夕方の買い物の帰り、いつもと違う裏道へ。気をつけないと行き止まりになるところもある。木の香りがする。木工所があった。そして、小さなお花屋さんも。ほおずきを売っていた。ほおずきは懐かしい。種を上手に抜いて、ほおずきにしたがうまくならせない。これが子供には難しかった。時々、活けておくと、蚊に刺されてしぼんでしまうこともあった。
NPOの記事を書いていたが、なにかしっくりいかない。「サッカーを生涯現役で続ける極意」ということなのだが、60歳以上の人たちが「全国大会を目指すのが一つのモチベーションになるし、頑張れる」という意見を書いている。どうも、そうですね とは言えなかった。70過ぎて、競技志向だけでサッカーを続けられるだろうか?サッカーってそんなものなのだろうか?JFAの冊子をもとに考えているが、記事は止まったまま進まない。
そんな時に思い出したのが、2度の脳卒中でサッカーができないかと思われた人がリハビリでピッチに立てたというメールだった。それはいただいた時よりも、今回読んだ時のほうが、感動し涙が出た。人との争いなどではない。自分の中にあるサッカーへの想いとの闘いだろう。
人は意外に自分の心の深い部分にある想いに気が付かずに、必死で生き抜いていることがある。それは生活が(生きることが)主であるあと時は、特に気が付かないかもしれない。子育ても終わり、人生に一息ついたときに気が付くものかもしれない。何かを続ける極意というよりは「意味」を。自分が大事に想うもののために、人は頑張れるのだろう。大事に想うものがあるということは、すばらしいことだなぁ と思った。
でも、私は何のためにがんばってきたのだろうか?「?」マークしかつかないのが、かなしいー。