その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

夢屋国王(欅繁れる9)

2011-10-11 09:04:40 | 夢屋王国

世の中はいつも、変わっているから  頑固者だけが、悲しい思いをする
変わらないものを、何かにたとえて  その度崩れちゃ、そいつのせいにする

  シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく  変わらない夢を、流れに求めて
  時の流れを止めて、変わらない夢を  見たがる者たちと、戦うため
     「世情」より抜粋 作詞・作曲 中島みゆき

ひとりの田舎者が、声を大にして叫んだとしても何も変わらない。社会の矛盾に矛先を向けて、巨大な何かと戦おうとしても、仲間たちは、最後に大企業や中央会や公務員という盾の中に紛れ込んでいったのであります。結局、変わっていく者は自分自身であり、薄っぺらな知識と議論とで、何かにいつも青白い怒りというエネルギーをぶつけようとしていただけかもしれません。
東小金井南口商店街の人々の暖かさと寮のおばちゃんたちに支えられ、何とか寮委員を勤め上げました。何だかんだとドタバタ劇を繰り返し、実は欅寮の寮長まで務めることになるのですが…。寮委員としての経験は、時として自己矛盾に気づく場面が多々ありました。寮食のおばちゃんは、国家公務員(栄養士)、大学雇い(嘱託契約)、学生雇いの三種類の職給があり、学費値上げ反対と叫ぶ一方で、19歳の学生が労務管理をしなければならないという事実にぶち当たるのであります。職安に求人を出したり、職員の慰安旅行を段取りしたり…、そして、内容証明郵便で呼び出され、弁護士と面談することになったり…。
大学2年の春は、思いも寄らない事件、事故の連続でありました。新入寮生を追いかけて、家出してきた高校生(♀)、入学から僅か一週間で、自室で自殺してしまった獣医の新入寮生。家族不和を理由に、寮の4階から飛び降り自殺してしまった清掃会社の社員。二十歳の学生にしては、途轍もない経験を積ませていただきました。

かつての寮長室だった101号室も、今では中壁で仕切られエアコンが導入されて、個室化が進んだようであります。当時だって、男4人のタコ部屋よりは個室の希望が多かったし、時代の流れなどと言うものではなく、当然の帰着というものでありましょう^^;
学びに生きる者を学生と呼ぶ…いや、私の場合は、生き方を学びに学生となったのである。年々、値上げされる授業料…何故か私立大学との格差是正が、文部省の表立った理由のひとつでありました。国立大学の学費が、私立大学並みに引き上げられたら、田舎の貧乏な家庭の子息は学びの機会を奪われてしまう。「そんな貧乏な家庭だったら、初めから大学に進学しようなんて思わないんじゃない…。」(同級生♀)いくらクラス内でオルグをしても、神奈川県出身の彼女との考え方の違いは埋まりませんでした。「授業料値上げに反対する署名活動、学生ストライキ、日比谷公園に集結してはデモ行進…日和見活動家も少しは、学生運動に参加したのであります^^;
学部長交渉で、寮内の設備改善を申し入れたり、学費値上げ反対闘争の一環でのストライキの最中に『金大中氏拉致事件の真相究明を求める緊急決議』が全学連より提案された時、「今回のストは、授業料値上げに反対し確立したストである。このドタバタに乗じて、何の議論も関係も無い金大中氏の問題を持ち込む全学連の姿勢に断固抗議する…。」寮長として筋を通したのは、これだけかもしれない。後は、授業も受けずに部屋で寝ていたような気がする^^;

 

「チャーハンと卵スープ」で腹がはち切れそうになった中華料理店『千成(せんなり)』は名称が変わり、この様子では経営者も変わったのでありましょう。マスターにコーヒーの入れ方を教えてもらった『マトリックス』は、流行りそうも無いカラオケ屋へと変わっておりました。変わらないのは「新鮮なお付き合い~♪」の『スーパーいなげや』といつまでもガキのような心を持ち続ける自分というオヤジ…。

 

帰りの車窓から、大学3年生の時からお世話になった埼玉県久喜市駅周辺と埼玉県園芸試験場(現:埼玉県農業総合研究センター園芸研究所)の流れる景色に納めながら、私は山形に戻ったのであります。遠い昔に何が起こったのか忘れてしまったかの如く、また、無く食わぬ顔で、食うための仕事に戻るのであります。

