蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

草食系男子

2011年08月06日 | つれづれに

 テレビを観ながらニンマリ笑ってしまった。…カマキリの話である。

 大きな身体のメスにしがみ付いて交尾を続ける小振りな身体のオス。その頭をメスがバリバリと食べている。オスは食われながらも交尾をやめない。…このことは知っていた。健気なオスと美化していたけれども、何のことはない、動いているものはメスにとって所詮餌でしかないのだ。たまたまそこに動く餌があるから、産卵に向かう貴重な蛋白源として、メスはオスのカマキリと意識せずに食らう。カマキリは神経系統が特殊で、頭を食われても下半身の生殖本能に何の支障もないという(羨ましい!)。たまに気付かれないようにそっと逃げることが出来るオスは、10匹に2匹しかいない…哀しく非情で厳粛な自然界の掟である。

 最近の若い男女に似てるなと、無性に可笑しくなった。いやいや、カマキリのメスとオスの方が遥かに立派かもしれない。ファッションとメイクとダイエットばかりにうつつを抜かし、知性のかけらも感じさせないバッタの脚のような女の子にせっせと貢ぎ、言われるがままにアッシー君をつとめ、挙句イケメンじゃないからと捨てられ、野性も生殖能力も希薄になった若い草食系男子。これほど騒然としている世相にも無関心、ただだらしないとしか見えない薄汚い「ずり落ちファッション」で背中を丸めて歩く姿に、覇気も精気も知性も感じられない。…そんな若者が増えてきた。今ほど学生や若者に社会的存在感がない時代はない…と、連日の暑さに倦んだジジイが、年寄りの特権を振りかざして嘯いてみた。(呵呵!)

 「昆虫顔面図鑑」…今年手に入れた中で、イチオシの本である。カマキリが毅然として表紙を飾る。キアシナガバチの睨みは海老蔵を超える。クロオオアリの精悍、ヤマトヤブカの狷介、ノコギリクワガタの威厳、アオカナブンの剽軽、コナラシギゾウムシの愛嬌…110ページの一枚一枚に、ワクワクするような虫達の表情が並び、個性的で見飽きることがない。利権・金権・権盛欲で醜く歪んだ政治屋達の顔に比べ、なんと純粋で輝いていることだろう!
 人間一人に対して3億を超える昆虫達の個体数、地球上で最も数が多いのが昆虫である。アリやミツバチの社会性、短い命を懸命に生きるひたむきさ、環境に同化するしたたかな知恵、あるものだけに甘んじて驕ることのない謙虚さ…擬人化して見てしまう部分もあるが、教えられることは数知れないだろう。
 昆虫少年の成れの果てのジジイが、最近しきりに虫への気持ちの回帰がある。もしかしたら、私の前世は虫だったのだろうか?博物館で環境ボランティアしながら、「私だけは虫の味方」と、半ば本気で公言してきた。餌があるから虫は食う、博物館は美味しい食料倉庫、形あるものは滅びる、それを「害虫」と言うは人間の驕りでしかない、と。多分学芸員にから見れば、私はまさしく「獅子身中の虫」と顰蹙ものかもしれない。そう言いながら博物館の作業が好きだから、4年目のボランティア活動を、誰の為でもなく自分自身の楽しみとして黙々と続けている。ほかのボランティアは既に活動にはいったのに、研修が遅れている後輩の第3期環境ボランティアは、5ヶ月経ってもまだ現場作業に入れない。ぼやきや不満が出始めている中で、その間、生き残りの数人の第2期環境ボランテイアが、黙々と切れ目を作ることなくカバーしている。しかし、さすがに酷暑の中での月に8日の束縛が少し苦痛になってきた。メスを頭から食いちぎる肉食系男子の心意気で、いま少し頑張ってみよう。尤も、靴ブラシのような付け睫毛したバッタ脚の女の子より、戦後の貴重な蛋白源として食べたイナゴの方がはるかに美味しいのは分かっている。

 遠く西の海上を駆け抜ける台風の余波で時折熱風が奔る中を、狩人蜂がしきりに庭の草の葉の陰をブンブンと飛び回っている。スミレの葉を蚕食していたツマグロヒョウモンの幼虫は、今はもう一匹もいない。
 今日は広島原爆の日、アメリカに住む下の娘の誕生日である。
                (2011年8月:写真:「昆虫顔面図鑑」)