蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

夏の別れ

2005年08月06日 | つれづれに

 激しい雷雨が襲った。朝のギラつく日差しが嘘のように、俄かに沸き上がった黒雲から注がれる大粒の雨が大地を叩いた。そんな中、庭の片隅で日差しを避けていた鉢に、今年もイワタバコが紫の花を咲かせた。原爆記念日。雨を聴きながら、ふと10年前のこの日のエッセイを読み返す心境になった。

 ……五十路を過ぎ、午前様が翌日こたえるようになり、ものともしなかった筈の夏の暑さがいつの間にか鬱陶しくなり、気が付いたら礼服のネクタイの白を締める機会が少なくなり、圧倒的に黒いタイばかり多くなって……。
 「そんな年代になったんだな…」
 それを認めることは寂しくもあり、さらに避け難い怖れも心の片隅にひっそりと育って来ている。
 身近な年齢の訃報が増えた。しかも、その訃報の年齢幅がいつの間にか自分の歳をうしろに通り過ぎて、若くなりつつある。死の影が頭上を通り過ぎて若返っていく……緊張しながらそれを見守っている自分がいる。
 8月2日、家内の従妹のマサヨが逝った。48歳。肺癌が、それも末期に至らず、むしろ2度目の入院と抗癌剤の投与で落ち着いた筈なのに、呆気なく若い命を奪い去っていった。
 本人は勿論、周囲の者達にとっても心の準備もならず、茫然自失の弔いとなった。サバサバと明るい、博多の女だった。東京の長女はいきなり涙声となり、アトランタの次女は「ウソォ!」と言って信じようとしなかった。
 20年前沖縄に赴任したとき、マサヨ一家が先行して沖縄に住んでいた。長女は沖縄で小学校3年生に進学し、次女は幼稚園にはいった。二人にとって第2の故郷となった沖縄だけに、同じ接点を持つマサヨ一家とは、一段と深い思い出があったに違いない。
 娘達は二人とも遠く離れ、私も東京出張のため葬儀に参列できず、家内だけが通夜から福岡に駆けつけた。妹同様に可愛がっていた家内にとって、衝撃は大きかった。葬儀を終えて4日目に、気力も体力もすっかり失って広島に帰り着いた。慰める言葉がなかった。

 葬儀の翌日の8月6日、広島は50回目の原爆の日を迎えた。出張から戻り、夕食を終えて、原爆ドームの下まで灯籠流しを送りに行くことにした。原爆資料館の噴水が、半月に向かって七色の水を噴き上げ、点在する記念碑は無数の千羽鶴に覆い尽くされていた。ひとつひとつに手を合わせながら、平和公園の人並みを分けて夕闇迫る川べりに出た。
 僧侶の読経が川面を叩くように響き渡る中を、無数の色とりどりの灯籠が、縺れたり離れたりしながら海に向かって流れた。ビルの明かり、ネオンの輝きが戦後50年の繁栄でドームのライトアップを包み込み、その絢爛さがむしろ戦後の風化を感じさせる。多少後ろめたい思いで川べりに座り、カメラで灯籠を追う私自身が、所詮よそ者の観光客でしかないのだ。人混みの中には外国人の姿も多い。それぞれが何を思い、何を見ているのだろう。
 
 このところ街もマスコミも原爆一色に染められ、街中が叫び続けているようだった広島…。
 むしろヤマトンチュには触れてほしくない傷跡として、背中で泣いているように思えた沖縄…。
 ミサの中にひっそりと包み込んでいた長崎…。
 
 先の大戦で最も激しく悲しい戦火に見舞われた三つの街。短い間ながら住み着き生活して、自分なりに感じたそれぞれの街の平和への姿勢の違いを、改めて噛みしめてみる。
 私自身の中でも、もう紛れもなく風化が始まっているのだが、こだわり続けるものと、キッパリ歴史のページの中に袂別するものと、はっきりけじめを付ける……それが「戦後50年」の正しい受け止め方ではないだろうか。

 引き潮に乗って、灯籠は無数の魂をその灯のちらつきに纏わせながら、海に向かって流れ続けた。手を合わせて立ち去る私の背中を、読経の声がいつまでも追い掛けてくるようだった。
 この日、アトランタの次女は26歳の誕生日を迎えた。……(1995年8月)

 地を裂く落雷を聴きながらこの10年の歳月を思った。広島は今年も変わらず60年目の式典が行われた。この10年で日本はどれだけ「平和」に向かって前進したというのだろう。イラクに兵を送る政治家の詭弁が蘇り、空しさだけが心に去来した。
           (2005年8月:写真:イワタバコ)