太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

イエス、ノー

2019-07-06 07:46:41 | 日記
オフコースの歌に、「Yes No」ってあったなあ。
20年近く前だけど。

♪きみを抱いていいの
好きになってもいいの

おとめごころにプスっと刺さる歌詞を、小田和正は書いたよなあ。

今日、言いたいのはそれじゃなくて。

6,7年前になるが、
夫の両親と一緒に家で夕食を食べたあと、デザートにアイスクリームが出た。
桃を切っていたシュートメが、アイスクリームに桃を添えるかどうか
私に聞いた。
「わー。今年初めての桃だ、うれしいなあ」
と私が言うと、シュートメはにこりともせずに、言った。

「Yes ?  or  No?」

いや、だから、うれしいなあというのはイエスの意味でしょう。
というのは日本人の考え方。
日本人は、イエスもノーもオブラートに包むように育っている。
とりわけノーは、なるべく直接ノーと言わないようになっている。
商談でもなんでも、
「ちょっと考えさせてください」
と言ったら、それは遠まわしにノーなのだと、日本人以外にはわからない。

でも、たかが桃で、
そんなに怖い言い方で聞かなくたっていいじゃんか。
そのとき私はそう心で叫んでいたのだけれど(桃は食べた)
あれから6年あまり。
私はときどきではあるが、イエス オア ノー?と言いたくなるときがある。
 
昨年から州の法律で、プラスティックバッグが15セントになった。
職場でレジスター担当の日、すべての人にバッグが必要かどうか聞く。
日本人のお客様に多いけれど、それに限らず、はっきりしない人がいる。
「15セントとるの?」
と言ったきり、なにも言わない。
「バッグがあったら便利だけど」
と言ったきり、黙っている。
それで、私は聞く。
「イエス? オア ノー?」
ただし、なるべくやさしく言うようにつとめている。
それを言うとき、
心の片隅に小さなイライラ虫がいるのを知っているからだ。

ここ数年、シュートメはずいぶん丸くなった。
住まいが分かれたのもあるだろうし、
仕事をリタイアしたのもあるだろう。
アメリカで暮らしているうちに、
私もイエス、ノーが以前よりもいくらかはっきり言えるようになった。(むろん、いつもというわけではないにしろ)
けれど、はっきり言わないでおく日本人の心も
それはそれで大事にしたいと思うのである。




日本のパン屋

2019-07-06 02:29:36 | 食べ物とか
日本の恋しいものトップ3は

1.パン屋
2.コンビニ
3.100円ショップ

私にとってパン屋とは、日本のパン屋だ。
ハワイには、地元のパン屋がない。
スーパーの中で焼いているパン屋は、
バゲットとかくるみパンとか、砂糖たっぷりのドーナツぐらい。
サンジェルマンという、老舗のパン屋が最近店を閉めた。
そこは日本のパン屋に近い、日本人の憩いのパン屋であっただけに
非常に残念だ。

ホノルルまで行くと、日本人がやっているパン屋がある。
そこは正真正銘、日本のパンが並んでいる。
3日に1度は行きたいぐらいなのだが、なにせ遠い。
そんなとき、うちの比較的近所に、韓国人経営のパン屋ができた。
店は小さいし、パンの種類も少ないけれど、日本のパンだ。
オーナーによれば、韓国は日本のパン屋を真似ているのだとか。
せっかくできた貴重なパン屋がつぶれないように、人に宣伝し、
毎週のように通っている。
そうしているうちに、行くといつもオマケのパンをくれるようになった。

オマケでくれた、二種類のソーセージが入ったパンを
翌日、同僚の一人にあげた。
「なにこれ!!こんなパン、見たことない!」
そう言って食べて、
「おいしいーーーーーーっっっっっ!!!」
あれから何日たっても、まだそのソーセージパンの話をするのだ。
ソーセージパンなんか、珍しくもなんともないのに。
地元民は、こういうパンを知らない。
彼らを日本のパン屋に連れていったら、目をむくことだろう。
焼きそばが入ったのや、ピザ風のパン、
くるくるツイストした中にクリームが詰まったのや、
ケーキドーナツはそれほど甘くなく、外側がカリッとしている。
生クリームとイチゴがはさまったサンドイッチは私の好物だ。
バナナのオムレツロールも捨てがたい。

友人情報によると、
サンジェルマンにいたパン職人が、自分の店を出したらしい。
まあ、場所はホノルルなんだけれど、
今度出かけたら要チェックだ。

「日本人はお米ばかり食べるのかと思ったけど、パンも食べるんだね」
同僚がそう言った。
そりゃそうだ。
でもそれは『日本のパン』であって、あなたたちが食べるパンは
それほど興味がないのだよ。

昨日、韓国人のパン屋に寄ったら、閉店間際でもあり全部売り切れていた。
オーナーは申しわけなさそうに謝るけれど、
これなら店が順調に存続してくれそうでよろこばしい限りである。