『ダイイチ ケヤキ シゲレル』とは、地方出身の学生に合格通知をいち早く伝えるための、ラグビー部の打電アルバイトの電文…今では、地方でもインターネットで合格を知ることが出来るのでありますけれどね^^;
いつかまた、第2の故郷の思い出を綴ってみたいと思います。(第一部終了~^^;)

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夢屋国王(欅繁れる8)

2011-10-10 12:45:35 | 夢屋王国

「学生による寮運営・学生の自治権の確立!」そんなスローガンをぶち上げられても、田舎出身のノンセクトの貧乏学生にはピンと来るわけがない。ただ、漠然と分かっていたことは、60年代安保闘争は、学生たちが集団という不穏な結社を繰り返したことに起因する。したがって、学生には3S政策を進めるという文部省(当時)の方針だけは理解出来た。3Sとは「Sports」「Study」「Sex」の頭文字であります。学生はこの三つを満足させれば不満を言わない…代表的な例は、筑波大学における大学運営方針であり、学長の権限を異常なほどまで高め、教職員を押さえ込み、学生たちには3Sを満足させる、寮は完全個室化し集団化しないように配慮し、さらには夫婦寮もあるという近代施設を作り上げた。一方、欅寮は、一人3畳(配置が悪いので、自由になる空間は、ベッドの上と机しか無かったのでありますが…)の空間しかない。しかし、寮生活と寮委員を経験し、最も有効だったと感じているのは、学部学科を越えて先輩・同輩と議論が出来た事かもしれません。

獣医学科の長老「蔦沢さん」に初めて寮委員として挨拶を交わした時、「君が新しい寮委員かぁ?じゃ~歓迎するからお好み焼きを食べに行こう。」そんな会話で、部屋回りもそこそこに工学部の銀杏並木道を抜け、正門前のお好み焼き「友紀」に連れ出された。
「友紀のおばん」は、三村さんという当時60歳代のおばちゃんだったが、歯槽膿漏のポメラニアン「リリー」と暮らしていた。当時、350円~400円程度で大判の広島風お好み焼きを食べさせてくれました。「夢屋~!そのダウンベスト寄こせぇ~。」「夢屋~!徹マンするぞぉ~。」その後、私がこの店で学生以外の一般客を見たのは一度だけ^^; その後、度々寝込みを襲われて、マージャンに誘われたが、勝っても負けても朝飯だけは奢ってもらった気がする。『友紀のばばぁ杯』ボウリング大会が恒例で、今は亡き「須田加代子プロ」とタイマンで投げ合ったという経歴は伊達ではありませんでした。酔っ払うとベロンベロンのおばちゃんで、度々カウンターでお好み焼きを替わりに焼かされ、私がお客対応をさせられた。「夢屋!昨日お前と寝た夢を見たぁ~!お前下手だなぁ~!」(あくまで、おばんの妄想であります。)何故か、おばんには可愛がられた^^; 今では、跡地にマンションが建っていたのであります。

 

当時の小金井南口商店街は学生に寛大であり、碁会所も兼ねていた寿司屋の大将は、350円程度で握り一人前を食べさせてくれました。しかし、そのネタは向うの風景が透けて見えるほど薄く、学生たちは名人級であると彼の腕を評価していたのであります。松之家は、カウンターだけの飲み屋で、ここもまた、おばちゃんが接客係なのでありますが、寮長の『薫ちゃん』が、「夢屋~!酒飲みてぇ~!」と突然絶叫し、1円や5円玉交じりで640円位のチャラ銭を握り締め、「おばちゃん御免!これしかな~い。飲ませて…^^;」と懇願したら、コップ酒各々2杯とわんこの餌皿のような、ボコボコの古鍋に2人前の湯豆腐を提供してくれましたっけ^^;

