッポウ」は草笛で遊ぶ草であるけれど、「スベリヒユ(ひょう)」は食べられるのである。食べられる物を「雑草」とは言うまい…自信を持って答えると教師の回答は「総て雑草です。だから、知ったふりをして他人を笑ってはいけません。」とたしなめられました。(こうした経験は、キッチリ覚えているんだよなぁ^^;)
「世の中に雑草という名の草はない。」と植物学者牧野大先生が言葉を残し、昭和天皇も引用されたようでありますが、農業分野では「耕地雑草」として一括りの表現もあるから、教師の分類もあながち誤っているとも言い難い。しかし、「除草論」なんていう講義を受けると、作物に被害をもたらす草もあれば、樹園地の土壌乾燥を防ぐ草もある。水田畦畔では、根まで枯らせば畦畔が崩れてしまうのである。(最近は、畦畔塗りをするアタッチメントもあるけれどね。)虫も草も一撃必殺、皆殺しという考え方は如何なものかと考えるのでありますよ。『雑草』と分類された草ぐさにも、我が在所のように「スベリヒユ(ひょう)」を食べてしまう食文化もあり(決して食べるために栽培している訳ではない。)『分類』という線引きは難しいものだと考えるのでありますよ。
役に立つか立たないか?
さて、歳を重ねて思うこと…ジョージ秋山氏の「浮浪雲」という漫画の中で「年寄りと仏壇は同じようなものだ。ありがたくもあるが、邪魔と言えば邪魔でもある。」そんなフレーズが出て来る。人は赤子であっても、老人であっても何がしかの役割を担っていると思う。わずか3歳で命を落としたとしても、残された人々の心の中に生き続け、100歳の長寿を全うしても、いつかは遺影の中の人となってしまう。何がしかの役割や立ち位置を持っているから、心の中にも、実体としても生き続けられるのではないかなんてね^^;
「飄々とした生き方」なんてね。何かとらえどころのない、世間の風などどこ吹く風といったような表情や態度で生きているようではあるけれど、それでも他者との関わりの中で生きている。昔、一線から退いた『男年寄り』は、無駄な存在のようにも思えた。子守りさえできないのだから^^;(その数も少なかったけれど。)その点、『女年寄り』は逞しく、家事などこなしていた記憶である。次第に高齢者の域が近付いてくると、我が身の振り方は…なんて考えるのでありますよ。何とか家計を支えている内は、親父ぶったことを言っていても、その内にその口さえ動かなくなるに違いない。少しずつ少しずつ、農園の未利用地は減っているのだけれど、まだまだ、草に覆われた未利用地はあるのですよ。この農地が埋め尽くされたとき、我が役割もそろそろ終わりかなどと、小さな小さな思いを抱き始めましたよ。
まだまだ、まだまだ…昨日、早生の食用菊をようやく植え付けて(新たな作付け場所を開墾し)小さな満足感と寂寥感が湧いてくる…俺の立ち位置って何だっけ?息子が少しずつ逞しくなり、『おやじぃ』は少しずつ存在する場を失いかけてくる。喜ばなければいけないことなのかも知れないなぁ(笑)