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「国際連盟脱退通告」に見える大日本帝国政府の傲慢による孤立化

2025-02-26 18:48:19 | アジア・太平洋戦争

 神聖天皇主権大日本帝国第2次若槻礼次郎内閣(1931.4.14~12.11)関東軍による1931年9月18日の柳条湖事件に始まる満州事変」に関し、1933年2月24日国際連盟リットン報告書を骨子にした「対日勧告案」を総会で審議した。結果は賛成42対反対1(大日本帝国政府のみ)で採択された。これに対し松岡洋右代表は、「大日本帝国政府は今や日支(中華民国政府)紛争に関し連盟と協力する努力の限界に達したと感ぜざるを得なくなった」と述べ退場した。大日本帝国斎藤実内閣(1932.5.26~1934.7.3)は1933年3月27日付の電報により、国際連盟脱退の意思を通告した(通告の日より2年後の1935年発)。通告電報によると脱退理由は以下のようである。

「……。昭和6(1931)年9月日支(中華民国)事件の連盟付託を見るや、帝国政府は終始右確信に基づき、連盟の諸会議その他の機会に於て連盟が本事件を処理するに公正妥当な方法を以てし、真に東洋平和の増進に寄与すると共に其の威信を顕揚せんが為には、同方面に於ける現実の事態を的確に把握し、該事態に適応して規約の運用を為すの肝要なるを提唱し、就中支那(中華民国)が完全なる統一国家にあらずして其の国内事情及国際関係は複雑難渋を極め、変則例外の特異性に富める事、従って一般国際関係の規準たる国際法の諸原則及慣例は、支那(中華民国)に付いては之が適用に関し著しき変更を加えられ、その結果現に特殊且異常なる国際慣行成立し居れる事を考慮に入るるの絶対に必要なる旨力説強調し来れり。然るに過去17カ月間連盟に於ける審議の経過を徴するに、多数連盟国は東洋に於ける現実の事態を把握せざるか、又は之に直面して正当なる考慮を払わざるのみならず、連盟規約其の他の諸条約及国際法の諸原則の適用殊にその解釈に付、帝国と此等連盟国との間に重大なる意見の相違ある事明らかとなれり。其の結果本年2月24日臨時総会採択せる報告書は、帝国が東洋の平和を確保せんとする外何等異図なきの精神を顧みざると同時に、事実の認定及之に基づく論断に於て甚だしき誤謬に陥り、就中9月18日事件当時及其の後に於ける日本軍の行動を以て自衛権の発動に非ずと憶断し、又同事件前の緊張状態及事件後に於ける事態の悪化が支那(中華民国)側の全責任に属するを看過し、為に東洋の政局に新たなる紛糾の因を作れる一方、満州国成立の真相を無視し、且同国を承認せる帝国の立場を否認し、東洋に於ける事態安定の基礎を破壊せんとするものなり。殊に其の勧告中に掲げられたる条件が、東洋の康寧確保に何等貢献し得ざるは本年2月25日帝国政府陳述書に詳述せる所なり。之を要するに多数連盟国は日支(中華民国)事件の処理に当たり、現実に平和を確保するよりは適用不能なる方式の尊重を以て一層重要なりとし、又将来に於ける紛争の禍根芟除するよりは架空的なる理論の擁護を以て一段貴重なりとせるものと見る外なく、他面此等連盟国と帝国との間の規約其の他の条約の解釈に付重大なる意見相違ある事前記の如くなるを以て、茲に帝国政府は平和維持の方策殊に東洋平和確立の根本方針に付、連盟と全然其の所信を異にする事を確認せり。仍て帝国政府は此の上連盟と協力するの余地なきを信じ、連盟規約第1条第3項に基づき帝国が国際連盟より脱退する事を通告するものなり。」(国際連盟協会発行『連盟脱退関係諸文書』)

※「帝国政府陳述書」では、日本政府は満州における日本軍の行動、日満議定書の調印は国際連盟、9カ国条約、パリ条約などの国際条約に違反せず、且満州国の樹立は極東における共産主義の危険に対する障壁であるという自己弁護を展開したものであった。

