蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

仏に吹く風ー追想のバリ・その3ー

2005年06月10日 | 季節の便り・旅篇

 椰子の木をまじえた粗い木立の向こうに、圧倒的な存在感で巨大な石造りの建造物が立ち上がった。一瞬絶句した。頭の中の物差しで実寸の知識はあったけれども、眼前に聳え立ち上がる遺跡は想像を遙かに超えていた。世界最大の仏教遺跡・ボロブドゥールがそこにあった。

 その存在を知って10年、カンボジアのアンコール・ワット、バンコクのワット・アルン(暁の寺)と並んで、心の中で暖めながら次第に憧れが膨らんでいった遺跡を、今ようやく自分の目で確かめようとしていた。先を越して学生時代に訪れた上の娘が、現実の情報をいろいろとインプットしてくれたお陰で、インドネシア・ジャワ島への憧れはもう抑え切れないところまで高まっていた。(この時点では、バリ島はまだ「序でに立ち寄るリゾート基地」という存在でしかなかった。)
 憧れがあまりに長いと、遭遇したときの現実味は逆に希薄になってしまう。かつてバンコクでワット・アルンの急傾斜の石段に立ったときがやはりそうだった。三島由紀夫の小説で知ったあの「暁の寺」が殆ど現実味のない実像としてそこにあった。耳たぶから滴る汗にうだりながら、華麗にして重厚な塔を見上げて呆然と言葉を失っていた。
 バリ島のデンパサール空港からガルーダ・インドネシア航空のジェットでジャワ島のジョクジャカルタに飛んだ。小さな海峡を渡ると、眼下に森林と畑の広がるのどかな田園風景を垣間見ながら、雲の間をすり抜けていく。円錐型の鋭い山容が幾つか雲を突き抜け、この島が火山島であることを肯かせる。小一時間のフライトで空港に降り立ち、マイクロバスで一時間余り揺られてきたはずなのに、何故かその間の風景などの記憶が欠落してしまっている。その翌年、再度同じコースを走ったときもやはり同じだった。おそらく心は既にボロブドゥールに奪われてしまっていたのだろう。
 最上段のストゥーバの先端だけを残して火山灰に埋もれていたのを長い年月をかけて発掘し、その全容が現れたのが1835年。周辺が歴史公園として整備され、本格的に観光客を受け入れ始めてから、まだ10年の余しか経っていない。
 一辺113メートルの方形二層の基壇の上に、下四層の方形回廊、上三層の円壇を重ねて、高さ34メートル、九層の回廊の総延長10キロという数字の上の寸法では図り知れない圧倒的な存在感で、それは聳え立っていた。
 地下の一層を含めた二層の基壇部分は「欲望の界」、その上の四層の方形回廊は「有形の界」、そして最上階三層の円壇は悟りの「無形の界」という。回廊の壁面に隙間なく彫られた1460ものレリーフを全て見尽くすには、あまりにも時間が足りない。
 悪行の数々を描く地下の第一層(分別善悪報応教)、釈尊の生涯を表す第一回廊(方広大荘厳教)、善財童子が普賢菩薩に出会うまでを描く第二、第三回廊(大方広仏華厳教入法界品)…そんな知識は後刻ガイドブックを読み直して得たものであって、その場ではただひたすら圧倒されるばかりだった。帰って見直そうとやたらにシャッターを切りながら、信仰がもたらす巨大な力に、敗北感に似た思いで打ちのめされていた。
 回廊のレリーフの上部に彫られた仏像の表情も捨てがたいものだった。円壇に置かれた数え切れないほどのストゥーバの石の格子の中に一体ずつ納められた仏像が素晴らしかった。ひとつひとつの方形や菱形の格子を覗きながら、眩しい熱帯の日差しの影を格子状に身体に置いた仏体を拝するうちに、不思議な静謐が心に宿り始める。信仰の有無とは全く違う次元で、ひたひたと心に寄せてくるものがあった。
 中央のストゥーバを背に、見晴るかす広大な風景が心の静謐の上に豊かな安らぎを拡げていく。吹く風さえどことなく爽やかに感じられて、心は限りなく幸せだった。
 およそ1200年の昔、この地にシャイレンドラという仏教王国が栄えた。その歴代の王達によって築かれた世界最大にして最古の仏教遺跡・ボロブドゥール。憧れ続けて10年の歳月を一気に飛ばして、限られた旅のひとときが終わろうとしていた。
 戦禍の傷跡癒えず、無数の地雷がいまだに住民の命を奪い続けるカンボジア・アンコール・ワットはようやく旅人への門戸を開いたが、まだ不安がつきまとう。戦禍に加えジャングルの営みと後を絶たない盗人が荒廃を進めている。
 それに引き換え、日本の国際協力事業団を含む世界中の智恵と資金で整備が進むボロブドゥール、そして訪れるのに何の不安もないインドネシアのお国柄が嬉しい。仏の大慈大悲が、今も注がれ続けているということなのだろうか。
 人は皆何かを信じて生きている。それは決して既成の神や仏でなくともいい。十字架やご神体や仏像でなくともいい。朝日に頭を垂れ、夕日に感謝し、日々何か大きなものに生かされている自分にふと気が付いて謙虚な気持ちになる、そして周りの人達に少しばかり優しくなる…そんな信仰に似た気持ちがあってもいいのではないだろうか。
 仏に吹く風に包まれて、ひとつ自分が大きくなったようなきがしながら、まだ強い日差しの中をボロブドゥールを後にした。
          (1997年年10月:写真:ボロブドゥール遺跡)

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