太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

「太陽と毒ぐも」

2023-06-21 10:06:28 | 本とか
角田光代さんの作品は、小説もエッセイも好きだ。
日常エッセイもいいが、一人でふらりと外国に出かけていく旅ものは、私がそういう旅をできないタイプの人間であるゆえに、憧れがあり、興味が尽きない。

「太陽と毒ぐも」は、三十代の同棲している男女の物語が11編収まっている。
たまにしか風呂に入らない女、やたらとある記念日で男を縛る女、買い物依存の男、迷信を信じている女、熱心な野球ファンの男、食事代わりにジャンクフードを食べる女、酒乱気味の女と下戸の男、初めて一緒に外国に行って険悪になった二人・・・
どの話も、若気の至りというほどには若くないが、まだ充分にやり直しができる三十代で、物語の主人公たちのジタバタを微笑ましく読めてしまう。



私は同棲をしたことがない。
それは地元の静岡では実家に住んでいて、美大時代の2年間は東京で姉と同居していたからに他ならない。
もしも私が一人暮らしをしていたなら、私は同棲を、あるいはそれに近いことをしていたと思う。私はそれほど恋愛経験はないが、いったん恋愛したら猪突猛進、毎回とことん本気で入れ込んでしまうところがある。

あ、そういえば同棲をしようとしてできなかったことは、あった。
離婚したあと、若い恋人と結婚する気満々でアパートを借り、一緒に暮らし始めた途端、相手の態度が冷たくなって、滅多に寄り付かなくなった。
だから、そのアパートで暮らしていた2年間は、あっさりと振られるまで結婚を夢みて相手に縋っていた、みじめな2年間だった。



小説の中の男女を見ていて、思う。私は同棲などしなくてよかった。
私はいつだって結婚をしたかったから、結婚が延長線にない同棲は、心をすり減らすだけだ。
それに同棲は、あまり結婚のお試しにはならないと思う。
今や離婚は全く珍しくもないが、それでも勢いでできるものでなく、手間もストレスも半端ない。
いつでも解消できる同棲は、腰かけ気分の中途半端な覚悟と勢いで始められてしまう。
一緒に暮らし始める時は恋愛のピークだから、何もかもがバラ色で、この先二人に暗雲などあろうはずもないと思っているが、必ず「おや?」と思うことが起きて来る。

誰かと暮らすということは、起きて来る望ましくないことに、どう折り合いをつけていくかの連続であろう。
譲歩したり、懇願したり、責めたり、諦めたりして、じゃあなぜそんな思いをしてまで一緒にいるのかといえば、それを上回る幸せなことがあり、何かを乗り越えることが、少しずつ自信と信頼になっていくからだと思う。



この小説の中の一つに、友人たちに「あいつとは別れろ」と言われている人がいる。浮気する、甲斐性がない、ヘラヘラしている、嘘をつく、そんな男を、主人公も大嫌いだと思う。
けれど、大好きなだけではうまくない、好きなのと同じぐらい、それ以上嫌いでないとだめなのだ、と言うのだ。

『ときおり、ほんのたまにだが、仕事を終え、でろでろに疲れてアパートに帰る時、ああ、あいつが死んでいてくれないかと思うときがある。ドアを開け、そこでくたばっていてくれないか、そうしたらどんなにかすっきりするだろうかと』(小説より)

この話の結末は書かないでおく。
同棲だから、くたばってくれたらなんて思えるのだとしても、大嫌いなんだけど一緒にいる、というのは、大好きだから一緒にいる、というより余程深い気はする。



相手とまったく向き合わずに失敗した前の結婚を教訓に、今の夫とは、逃げずに向き合ってきた。
逃げずにいると、毎回同じところで躓く。嫌味を言う、嫌味な態度をとる、相手に反省させようと試みる、など、やることは姑息だが、私はそれが嫌なのだということを伝えている。
嫌なのに何も感じていないふりをし続けていると、こんなことができるのは私だけだという方向に向かってしまい、肝心なことからどんどん離れていく。
もうそんなことは繰り返さない。

そうして一緒に暮らしているうちに、私が嫌だと思うことは、悪いことではなくて、単に「違う」ということだったのだと気づいていく。
いろんな色で人が構成されているとして、その中のある色が、私の嫌いな色だというだけだ。
その色が見えるたびに、いちいち「それは嫌い、私はその色を持ってないし」と私が言う。そういわれても相手はどうしようもない。私も、相手が嫌いな色を持っているのは同じで、お互い様だ。

みんな違って、みんな、いい(みつを)

ここに落ち着くつもりはなかったけど、まあ、そういうことだ。
加えるなら、嫌は嫌でいい、かな。
嫌が平気になったらそれに越したことはないけれど、無理することはない。ああ、私はこれが嫌だと思ってるんだな、と毎回思いつつ、それでもいいんじゃないかと思っている。