※日本軍は1933年3月4日熱河を占領、さらに万里の長城南側の華北に侵入、4月には山海関南方の秦皇島北戴河も占領し、5月31日関東軍代表と中華民国政府軍代表との塘沽停戦協定締結により、「満州国」を大日本帝国政府の傀儡国として中華民国から分離した形で、満州事変を終結させた。

※大日本帝国のメディアは、例えば東京日日新聞1931年10月27日付は見出しを「守れ満蒙 帝国の生命線」とし、幣原喜重郎外相と南次郎陸相の大きな顔写真を載せ、「満州・モンゴルにおける日本の特殊権益は、『日本民族の血と汗の結晶』」と政府・軍部の侵略行動を支持・擁護し、国民には戦意を煽った。

(2025年2月26日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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山東出兵・東方会議(大日本帝国政府の中国侵略外交政策)

2025-02-26 00:24:08 | 中国・台湾

 中国に対する侵略(積極)外交政策は、神聖天皇主権大日本帝国第2次大隈重信内閣(1914.4.16~16.10.4)による1915年1月18日の21か条の要求」から始まるが、その後の田中義一内閣(1927.4.20~29.7.1)では、先ず3次にわたる「山東出兵」が行われた。「第1次出兵」は1927年5月、「第2次」は1928年4月で「済南事件」を引き起こしている、「第3次」は1928年5月であり、日本人居留民の保護を名目にしていたが、実は1926年7月に開始された蒋介石国民革命軍による北伐の北上華北、特に東三省への波及)阻止にあった。次に「東方会議」開催(6月27日~7月7日)であった。神聖天皇主権大日本帝国政府の中国侵略外交政策の確立のため、田中(首相兼外相)、森恪(外務政務次官)、芳沢謙吉(駐中公使)、畑英太郎(陸軍次官)、大角岑生(海軍次官)、南次郎(参謀本部次長)、野村吉三郎(軍令部次長)、武藤信義(関東軍司令官)、吉田茂(奉天総領事)が参加し、「対支(中華民国)政策綱領」を発表した。

内容は、要約すれば、満蒙の権益を実力で守るという事であった。➀大日本帝国政府の極東における特殊の地位に鑑み、支那(中華民国)本土と満蒙を区別・分離させ、満蒙を大日本帝国政府の勢力下に確保する事、➁中華民国の全国的統一は見込みなく、中央政府確立は容易ではないので当分各地方における穏健なる政権と適宜接近し、地方軍閥の分裂抗争を助長する事、③不逞分子、不良分子によって、支那(中華民国)における大日本帝国政府の権利利益並びに在留日本人の生命財産にして、不法に侵害せらるるに於ては必要に応じて断然たる自衛の処置に出るという現地保護政策、④単に満蒙における個々の権益擁護にとどまらず、万一動乱満蒙に波及し、治安乱れ該地方に於ける我が特殊の地位、利益の侵害されるおそれのある時は、これを防護・保持するという満蒙分離政策、などであった。

1928年6月には、国民には知らせず「満州某重大事件」とよばれた謀略張作霖爆殺事件」を起こす。

(2025年2月26日投稿)

 

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張作霖爆殺事件(満州某重大事件)に見る神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略体質

