蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

復活への助走

2018年05月11日 | 季節の便り・虫篇

 染み入るような感慨があった。木漏れ日を浴びながら、何時ものマイベンチの倒木に腰を下ろして、吹き過ぎる風に包まれていた。。
 5ヶ月ぶりの「野うさぎの広場」だった。

 明日、久し振りにフレンチレストラン「きくち亭」での「五人会」のお食事会を控え、大掃除をした。九州国立博物館で6年間環境ボランティアを楽しんだ。その初めの3年間、害虫や温湿度、埃などを見守る環境ボランティアの活動を紹介する3種類の小冊子を編集した仲間たちである。もう何年になるだろう、気の合う5人が時折集まって食事とおしゃべりを楽しむ。お食事会のあと、我が陋屋・蟋蟀庵でコーヒーブレイクをとるのが恒例になっている。

 8度ほどだった朝の気温がぐんぐん上がり、汗ばむような陽気になった。真っ青な初夏の青空を見上げて、ふと歩いてみようと思った。歩けそうな気がした。
 股関節を傷めて以来、ずっと禁じていた博物館裏山の散策。3000歩を上限と言われて、既に5ヶ月リハビリに励んでいる。朝晩30分、13種類のストレッチと2キロのウエイトを足首に巻いて7分間の足上げ、週2回整形外科に通って、10分間のマイクロ波照射、30分のマッサージとストレッチ、3キロの負荷をかけて7分間の足上げ……その成果を信じ、試してみたいという気もあった。

 ショルダーバッグを担ぎ、レンズ2本とカメラを提げて歩き始めた。股関節周辺の筋力を鍛えて動きをカバーするリハビリだが、股関節自体の痛みが取れたわけではない。「京都の階段と坂道を、8000歩も歩いたじゃないか……」と言い聞かせながらも、多少の不安がないわけではない。
 団地を抜け、89段の石段を上がる。いつもよりゆっくりしたペースを保ちながら、股関節を捻らないように気を付けて歩く。博物館の脇を抜け、湿地帯の谷間の散策路にはいる。四阿でひと息入れ、イノシシに2度も遭遇した小暗い径を進むと、やがて106段の九十九折れの階段になる。
 「大丈夫、歩いてる!」
 一旦車道にあがり、すぐに左に折れて山道にはいる。孟宗竹の枯葉がくるくると螺旋を描きながら降る山道が無性に懐かしかった。竹林から檜、そして雑木林と変化する緩やかなアップダウンを、風に吹かれながら辿った。嬉しいことに、いつもの場所に、5か月前に置いたままのマイストックの枯れ枝が待ってくれていた。今日も、人っ子一人通らない秘密基地への私の散策路だった。時折ヒカゲチョウが樹幹に舞うが、カメラを向ける間に飛び去ってしまう。
 最後の落ち葉の急坂を、滑らないように落ち葉を払い、足場を固めながら登りあがった。木漏れ日の下に、「野うさぎの広場」が拡がっていた。
 もうハルリンドウはとっくの昔に咲き終っていたが、まだ蜘蛛の巣も張られず、藪蚊もいない静寂の空間だった。

 「来れたね!来てしまったね!!」
 ペットボトルの水を口に含みながら、染み入るような感慨に浸っていた。「いつものように普通に歩きたい!」という、本当にささやかな希望が叶えられないじれったさに、5ヶ月も苛まれていた。少し気短になったのは歳のせいもあるが、こんな小さな希望が満たされないストレスもあったのだろう。

 木漏れ日を吹き渡る風に微かな野性を感じながら、満ち足りて帰途に就いた。バッグに下げたカウベルがリンリンと鳴る。
 湿地の道端で、懐かしいイシガケチョウが翅を休めていた。近畿地方を北限とする蝶である。おぼろ昆布のようなその姿も、徐々に生息圏を北に広げつつある。クローズアップ機能付き望遠レンズの出番だった。風に吹き倒されそうになりながら、翅を閉じたり開いたりして、暫く私の「散策路復帰」を祝ってくれていた。

 帰り着いた歩数計は7230歩を示していた。距離にすれば3.5キロほどしかないが、89段と106段の階段の上り下りと山道である。2時間かけてゆっくり辿った散策路は、私にとっては復活への助走路でもあった。
 欠かさず続けているリハビリ・ストレッチの成果だろう。股関節の賞味期限が少し延びたかもしれない……そんなことを思いながら、頑張った股関節を労わり、撫で摩っていた。

 普通であることが、こんなに嬉しいものだとは……!
                (2018年5月:写真:道ばたに憩うイシガケチョウ)