東小金井駅南口は、以前は空き地にフェンスが巡らされており、夜になると夏でもおでん屋台が引き出されてきました。屋台のオジサンは893系の幹部らしいと専らの噂でありましたが、酔っ払い同士の喧嘩を腰が引けた状態で仲裁する姿は、とても893系の業界の方とは思えませんでした。
彼が出すラーメンは、とても食えた代物では無く、専らおでんとコップの中で浮遊物が舞う熱燗を目的に通ったのでありますが、スープの中にゆずを入れるなど、私が在学する4年間でかなり味は進化いたしました^^;
ひとつ50円位のおでん種でありましたが、お愛想を頼むと菜箸で「ひ~ふ~み~」と数える。バイトでお金に余裕があって少し多めに食べても「ひ~ふ~み~よぉ~!」とまでしか数えない。
「おじさん!もっと食べてるよぉ。」と言っても「ひ~ふ~み~よぉ~!」としか数えない。恐らく、「いつ(5)」以上の数を知らないのではないかと疑ったものであるが、その疑問はある日、解けたのであります。
寒い夜、グデングデンに酔っ払った客を「学生さん!この人の家は〇△の辺りで、〇□と表札が出ている家だから抱えて連れ帰っておくれよ…。」
「分かったよおじさん!じゃ、お愛想^^;」
「いいよ、いいよ学生さん!おじさんは、後でこの人に貰うから^^; 学生さんは勉強して、社会に出てから良い仕事して返しておくれよ…。」
卒業して10年後、気まぐれでこの街を訪れた時、どうも卒業に失敗して893系の業界人(不動産屋)になった藤本という同級の寮生に、おじさんは小金井でビルのオーナーになり、友紀のおばんはそのビルで働いているという噂を聞いたが、事の真偽は定かではない^^;
(続く)

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夢屋国王(欅繁れる7)

2011-10-09 00:39:01 | 夢屋王国

夢屋の学生時代を振り返っていたら、一週間経ってしまいました。明日は、中学時代の同級会です^^;
牢家主の大学8年枝元先輩の教えは、学生生活に非常に役立つ実践教育でありました。
「お兄さん、これから始まる歓迎コンパでは、柿の種は良く噛んで食べるんだよ。吐く時、鼻に引っかかって酷い思いするから…。」
「そっちのお兄さんは、今年20歳か?筆下ろしは俺のかあちゃんの店に連れてってやるから。」
「合コンかい?良いかい、女の子からの誘いを待ってちゃだめだ。天気の話しでも何でも良い。とにかくコッチから積極的に話しかけてやれ!」
「お兄さん!お風呂に入る時は掛け湯をするよなぁ。ココの風呂は牛乳風呂だから、上がる時は、必ずオチン〇ンに掛け湯をするんだよ。」
「お兄さん、具志堅用高のパンチは良いねぇ、肩から繰り出される!素人さんは手から行くけど、それじゃ喧嘩はだめだぁ。肩から出るパンチは相手に見えねぇよ。」
「お兄さん、バイトも良いが、最初は友だち作んなきゃいけねえよ。」etc.

寮のお風呂が『牛乳風呂』…そんな訳が無い。若い男たちが400人近く、貯め置きの湯船に入るのである。二日に一度、6時から11時までの入浴時間の内、終了時間間際には湯船は皮脂で真っ白に変化するのでありました^^;
したがって、湯上りに掛け湯をしないと、男子の陰部はインキンという厄介な病気が蔓延することになる。私は、一度だけ11時過ぎに入浴し、水しか出ない給湯口の水を掛けるのが嫌で、枝元先輩の教えを破り、掛け湯を忘れたため、以降1年間途轍もないかゆみと戦うことになったのであります^^;
この奇妙な牢家主との生活は、僅か2ヶ月で終わりを告げることになります。それは植防2年(植物防疫学科)の先輩『薫ちゃん』に寮委員と成ること懇願され、断りきれない私は、少しずつ日和見学生運動に係わることになるのでありました^^;
枝元さんには人生の処世訓を、鶴間さんには「牛島さん」というビル管理業の厳ついオジサンの効率の良いアルバイトを紹介して頂いたのでありました。

 

今では国際交流会館と名前を替え、真新しい建物と成っている「旧楓寮跡」に何故かベビーカーが?どうやら留学生や職員の住まいと変化しているようであります。かつては平屋建ての女子寮でありました。同学科の寮生で行われるコンパでは、したたか酒を飲んだ後、寮内をスミからスミまで駆け回り、一升瓶を肩に担いで狂声を張り上げるのであります。「植防~ストーム!!!!!!」
『ストーム』を掛けられた寮生は、差し出されるコップ酒を一気に飲み干さなければならない。当然、ご返杯があって、それを飲み干すのがルール…最後の〆は、平屋建ての楓寮のフェンスをよじ登り、屋根の上で雄叫びを上げるのであります。「植防~ストーム!!!!!」
今、考えると何とおバカな学生だったのでありましょうか^^; しかし、楓寮には『お景さん』・『お文さん』と言うやさしい姉御がおりまして、差し出すコップ酒を一気飲み…当然の返杯に、夢屋は枝元先輩の『柿の種教訓』を嫌と言うほど味わうことになるのでありました^^;
(続く)