2025-02-23 21:39:02 | 中国・台湾

 張作霖(1875~1928)は、中国人の中流農家に生まれた。彼の父は、理由は明らかではないが、地方長官に捕えられ、家を焼かれ他の家族も行方不明となったが彼は逃げ延びた。父が牢獄で死亡したのを知ると、復讐を誓い、馬賊(流賊)の集団を率い、地方長官を襲い家族もろとも殺した。その後日露戦争(1904~05)の際には神聖天皇主権大日本帝国軍と協力して戦い、戦争後は大日本帝国政府軍から譲り受けた近代的兵器と装備によって東三省総督趙爾巽に帰順。16年奉天督軍となり、19年に東北三省の実力者となり奉天軍閥を形成した。その後大日本帝国政府軍の支援を得けて他の軍閥を倒し北京政界を支配し、27年には北京で大元帥となった。しかし、1928年6月、張作霖は蒋介石国民政府の第2次北伐軍との戦いに敗れ、根拠地である奉天へ戻ろうとした時、いわゆる「奉天事件」で命を奪われた。6月4日午前5時30分頃、京奉線(北京~奉天)の上に立体交差して満鉄線鉄橋が架かっていた場所を、張作霖を乗せた京奉線の列車が通った時、満鉄線が爆破され、満鉄線の重い鉄橋の一部が張作霖の特別列車の上に落下し、完全に粉砕した。張作霖はこの車両ではなく、前方の車両におり随行していた将軍と話し合っていた。しかし、この車両も爆弾の破片で大損害を受け、将軍は即死し、張作霖も重傷を負い、自動車で自宅へ運ばれたがまもなく死亡した。首謀者は神聖天皇主権大日本帝国陸軍関東軍河本大作大佐で、河本は張作霖爆殺により東三省満州)における大日本帝国政府の勢力拡大を狙う綿密な計画(陰謀)を立てていた。爆破作業の実行者は東宮鉄男大尉らであり、中国人苦力2人を殺して死体を横たえ彼らの仕業と見せかけようとした。

 1931年9月18日には関東軍は「柳条湖事件」(満州事変の発端)を起こした。中国革命の東三省波及を好まず、軍事占領を画策していた参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、奉天特務機関長土肥原賢二大佐らが計画した陰謀であり、奉天郊外の南満州鉄道(満鉄)線路で小さな爆発事件を起こし、これを張作霖の跡を継いでいた張学良軍の仕業であるとして直ちに奉天を占領し、直ちに全面的攻撃を開始し満州事変に突入した。

(2025年2月23日投稿)

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安倍「戦後70年談話」のあいまいさは歴史修正主義そのもの、人権を保障するための「未来への知恵・教訓」は得られない

2025-02-23 11:22:04 | 安倍政治

 2015年8月14日夜、安倍首相戦後70年談話が発表された。記者会見の冒頭発言や談話の冒頭部分、談話読み上げ後の発言で、何度も強調した言葉に「歴史(の教訓)から未来への知恵を学ばなければならない」とあるが、談話の言葉からは「教訓」も「知恵」も学べない。なぜなら、「学ぶ」という事は、物事を判断しそれに対して何らかの態度を示したり行動をするための糧情報とする事ができなければならないからだ。最初の部分では、明治維新から敗戦までの歴史であるが、いくつかの誰もが割とよく知っている歴史用語が使用されているが、故意に韓国(朝鮮や大韓帝国)や中国(清や中華民国)などアジアの国々との歴史を抜き落としているし、また歴史用語は並べただけなので、具体的に何が問題であったのかが理解できないし、なぜ「力の行使」によって解決する事になったのか、なぜ「国内のシステムはその歯止めたりえなかったのか」を明確にしなければ、未来を誤らないための「教訓」も「知恵」も学びようがない。読み方によっては欧米諸国が日本を戦争へ向かわせたようにも解釈できるし、必然的に侵略戦争ではないという解釈もでき得る。教科書のダイジェスト版にもならないし、誤った歴史認識を広めてしまう。教科書の文章の方がまだマシである。しかし、それが安自公倍政権の狙いであると考えられる事を押さえておかなければならない。

 この談話を出す意味は、時の首相が政府を代表して、現在は安倍首相が政府を代表して、時の日本政府がとった政策に対する認識を、国民に対して、世界に対して表明するという事のはずであるがそのような文章になっていない。今回は明治維新からの内容にしているが、日本政府のアジアへの侵略が「やむを得ないもの」と理解してもらうためなのか、西欧列強も「同じ事をしているではないか」と言いたいためなのか。また、「アジアで最初の立憲政治を打ち立てて独立を守り抜きました」とあるが、「アジアで最初」という事を誇りたいためか。それよりも、神聖天皇主権大日本帝国政府ドイツ風憲法を制定するために、「自由民権運動」を警察軍隊という政府がもつ権力よる弾圧で潰滅粉砕したという経過が存在した事を明確にしなければならない。

