蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

早朝のお散歩

2011年08月18日 | 季節の便り・虫篇

 暑熱の日差しを浴びながら庭の雑草を毟っている時、イロハカエデの枝でアブラゼミが異常に騒いだ。覗いてみると、カマキリが遅めのランチの最中だった。ひとしきり油照りの夏を歌い上げてたオスゼミなのだろう、既に羽は破れかかり、僅かな余命も尽きかかって動きが鈍くなっていたのかもしれない。鎌でガッチリ咥え込まれて烈しく鳴きながら羽ばたいているが、既に腹部をカマキリに貪られていた。カメラを近づけると、擡げた頭をクルリと回して、片方の鎌を振り上げながら斜めに睨み上げてくる。クローズアップすると、精一杯猛々しく獰猛な威嚇姿勢なのだが、何となく愛嬌もあって微笑んでしまう。

 生きて、子孫を残すための必死の捕食。残酷なようだが、そう擬人化して感じるのは人間の物差しでしかない。さまざまな食物連鎖の中で、今日も厳然とした自然の掟が庭の片隅にも君臨しているのだ。あの、悠然と歩くカマキリも、餌の前では驚くような機敏さを発揮する。まだ元気なセミでさえ、鳴きたてることに夢中になっているときに、後ろから忍び寄られたら逃げるすべはない。我が家の庭でも、毎年のようにカマキリに貪られるセミの姿を目にする。焼け付くような残暑の午後、日差しの苛烈さを忘れて暫くカマキリの食事に見入っていた。

 父母の位牌は既に広島の兄の仏壇に移しているのだが、何となく心のけじめとして迎え火を炊き、空き家となった仏壇にお花を供える。遠い遠い西方浄土から東の広島に向かう帰り道、空の道もきっと大渋滞だろう。こっそり途中下車させてひと休みしてもらうのもいいよね…そう理由付けして、毎年迎え火を焚き、送り火でお盆のけじめをつける。この日、珍しくオハグロトンボが舞った。

 暦の上の立秋を過ぎても、まだまだ残暑は厳しい。それでも、立秋の翌日ツクツクボウシの初鳴きを聴いたし、早朝の空に秋雲の気配を感じるようになった。お盆を過ぎると、宵闇に虫のすだきも始まっている。炎天に焦がされるセミの亡骸、狩人蜂が運ぶ途中で取り落としてしまったツユムシ、張り巡らした網の中で少しずつ大きくなるコガネグモ…移ろい往く季節に取り残されたように、今年のパセリのプランターにキアゲハの訪れがない。こんな夏はかつてなかった。そして、産卵の樹木を選ぶのか、我が家の庭で羽化するのは何故か全てクマゼミである。どこか見えないところで、不思議な自然の掟が働いているのだろうか?

 今朝、いつものように道路を掃いているとき、ブロック塀の上をちびっ子カマキリが(これも擬人化した表現だが)、気持よさそうにお散歩していた。誇らしげに頭を擡げ、体を反らせ、脚を踏ん張り、優雅に体を前後に揺らしながら歩いている。カメラのレンズを近づけると、一人前に鎌を振り上げて威嚇してくるのが何とも可愛い。やがて見事なジャンプを見せて、楓の葉陰に消えていった。

 こうして少しずつ夏は後ろ姿を見せ始め、風の中にかすかな秋の気配が忍び寄ってくる。 
            (2011年8月:写真:ちびっ子カマキリの威嚇)