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夢屋国王(欅繁れる6)

2011-10-08 23:32:09 | 夢屋王国

「大学は、何でも教えてくれる所らしい。泥棒と人殺し以外は、何でも覚えて来い。人間、一生の内で必ず遊ぶ時がある。結婚してから遊びを覚えたら、女房が苦労するだけだから…。」
実に含蓄のある言葉でありますが、今は認知症の私の母が上京前に語った教えであります。親の言い付けは絶対でありますから、私は素直にこの教えを守ることを誓いました^^;
寮委員に挨拶を済ませ、案内された部屋が確か『402号室』…「お前が犠牲者か…。」と小さくつぶやいた寮委員の言葉を私は聞き漏らしませんでした???
「機械2年の鶴間です。応物の3年生は後から入寮するようだから、君と僕はここにしよう。」12畳ほどのフロア中央をパーティションで半分に区分けし、固定ベッドとスチール机が一台、造り付けのロッカーが学生一人の割り当てでありました。つまり3畳ほどのスペースが東京暮らしのスタートだったのであります。鶴間先輩(彼も新入寮生だったのでありますが…)の指示に従い、恐い4年生に挨拶を…「何じゃい、こりゃ~!!!!!!」そこは、驚愕・禁断のスペースでありました。

ベッド基本の生活スタイルのはずの6畳には、古畳としょっぱそうな布団が敷き詰められ、コタツが置いてある。古い競馬新聞と食いかけの餌が置いてあるそのスペースは、牢家主の住まいであったのであります。
「夢屋君。まずは、ベランダを掃除しようよ。」工学部でトッポイ兄ちゃんの鶴間先輩はきれい好き、ベランダに捨てられた古新聞の片付けから寮生活が始まるのであります。今ではオシャレなポリのごみ袋でありますが、当時は70ℓ位の青い大きなポリバケツがごみ収集箱。4階からごみ収集場所まで往復すること20回…そのごみの量を想像いただけますでしょうか^^;
昼から始めた部屋掃除…ベランダだけ…夕方まで掛かったのであります。ゴキブリは当たり前、最後のボロと朽ち果てた新聞紙を回収した時、下から鼠が飛び出すという始末…何年ぶりかで402号室のベランダの床は、お日様を浴びることが出来たのであります^^;

「寮メシは明日からだから、夕飯は商店街の千成で食べて来なよ…。」鶴間先輩の推薦で、中華料理店:千成(せんなり)へ…生まれて初めて『硬い焼きソバ』なる餡かけ揚げ焼きそばを食べ、食べ方を知らないから口の中を切って、ヒリヒリした状態で牢家主の帰りを待ったのであります。
「お~い!枝元…。」(先輩A)
「枝まっちゃん、居るぅ~。」(先輩B)
「枝元は?」(先輩C)
次から次へと牢家主の元へ、何処の誰とも分からない先輩がやって来ては、コタツに潜り込むのであるが、いつまで経っても牢家主は帰宅しません。
「林産8年の枝元です。学生さん、よろしくな・・・。」学生に学生さんと呼ばれるのも変ではありますが、パンツ一丁の姿で現れた牢家主「枝元さん」は、勉強が大好きで8年も大学で学んでいる4年生だったのであります^^;
(続く)

 

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夢屋国王(欅繁れる5)

2011-10-07 12:09:28 | 夢屋王国

青臭い学生も歳を重ねればオヤジになる。19・20で親元を離れ、自分自身の人間形成…生き方や死に方を学ぶには、寮生活は格好の場所であり、また同時に悲劇の場所でもありました。
1979年3月、山形の田舎小僧が東京で暮らすには、まず生活の本拠地となる住まいを見つけなければならない。当時の府中市や国分寺市内には、2万円~3万円台のアパートがあったような記憶もありますが、低料金で、屋根付き、飯付き、教え付き…寮は、危険かつ安全な隠れ家であったのであります。東小金井駅は、元々、橋上駅舎でありましたが、中央線武蔵小金井駅の『開かずの踏み切り』事故から周辺駅と踏み切りが立体交差化され、ホームもリニューアルされておりました。