 また、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」というのは、「日露戦争に勝利した」と言いたいのと「アジアやアフリカの人々のために良い事をした」と言いたいのであろうか。しかし、それは歴史の真実を捻じ曲げた誤った認識である。日露戦争中には韓国の意思を無視して軍事的威圧のもとに韓国侵略「韓国併合」への準備を着々と進めていく。また、第1次世界大戦中には中国侵略「21カ条の要求」を突きつけていく。

韓国併合への道

 1904年2月8日に仁川・旅順のロシア艦隊を奇襲攻撃、10日に宣戦布告後の23日、韓国の「中立声明」を無視し、「日韓議定書」を押し付けた。第1条には「……東洋平和を確立するため、大韓帝国政府は大日本帝国政府を確信し施設の改善に関しその忠告を容れる事」とあり、国際法上からは「忠告」は「命令」と同じで、これによって韓国は事実上日本に従属する事になった。つまり、韓国が自主権の一部を放棄し、重要な国務に対し干渉する権利を日本に認めるとともに、国防を全面的に日本に依存する事とした。調印の際、韓国の強硬に反対する大臣は辞任させて調印した。同年5月の「対韓施設綱領」では、 ➀防備を全うする事、②外政を監督する事、③財政を監督する事、④交通機関を掌握する事、⑤通信機関を掌握する事、⑥拓殖を図る事、の6項目を打ち出した。この綱領は併合までに実現させた。同年8月には第1次日韓協約を結ばせ、「韓国は日本政府推薦の財政・外交顧問を任用する事。重要な外交案件は事前に日本政府と協議する事、とした。

 05年9月のポーツマス講和条約に先立ち、日本は韓国の植民地化に米英の同意を得るため、米国とは同年7月に桂・タフト協定を結び、米国が日本の韓国における支配権を認めるかわりに、日本は米国のフィリピンへの支配権を認める事を、英国とは同年8月に第2次日英同盟協約で、日本は英国のインド支配の安全を助ける義務を負うかわりに、英国は日本が韓国を保護する事を認める事を確認した。日本は日露戦争をきっかけに、米英の「極東の憲兵」になる事により、韓国の植民地化を実行した。同年11月には伊藤博文が韓国皇帝高宗に「この保護条約の原案は我が方で練りにねったものであるから……御承認のない時は現在よりもっと悪い状態になるであろう」と脅し、ソウル市内には日本軍が駐留し、駐留軍司令官を伴って閣議に出席し、大臣一人一人に締結の賛否を聞くという状況の下で第2次日韓協約(保護条約)を結ばせ(総理大臣大蔵大臣は「絶対に否なり」とこたえ、外務大臣は黙秘したが承諾とされ、ほかの4大臣はしぶしぶ同意した)、韓国の対外関係は日本の外務省が処理(外交権の接収)、ソウルに統監府を設置し初代統監には伊藤博文が就いた。

 保護条約締結後、反対した総理大臣は職を追われ、抗議自殺をする廷臣も出た。

1907年、韓国皇帝高宗は、オランダ・ハーグで開催されていた第2回万国平和会議秘密使節を送り、日本の非道を訴えたが失敗。伊藤は保護条約違反として高宗を退位させ、純宗をたて、第3次日韓協約を結ばせ、内政権を接収韓国軍隊を解散した。09年7月には日本政府は韓国を廃滅する方針を閣議決定。10年8月、日本の全憲兵・警察の厳戒の中で、第3代統監寺内正毅と韓国総理李完用との間で韓国併合条約締結。韓国を朝鮮と改称。朝鮮総督府を置き、寺内正毅が初代総督。総督は天皇に直属し、朝鮮での軍隊をも統率し、立法・司法・行政の一切の権力を握った。この権力で日本政府は朝鮮人民を支配し、すべての権利を奪い、植民地とし、その後のアジア大陸侵略の拠点とした。条約の前文には「相互の幸福を増進し、東洋の平和を永久に確保せん事を欲し……」とあり、第1条には、「韓国皇帝は……譲与す」。第2条には「……譲与を受諾す」とあり、韓国皇帝からの要望であるような表現であるが、これは日本政府の強要である事を隠蔽するものである。併合について日本国内では8月29日、官報で国民に発表。諸新聞は一斉に併合を祝した。東京市内は軒並みに日の丸が掲げられ、祝杯をあげた人々が記念の花電車に喜々として乗り込む姿があちこちで見られた。

