太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

ダラ人間の薬

2022-10-17 16:24:23 | 日記
月曜日は、私一人だけの休み。
1年がかりでようやく週に3日の休みを手に入れた。これで思い切り創作が進んで、ばんばん売れまくるぞ!という誓いを鼻息荒くたてた。

しかし実際はどうだ。
金曜土曜の休みは夫と一緒なので、早起きしてビーチに行き、翌週の食料を買い込んだり、普段しない料理をいくつかしたり、あいた時間は一緒にテレビなんかをみたりして、何もしない。
金曜日は、「明日やればいいさ」と思い、気楽な気分でそのまま寝るが、土曜日も金曜日の繰り返しで、「明日は仕事だし、月曜日の休みにやればいいさ」と思って寝てしまう。

そして月曜日。
6時に夫がでかけた後は、まるまる1日私の時間。
コーヒー淹れて、YouTube見て、ちょっと体操して、掃除なんか始めて、気が付けばお昼近い(なぜ?)。
頭の隅に、作りかけの作品がある。
いや、あるのは頭の隅だけじゃなく、実際にデスクの横に置いてある。
やらなきゃ、やらなきゃ、と思いつつ、夫が帰ってくる30分ほど前にのそのそと始めたりする。それでも手をつければ良い方だ。

たとえば今日。
今日こそ丸一日創作三昧の予定だった。
が、数日前に夢にマイクが出て来て、81歳という高齢でもあり、もしやマイクに何かあったのではと思って連絡したら、元気にやっていた。
これも何かのメッセージかと思い、何か月ぶりかでマイクとお昼を食べることにし、アラモアナまで出かけた。
帰りに、うちの村のトヨタに寄った。
7月に持ち込んだ車の、リコールのペイント塗り直しの連絡がいまだに来ないので確認。
しばらく待たされて、結局、折り返し電話します、という、何度聞いたかわからない答えだけ握らされて戻ってきた。
帰宅したら、2時半。
庭に水まきをして、猫を少し外に出して、シャワーを浴びて、アイスティーなんぞを作っていたら、もう4時(だからなぜだ?)

一応、キャンバスをデスクの上に出した。
カヌーを入れようとしている部分に、カヌーのスケッチを置いてみる。
すると猫が、敷き替えたばかりの階段のカーペットで爪をとぐ音がして、飛び出す。
再びキャンバスに向かい、ボーっとした挙句、ブログなんかを書いている。


試験勉強のときに、部屋の模様替えを始めたり、机の引き出しの整理を始めたりするあの心理。
それは私だけではないと思うけれど、私は特にその傾向が強い。
夏休みの宿題も、1度もきっちりできなかったのもそうだし、日曜日の6時半のサザエさんを、宿題を終えてから見たことは1度もない。
ということは、私のこのダラ人間ぶりは半世紀近いキャリアがあるというわけだ。
それなのに、私はまだ自分をわかっておらず、どこかで過信している。
週休三日になったって、週休二日のときと何も変わらない。
仕事を辞めたって、きっと同じことだ。
ダラ人間につける薬があるとしたら、余計な時間を与えないことに限るのだが、忙しいのは嫌だしー、と思っている私はつける薬のない見事なダラ人間なのである。








いくつになっても結婚したい

2022-10-17 08:44:09 | 日記
夫の叔父の父親が再婚した。
叔父は叔母の連れ合いで、ジョージア州生まれの65歳。
父親は88歳の牧師。
2年前に妻に先立たれ、誰もがそのまま余生を過ごすのだと思っていたが、突然再婚すると宣言し、周囲を驚かせた。
花嫁は80歳。
先週、叔父叔母がジョージア州で行われた結婚式に参列してきた。


父親が再婚すると言い出したとき、きっとみんなが思った。

『今さら結婚なんかしなくても、ただ一緒に暮らせばいいじゃないか』

私だって、一瞬そう思った。
年齢を思えば、あと10年も、というのは難しい。
けれど、残された時間が多くないからこそ、結婚したかったのだろうな、と思い直した。


私は自分が離婚して初めて、何度も結婚する人の気持ちがわかった。
悪いのは相手であり、結婚そのものにはまったく懲りていない自分に驚いた。
私なりにいつも一生懸命に生きてきたけれど、振り返ったら何も残っていなかった。
その時私は40歳だったが、前の相手と関わってきた18年間を取り戻したかった。

何もしないまま、老後に突入してなるものか!

という、ほぼ意地で馬車馬のように人生を切り開いていったわけだけど、それはリベンジだけではなく、私は単に結婚が好きだったのだと思う。
恋愛には約束がない自由がある。
結婚には約束という束縛がある。
私はたぶん、約束が欲しいのだ。



心は肉体の年齢に常に置いてきぼり。
自分が80になって、一人でいて、好きだなと思う人が現れたら、心はまだ40代ぐらいだから、その人と結婚したいと思うかもしれない。思うような気がする。
60代に片足突っ込んでいる今、自分の年齢に今一つピンとこないように、
80になっても、私は80であることを受け入れていないのではないか。


叔父の父親と、その相手の人も、結婚が好きだったから結婚したのだ。
それは互いの前の連れ合いとの結婚がどうであったか、ということにはまったく関係がなく、単なる新しいシーンが始まるだけなのだろう。
一人の人と添い遂げるのは大きな幸せ。
いくつになろうが、結婚したいと思う人がいるのも大きな幸せ。
叔父の父親が、1年でも長く幸せに暮らせますように心から願っている。