 

駅南口から細い路地を貫け、懐かしき実家に帰る。外壁は綺麗に塗り直されておりますが、基本的な構造体は30年前と変わらない『欅寮』1号棟が、当時のまま建っておりました。

     

学生による自治の確立・・・青臭い主義主張の殿堂も、古き良き時代の看板を残すだけで、入退室24時間自由の玄関は、自動ドアとオートロック認証システムが導入されておりました。
玄関右手には、寮の受付兼電話交換手の「泉さん」が睨みを利かせ、玄関ロビー奥には、若作りの「景山さん」が寮費他一切合切の経理をしていた会計があったのでありますが、小奇麗なロビーに変化しておりました。

 

「駒場良いとこな、ホイ! 雲と亦 自由の棲む処 そうともなぁ あ そうともなぁ♪」
山形から上京し、寮委員会に入寮許可された部屋は402号室だったような気がします。「息子が入学する大学と言うものを一度は見ておきたい…。」そう言う母親を連れて…当時は、少なくとも母親に連れられて上京したのではなく、既に母親を連れて入学式と入寮を果たしたのは、4月8日だったような気がします。余りの汚さに母親が心配するのを恐れ、玄関先の敷石にお袋を座らせ、部屋を始めて見たのでありますが、見せなくて正解でありました^^;
「帰り方、分がっか?オレンジの電車に乗り、神田で緑の電車に乗り換えて、上野さ行ぐんだぞ・・・!」そうして、疲れきった母親を帰し、入寮後すぐ始めた仕事は、今日の寝る場所を確保するための部屋掃除だったのであります…^^;(続く)

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夢屋国王(欅繁れる4)

2011-10-06 07:38:41 | 夢屋王国

付属農場の一角に立ち、東京都内の地方大学(失礼)が持つ保有資産に今さらながら驚愕し、一体、私はこの大学に何を求めたのだろうと改めて考えてみるのであります。「いつかは、日本のアンリ・ファーブルに成る。」などと、少年の思いをそのままに、赤本で唯一「害虫学研究室」を紹介していた植物防疫学科を目指すのでありますが、大学2年の専門課程で履修した教授の「害虫学」の講義は、イギリスの昆虫学者ヴィンセント・ウィグリスワースの著書「Insect Physiology(昆虫生理学)1934年」のペーパーバックスを教授が直訳した講義であり、接続詞までそのままの90分の語りに辟易し、同級生に代返を頼んでは自主休講とすることが多かったのであります^^;

 

大学サークルでは、馬術部が結構有力な活動をしていたのでありますが、朝5時から馬の世話をするなんて御免被りたく、お金は無いが、時間だけは有り余るほど持っている田舎出身の学生は、バイトに明け暮れ、日和見主義的な学生運動へと軸足が傾いていくのでありました。
将来的には、専門漬けになるのだから…単純な理由で、社会学・人文科学に興味が湧き、一般教養履修時代は、文庫本程度の読み物ではあるけれども、比較文化論やマルクス経済学…その対比として、マックス・ウェーバーの文庫本を読む…理系の学生でありながら、文系の本を読んでいることの方が多かった、そうでもしなければ、日和見主義者ではあるけれど、民青(民主青年同盟:共産党系)、社青同(社会青年同盟:社会党系)、第三文明(公明党系)、勝共連合の学生さんたちと議論することが出来なかった。社会矛盾を感じながら変革を期待し、かといって就職に不利になるような活動はしたくなかったのであります。

 