21カ条の要求

 第1次世界大戦の勃発は大日本帝国政府にとって「大正新時代の天佑」といわれた。元老井上馨は、大隈重信首相に手紙で「今回欧州の大戦争は、日本の国運を発展させる大正の新時代の天佑なので、日本国は直ちに挙国一致の団結によって、この天の助けを利用しなければならない」と伝えた。1914年8月7日、英国は日本に対して、東シナ海で英国商船を攻撃するドイツ武装商船の捜索撃破を要請。大日本帝国政府閣議を開き、加藤高明外相が「日本は日英同盟の義務によって参戦せねばならぬ立場にはない(東亜及びインドにおける領土権又は特殊権益が直接侵害されない限り、日本は参戦の義務を負うものではなかった)。ただ一つは英国からの依頼に基づく同盟の情誼と、一つは大日本帝国がこの機会にドイツの根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高める利益と、この二点から参戦するのが良策」と説明し全面参戦決定。欧米列強の隙を衝いて、中国を大日本帝国政府の独占的な支配下に置く事が目的。英国は依頼を取り消したが大日本帝国政府は受け入れず、23日ドイツに宣戦布告

 中国は「中立宣言」をしていた。開戦と同時に神聖天皇主権大日本帝国政府は、満蒙問題の一挙解決と、中国本土における利権獲得の準備に着手。同年1月18日、21カ条の要求袁世凱大総統に突き付けた。第1号要求では「偏に極東における全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々強固にする事を希望し」とある。大日本帝国政府は外国の干渉を恐れて秘密保持一括交渉を要求したが公然化。大日本帝国政府の軍事力での威圧に対して袁世凱主権侵害の条項(第5号要求は交渉に応じられないと抵抗したため、大日本帝国政府は5月7日、第5号要求を保留としてその他の受諾を要求する最後通牒を突き付けた(回答期限9日午後6時)。大日本帝国政府は海軍艦隊を増派してアモイ、ウースン、タークーに終結させ、山東半島や南満州には陸軍部隊を増派して回答を待った。5月9日、袁政府はやむなく受諾、同月25日、諸条約・交換公文に調印。中国人民は5月7日と9日を「国恥記念日」とし抗議運動を展開。

 ※第5号要求

「中国政府の政府・財政・軍事顧問として日本人を置く事、……中国警察を日華合弁にするか、日本人顧問をおく事、中国軍隊の一定量の兵器を日本から輸入するか、日華合弁兵器廠からの供給を仰ぐ事、など中国全体にわたる諸要求……」

 そのほかにも台湾出兵(侵略)日清戦争による台湾の割譲江華島事件に始まる朝鮮への侵略など多くの東アジア諸国に対する侵略行為が行われた事についての言及がないというのは、その事については大日本帝国政府は「正当な事」と解釈しているという事なのであろうか。「談話」は安倍首相の歴史認識を示しているという事であろう。つまり歴史修正主義という考えの持ち主で、狙いはこれまでの歴史的事実を自分に都合良く解釈しなおしてつなぎ合わせ、日本国民の歴史認識を又歴史教科書を作り変えてしまおうとしているという事なのだろう。安倍氏のお友達の「つくる会」系の育鵬社出版の教科書が今年大阪市でも採択されたが、さらに全国的に普及させるために採択増加運動をしているようだ。この採択ルールには非常に不信感を抱いているがここでは触れない。

 「歴史から学ぶ」という事は、誰が(誰と)いつどこで誰と(誰に対して、誰から)何をどのようにした(された)のかという点について真実を知り、そこから知り得た事実を、現在を生きより良い未来を築くための「教訓」「知恵」として生かす事なのである。

