久しぶりに、しばらく余韻が残る本を読んだ。
姉が送ってくれた荷物の中に、この本が入っていた。
それまで、重松清という作家のことも知らなかった。
表題作を含め、8篇の話が入っている。
その全てに、『村内先生』が登場する。
村内先生は、中学の国語の教師で、非常勤としていろんな学校をまわっている。
もっさりとした中年の、冴えないおっさん風の村内先生は、ひどい吃音で、カ行とタ行と濁音が、恐ろしくつっかかる。
生徒は驚き、笑い、中にはあからさまに軽んじた態度をとる生徒もいるけれど、村内先生は平気だ。
国語の非常勤というのは表面だけで、実は彼はひとりぼっちの生徒のそばにいてあげるためだけに存在している。
寂しくて、そしてひとりぼっちだと認めてしまうことが怖くて、素直になれない生徒のそばに、村内先生は寄り添う。
「僕は、うまくしゃべれません。だから僕は大切なことだけを言います」
説教もしない、励ましもない、その生徒の少し斜め後ろあたりに先生はいて、言葉少なに見守る。
最初は反発する生徒が、次第に先生の本気の思いに、少しずつ心を溶かしてゆく。
そしてある日突然、先生はそこを去ってゆく。
みんなの前で、わざと失礼な質問ばかりする生徒に、村内先生はおだやかに正直に答え、最後にこう言うのだ。
「先生がほんとうにこたえなければならない生徒からの質問は、わたしはひとりぼっちですか、という質問だけなんです。
答えは一つしかないんです。そのために先生は、お父さんやお母さん以外のオトナの中で、みんなの一番そばにいるんです。先生がそばにいることが、こたえなんです」
重松清さんは吃音なのだという。
教師の資格をとりながら、吃音のためにそれを諦めたと書いてあった。
重松清さんは、小説の中で村内先生となって、村内先生が寄り添った生徒の数より多くの読者に、大切なことを気づかせてくれていると思う。
多くの人が、それぞれ痛みを抱えて生きているだろう。
私にも、あまり人には言わない痛みがある。
同じ痛みを知っている人だけが、やさしくなれるとは思わない。
そうだとしたら、すべての痛みを体験しなければ、思いやりのある人間になれないことになる。
想像力があれば、人を思いやることができるはずなのだ。
ただ、痛みを知っている人は、そうでない人よりも少しだけ、その痛みで苦しむ人の近くにいることができるかもしれない。とは思う。
最後に、村内先生の言った言葉。
「僕は、正しいことより、大切なことを教えたくて先生になりました」
読み終わっても、手元においておこうと思う。
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