「生協の白石さん」で有名になった農工大の生協入口は、昔のままであります。昼飯は生協のランチ…Aランチ200円、Bランチ250円、Cランチ300円…それにセブンスター140円を一箱買っても、一日500円あれば何とか生活は成り立ったのであります。地階の購買部と中二階の食堂、三階は喫茶部があり、たまにはミートソースやピザトーストを食べる。通称『学生通り』を挟んだお隣の敷地、明〇学園高等部の悪ガキが、生協購買部で大胆にもラジカセをコートに隠して〇引きした…時効ではあるが、生協活動にのめり込んでいた「正義派の元さん」は、怒りを私にぶつけたりもした。良くも悪しきも学生生活を支えてくれた団体であります。その西隣には、総合屋内運動場と書かれ、新築された武道館と体育館が…体育館の管理人のおばちゃんは、確か東北出身だったと思うのでありますがチェックが厳しく、貧乏学生が外履きスニーカーで授業を受けようとすると、フロアが傷つくと言って、裸足で運動させられました。
体育の教官が、この大学のフロアは、国立大学の体育館の中でも一番手入れの行き届いた体育館であると誉めそやしていたことがなつかしい…^^;

 

コンクリートにヒビさえあれば育つカタバミ…そんな生命力の強いカタバミを食草とするヤマトシジミを一般教養棟の脇で見つけ、当日開催されていた野生動物医学会の看板を横目で見ながら、4年間生活の本拠地となった工学部のキャンパスへと足を向けたのであります。(続く)

 

 

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夢屋国王(欅繁れる3)

2011-10-05 10:41:55 | 夢屋王国

三億円事件の公訴時効が成立して、さらに4年が経過し、人々の記憶からも事件が薄れ始めた昭和54年4月、私は大学に入学したのでありますが、本学正門から学園通りに面した裏門に回ってみました。(決して裏口入学した訳ではないのであります…。)当時と同じように、お決まりの「本学関係者以外の構内立入を禁ずる」との立て札が掲げてあるものの、通用門は常に開放され、今でも近所の人々のショートカット道路として利用されております^^;

 

変わったことと言えば、学園通り口のこの辺りにコンビニのハシリがあったのでありますが、今では読売新聞の専売所になっておりました。そして、2号館のエントランスホールは、異様なほど綺麗になっていたのであります。「本学関係者以外の…」昔と同じように守衛が居る訳でもなく、私も同窓会員なのだから、まんざら関係が無い訳でもない、呼び止められた時は「一瀬太良先生に会いに来ました…などと惚けてみせよう。」(一瀬教授は25年も前に他界しているので、それこそ関係者以外は分からない暗号であります^^;)

 

4階の植物防疫学科は、応用生物科学科と名称を変え、農薬学研究室は生物制御化学研究室へと変わっております。私が履修した「害虫学研究室」は「応用昆虫学研究室」と名称が変わり、変わらないものといえば、雑然とした廊下と「植物病理学」の名称でありましょう。明治以来、東大を頂点とする旧態依然とした学会である「植物病理学」は、研究成果も上がらないと同時に、名称の変化も無いのだろうなどと、他の学会を揶揄する夢屋であります。

 

学生実験室は、古いメラミンの実験台からダルトン製でありましょうか、小奇麗な実験台に変化しております。学内は外壁のお色直しをするなど、国立大学から独立行政法人に移行した際の手切れ金で改修したのではないか…と思われるほど綺麗になっている。15年程前に子どもたちを連れて訪れた時よりも大きく変容していたのであります。

 

変わらないものと言えば、3年生の春、新入生歓迎コンパでしたたか飲んで、4年生の柔道部主将に絡んでしまい、お詫びに裸で飛び込んだ池…同じ研究室の〇滝君は、夢屋の粗チ〇を見て、我が粗〇ンに自信を持ったという逸話が残っております^^;
農学科のある1号館脇には、「欅寮」の前身である「駒場寮跡」の石碑が…「今朝も早よから 泥鍬担や~♪雲雀亦鳴く鳴く 春の空そうともな♪」と泥臭い節回しの寮歌「駒場小唄」は今も歌い継がれているのだろうか…応用生物科学などと、今風のお名前の現代の学生さんたちが歌っているとも思えない。大学裏の農場、東京都内(府中市ではあるけれど…)にこれだけの広大な敷地を農場として確保していて良いものだろうか?かつて農場長であった福島県下郷町出身の渡部直吉教授が、文部省(当時)官僚に農場の存続をズーズー弁で訴えたと本人から聞いたのは、やはり20年程前の話であります。
「夢屋~!ズーズー弁と言うものは良いもんだぞぉ^^; 文部省の官僚は、俺が何を言っているか分からないから聞き取ろうとして必死で耳を傾けてくれる。標準語で直訴しても聞き入れてもらえなかったろうなぁ~^^;」彼は、農場の移転計画に対して、東京都内の農場だからこそ存続させ、子どもたちに農業に触れる機会を与えなければならないと熱弁を振るったようであるが、恐らく明治維新以来、薩長を頂点とする中央政府に敵対感情を抱く『会津っぽ』の熱い心意気は伝わったことであろうが、言葉は通じなかったことだろうと思うのであります。こうしてみると、この大学は研究費は少ない貧乏大学ではあったが、時価数十億円の含み資産を保有する資産家大学であったことに今さらながら気付いたのでありました。(続く)