 安倍首相のいう「歴史から学ぶ」の意味がこの談話の内容かと思うとやはり、首相の地位に立つ資格はないと言わざるを得ない。また、国民に向かって物申す資格もないと言わざるを得ない。早く退陣してもらいたい。国民や世界の人々は、戦争によって人生を家族を生活を社会を歪められ壊され苦難を強いられてきた、「もっと解決救済が急がれる切実で具体的な事実」に対し、政権の認識を明確に表明する事を望んでいた。発表に至るまでに国民はもちろん世界の人々の気持ちを振り回してきたのだから。

 満州事変は1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖付近で、関東軍板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らが立案・実行)が満鉄の線路を爆破し、中国軍の仕業であるとして軍事行動を起こした事に始まる。(1932年1月8日、昭和天皇は関東軍の軍事行動を讃える勅語を発表)。第2次若槻内閣不拡大方針を声明したが、関東軍は戦線を拡大。次の犬養内閣は、中国との直接交渉を目指し、軍部の独走や欧米との摩擦を最小限に抑えようとしたが、32年3月1日には軍部は「満州国」建国を宣言。承認を渋っていた犬養首相は海軍将校右翼グループによるテロにより32年5月15日射殺された(5・15事件)。その時のメディアはすべて関東軍の行動を称賛した。そして、犬養射殺から1ヶ月後、衆議院満場一致満州国承認を可決した。32年2月、中国の訴えを受けていた国際連盟の「リットン調査団」が来日したが、報告書が出る前の32年9月には「日満議定書」を交わし、大日本帝国政府は満州国を承認。33年5月31日には関東軍代表と中国国民政府軍代表とが「塘沽停戦協定」を締結し、中国に満州侵略の既成事実を認めさせ、満州国を中国本土から事実上分離、34年3月1日には清国最後の皇帝であった溥儀皇帝とする満州帝国を成立させた。

 ※関東州の租借権、南満州鉄道(長春~旅順)とそれに付属する権利は、日露戦後のポーツマス条約で、清国(中国)政府の承認が必要とされていたが、日本政府は清国の抵抗を押し切り「満州に関する日清条約」(北京条約)を締結し強奪した。

 ※昭和天皇の関東軍の軍事行動を讃える勅語

「先に満州において事変の勃発するや自衛の必要上関東軍の将兵は果断神速寡よく衆を制し速やかにこれを芟討、爾来艱苦をしのぎ祁寒に堪え各地に蜂起せる匪賊を掃蕩しよく警備の任をまっとうし或は嫩江チチハル地方に或は遼西錦州地方に氷雪を衝き勇戦力闘以てその禍根を抜きて皇軍の威武を中外に宣揚せり深くその忠烈を嘉す、汝将兵ますます堅忍自重以て東洋平和の基礎を確立しが信倚に応えん事を期せよ」(関東軍よ、よくやった、即刻の判断に基づいてためらう事もなく敵をやっつけて、わが皇軍の強さを世界中に見せつけたのも喜ばしい事だ)

 ※メディアの関東軍に対する称賛 『東京日日新聞1931年10月27日』

「満州・蒙古(モンゴル)における日本の特殊権益は“日本民族の血と汗の結晶”」と擁護・宣伝し、戦争熱を煽り、軍事行動を支持した。」

 ※リットン報告書(1932年10月1日に日中両国に通達された。)

「日本軍の武力行使は自衛のためでなく侵略行為であり、不戦条約に違反し、中国の主権を侵している。満州国が住民の自発的な運動によるものとは認められない。日本軍が賊と称している者も、大部分が祖国防衛のための行動である」と認定。「単なる現状回復ではなく日中間に新しい条約を締結させ、満州における日本の本来の権益を確保させる事や、満州には中国の主権の範囲内で広範な自治を認める自治政府をつくり、その政府に日本人を含む外国人顧問を任命する方向で解決を図るべきだ」と報告。

