蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

初夏、奔る

2018年04月27日 | つれづれに

 夜の帳がしっかりと大地に沈みこむ頃、石穴稲荷の杜で「ゴロスケ、ホッホ!」フクロウが鳴いた。もう、人も車も通らない住宅地の夜更けである。
 春から夏へと、気温が乱高下する季節の狭間を縫い綴るように、夜の闇を一層沈ませるフクロウの声が睡魔を誘う。

 久し振りにカミさんが横浜の長女のもとに旅立った。「歌舞伎座で、仁左衛門の『絵本合法衢』(立場の太平次)を観たい!」……一人分残っていたマイレージを使って、その日は汗ばむほどの初夏の青空に向かって飛んで行った。1週間の独身貴族……いやいや、もう独居老人と言う方が納まりがいい。鍋一杯の豚汁を作り置いてくれて、私は朝食用にお得意のミネストローネを煮込んで、これを食べ尽くすまで飽食することになる。
 毎朝毎晩の30分のストレッチ、週2回のリハビリ・マッサージという、何とも情けない留守居役だが、昼は日差しの中で「一筆啓上仕り候!」と軽快に囀るホオジロ、「ツツピン、ツツピン!」と電線から鳴き声を落とすシジュウカラ、そして夜は「ゴロスケ、ホッホ!」と闇を沈ませるフクロウの声を聴きながら、訪れる人もなく、電話も掛かって来ない静かな毎日が過ぎて行った。

 晴天の後に、春の嵐が来た。淡いピンクが青空に映えていた満開のハナミズキが、一日にして散り尽くした。翌日、雨が上がるのを待って玄関周りや道路を覆う花びらを掃いた。文字通り、落花狼藉の態である。横歩きしながら箒を使うこの姿勢が、実は痛めた股関節には些かつらい。しかし、美しい花を愛でた後の掃き掃除は決して嫌いではない。早春の蝋梅もキブシも、咲き終わった後の掃き掃除を日課にしながら、季節の移ろいを噛みしめている自分がいる。庭の片隅に散り重なる紅葉を掃く楽しさもある。
 町内に2本のソメイヨシノの古木がある。天を覆うように満開の花を拡げて、高齢団地もひとしきり華やかさを取り戻すのだが、かつて区長をやっていた頃、住民の一人から「葉桜となった木に毛虫が下がるのが嫌だから、切ってほしい」と訴えられた。
 勿論、却下した。楽しむだけ楽しんで、それはないだろう。「毛虫が住む自然が残っていることを、むしろ喜んでください」……苦笑いしながらも解ってくれたその人も、もう鬼籍に入って此処にはいない。

 去年は裏作で2個しか実を着けなかった八朔に、驚くほどたくさんの蕾が着いた。今年は豊作が期待出来そうだと、ひそかにほくそ笑んでいる。勿論、自然摘花でかなりの蕾が落ちる。咲いた花は、ミツバチやマルハナバチに授粉されても、また多くの花が自然に散っていく。そして、ようやく青い実を育て始めるのだが、そこでも今度は自然摘果という試練が待っている。しかし、自然は優しい。年寄り二人が楽しむに余りあるほどの実りを、きっと齎してくれることだろう。

 新緑を見たくて、一人ドライブに出た。九州道から大分道に乗り継ぎ、日田ICで降りて、久々のファームロード日田からファームロードWAITAに駆け上がった。瑞々しい新緑が眩しい。野性に還ってこの新緑の中を転げまわり、身体中を緑に染めたいと思った。
 曲折と急なアップダウンを繰り返し、走り屋がこよなく愛する道である。平日のこの日も、一台のスポーツカーが追い上げて来た。逆らわずに路肩に寄って道を譲り、お馴染みの貸切露天風呂「豊礼の湯」に車を停めて、50分で1200円という掛け流しの露天風呂の至福に酔った。本音は九重高原を歩きたかったのだが、股関節痛でリハビリ中の身である。一人歩きに一抹の不安もあって、今日はおとなしく温泉リハビリに甘んじることにした。
 淡い翡翠色の濁り湯に浸りながら、美しい稜線を見せる涌蓋山の懐に抱かれて時が止まった。

 帰り着いた我が家の庭に、タツナミソウが幾つもの白波を立てていた。今年の季節は乱調の上に、いつになく韋駄天走りである。
                (2018年4月:写真:零れるような八朔の蕾)