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夢屋国王(欅繁れる2)

2011-10-04 03:50:40 | 夢屋王国

「花の雲 鐘は上野か 浅草か 」 :松尾芭蕉

夢屋国王は注意力散漫…江東区の大島四丁目団地の帰り道、地下鉄の乗り換え駅「森下」で「芭蕉記念館」の文字を見つけると、同級会のことなど忘れ、本所深川の芭蕉庵跡地に突然脚を向けたのであります。マスコミの雄「読売新聞」社屋ビルを横目に睨む芭蕉翁の銅像が展望台に建っております。一説によるとこの芭蕉翁は、夜な夜な45度ほど回転しライトアップされるとか、俳聖「松尾芭蕉」も時のペンという名の権力の前には跪いてしまうのか…^^;

東北・茨城方面の同級生に配慮してくれたのか、同級会会場は上野ターミナルホテル。同級生とその関係者20名が集い、30年のギャップを感じさせない3時間の宴はあっという間に終了してしまいました。それぞれに社会的地位を確立された方々なので、宴会の模様は控えておきましょう^^;それぞれのメルアドに後から画像付きで脅迫状を送りつけることにします^^;
共通一次試験世代の学生さんたちは、今ほどでは無いにしろ真面目だったし賢かった…少々ダイナミックさには欠けていましたが…。求人は少なかったが、それぞれ、そこそこに企業や公務員として社会に潜り込んで行きました。(優秀な同級生もちゃんと居ます^^;)呑み足りない連中は、昔を思い出して新宿西口の「ションベン横丁」へ!今は「思い出横丁」と名前を替えているようでありますが、貧乏なオヤジや学生たちの溜まり場には違いない^^;
気の利いた幹事の計らいで、歌舞伎町のリーズナブルなお店で2次会…。「次まで死ぬなよ~!」と声を掛け合って、2~3年後の再開を約し、三々五々新宿駅へと消えていったのであります。

 

二女のアパートに潜り込んだ夢屋は、翌日、15年ぶりに大学を覗くことにしたのであります。東京農工大学…この大学を語る場合、画像左の府中刑務所学園通りの塀を語らなければなりません。1968年12月、日本信託銀行国分寺支店から東芝府中工場に運ばれていた社員のボーナス3億円が、ひとりの白バイ警官に扮した青年によって奪われたのであります。支店長宅爆破予告状の発送から、発炎筒による爆弾の偽装、現金輸送車に乗り込んで逃走するという大胆にして巧妙な手口・・・日本犯罪史上、華麗にして(失言)、迷宮入りしてしまった「三億円事件」の発生現場であります。当時、学生運動華やか成りし頃、農工大生も犯人として疑われたそうであるが、このような計画的かつ巧妙な手口を考え付くほど頭が良くないという理由で、捜査線上からすぐ外されたという都市(学生)伝説があります^^;

 

大学本館と正面の欅並木は当時のままであります。夢屋が学んだ「2号館」の玄関は、学生たちの放置自転車とごみで汚~い状態でありましたが、いまでは自動ドアに変化し、ごみなどありません。恐るべし、大学行政法人…学科の再編とともに、真面目な教職員と学生さんのお勉強の場と変化したのでありましょう^^;
最近では「生協の白石さん」で有名になった農工大学でありますが、私は、学生課の松本係長に途轍もなくお世話になりました。そして、当時は「教授会と職員と学生による三者の自治の確立」を目指すなどという赤い運動にも参加したこともありましたが、綺麗になったキャンパスとは裏腹に、青い考え方は何処かへ消え失せ、社会に揉まれ薄汚れたオヤジに変化している自分に気付くのであります。(続く)

 


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夢屋国王(欅繁れる)

2011-10-03 05:36:42 | 夢屋王国

山形県川西町出身の故)井上ひさしさんの作品に「青葉繁れる」という青春小説があります。東北の名門進学校(仙台一高と思われるが…)に通う落ちこぼれ生徒のドタバタ喜劇であります。夢屋もまた、今では死語となってしまったバンカラな高校生活を送り、何とか大学には進学したのでありますが、8月11日に青森県弘前市の級友『元さん』から同級会の案内を受けたのであります。『元さん』とも約20年ぶり、その他は卒業以来約30年ぶりの再会を約したのでありました。
そして、10月1日上野へと出かけることになったのでありますが、ふと、昔を思い出しながら、TV化された「青葉繁れる」の主題歌♪出来ない生徒がさ 出来る学校さ 入った悲劇はさ 語るも涙でごさいすちゃ♪などと口ずさみながら、夢屋の学生時代を振り返るのであります。題して「欅繁れる」…欅の葉は、大学の校章であります。

  

夢屋が大学受験をした年は、1979年共通一次試験元年でありました。これにより、二校受験可能だった国立大学は、一期校・二期校の別が無くなり、家計の事情から私立大学進学など適わなかった夢屋は、一発勝負の受験を余儀なくされたのであります。それまで、東京など一人で行ったこともなかったし、大学がどこにあるのか、どんな大学なのかも知らずに、赤本を頼りに希望校を決めたのであります。当時、山形から上野まで、エル特急「つばさ」が運行されており4時間かかりました。今では山形新幹線(正式には新幹線ではなく、その名称は新幹線直行特急なのです^^;)が東京駅まで乗り入れ可能になり、高畠町からは2時間30分で首都東京に到着することが出来ます。山形県は秋田県とよく間違えられ、中央の方々は遠いイメージが定着しがちですが、意外に近いのであります。当時は、学生服に学生帽を被って上京したのでありますが、今では、乗車早々缶ビールをプシュー!すでに観光気分であります^^;
車窓から福島市内を眺めながら、宮城県から2名ほど出席する予定であり、震災の話題になるなぁなどと心を痛めながら、高畠駅で購入した藤沢周平の短編小説などを久し振りに読み始めますが、大人の眼鏡をかけないとツライ・・・悲しいオジサンであります。

 

途中、農協が巨大化して、農家が疲弊するのは何故~などと、ブツブツ文句をたれているとあっと言う間に上野駅到着であります。上野駅は、東北人にとって東京のターミナル駅でありました。エル特急「つばさ」が停車する地下ホームと在来線をつなぐ大連絡橋に慣れるまでかなり時間がかかった思い出があります。意外に知られていないのが、上野駅のコンコースに描かれている猪熊弦一郎作『自由』という絵。猪熊画伯は、香川県出身で東北には縁はありませんが、東京芸大出身だから、これもアリかぁ…。木こりやマタギなど、東北をイメージさせるような絵が描かれております。

 

実は、同級会も重要ですが、江東区大島四丁目団地の八百屋さん「アトリエ四季彩」に訪問(営業)するのも重要な任務でありました。夢屋本舗のニンニクと試作加工品のコメントが欲しくて、アポ無しで訪問してみました。店長の太田さんもびっくりされておりましたが、当日は青空市場を運営されておりまして、夢屋本舗『たまんね漬け』や夢屋特製「はえぬき」を強引に置いて来る大胆な行動力は、学生時代から変わっておりません^^;
朱色の看板左下をご覧ください。赤いデーパックは学生時代から使っている骨董品、商品はクーラーバッグに詰めておりますが、風呂敷で包んでおります。夢屋本舗の営業スタイルは、どこまでも田舎丸出しの泥臭さが売りなのであります。都営大江戸線や新宿線を乗り継いで、きっちり目的の場所に着けましたから方向感覚は大したものです。何たって、30年前はオジサンだって三多摩のシティボーイだったのですから…^^;
しかし、当時は風景の見えない地下鉄は、方向感覚が麻痺して、乗るのが嫌だったんですけど…。
学生時代のドタバタ劇は、ここから始まるのであります。(続く)

 

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夢屋王国(国王上京編)

2011-10-02 06:02:08 | 夢屋王国

只今、夢屋国王は上京中(恐らく、在日大使館で寝てる頃だと思います^^;)

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