 ※日本の国際連盟脱退

「連盟は1932年11月21日から報告書の審議に入り解決策の試案を作成したが、その審議中に関東軍は満州国の領土をさらに拡大するために熱河省に侵略した。33年2月の臨時総会で、日本の満州国承認の撤回や日本軍の満鉄付属地内への撤兵などの勧告案を42対1の賛成多数で採択した(反対は日本、タイは棄権)。日本全権松岡洋祐はこれを拒否し、会場から退場。1933年3月27日に連盟脱退を通告(1935年5月発効)。同日、天皇は脱退に関する詔書を発布した。36年のワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約失効で、日本の国際的孤立は決定的となった。」

 安倍首相談話の中段の部分では、その主語が「我が国は」、「私たちは」となっているが、先にも述べたが、首相談話としてはおかしいし、間違っている。彼は無理矢理に国民を自分と同じ立場に抱き込むために故意に使用していると考えられるが、不愉快である。我々は、国民と安倍政権とは別の物である事を明確にしておかなければならない。侵略戦争は神聖天皇主権大日本帝国政府が加害者として行った事であり、国民は被害者でありながら加害者にされてしまったのである。政府(政権)と国民の責任の程度と内容は異なる。彼の論法は敗戦処理内閣である東久邇宮内閣の「一億総ざんげ」論法をとっている。国民はその論法を認める事はできない。

 米国、豪州、欧州諸国に対し、「支援」と「善意」と「寛容」という言葉を何度も使用しているが、これは、意図的に「へりくだり」、上記の国々人々を持ち上げていい気分にさせる話法であるが、狙いは、言いたい事も言いにくくさせる効果を狙ったものであり、国内外の批判を封じ、彼と同じ立場へ抱き込む論法である。これは偽善者、詐欺師常套手段である。そして、その国々へのお返しとして、「積極的平和主義」なる考えで行動することなのだと自己の政策をアピールしているのである。しかし、中国・韓国に対しては暗に批判し孤立させて、日本に歩み寄らせようとするとともに、安倍政権に批判的な日本国民の政権批判を弱めさせる効果を狙っているのである。捕虜問題の和解と植民地支配の和解とはまったく異なったものであるにもかかわらず同じように扱おうとしており、加害者としてとるべき誠意ある対応を放擲している。

しかし、自由も平等も人権も民主主義も保障されていないうえに、何もできていない(原爆被害補償、空襲被害補償、従軍慰安婦問題、核兵器廃絶など)のに、また、まったく矛盾した事をしている(国旗国歌の強制、靖国神社への参拝、米国の核の傘の抑止力、原発再稼働、安保法制改訂、集団的自衛権行使、教育基本法改訂、教科書検定基準改訂、憲法改訂など)のに、耳触りのよい言葉でアピールするのは、狡猾な偽善者、欺瞞的で非情な人間の手法である。それも国民を自分勝手に仲間に抱き込んだ表現で。

 自分自身の「お詫び」「侵略」「反省」の言葉がないのは、冒頭の植民地支配についての認識にうかがえる「他の国もやっていたのに日本だけが悪いのか」という歴史修正主義の認識であるから、必要ないと考え意図的に使用しないのだと思う。戦後生まれの者は謝罪をする必要がないと若者にアピールしているけれど、若者に謝罪の意識を持たれると軍事行動である「集団的自衛権」は行使できないからである。しかし、戦後を生きる日本人は多かれ少なかれ、戦中に得た富の分配を受け継承にあずかっているのです。逆にアジアの国々は日本の侵略戦争によって多くの富を失い順調に発展できなかったのです。敗戦後、日本は損害賠償を放棄してもらったから。

 国内の戦後補償軍人軍属(戦犯も含む)には手厚い(ご褒美の意味である)が、それ以外の国民には受忍論を押し付けている。戦争に反対した平和を主張した人々、その事によって命を奪われた人々にはまったく目もくれません。名誉回復も行われていません。この事は安倍政権のアジア太平洋戦争に対する認識を示している。戦争を侵略と認めず正当化(聖戦、自衛戦)しているという事である。また、政府として国民には補償はもちろん謝罪さえしていない。国民は天皇に対する当然の奉公であるから。

沖縄米軍(米国)の支配下に譲り渡した事、現在も辺野古新基地建設問題については、どこで歴史認識を明らかにするのか。

 最後に、日本国憲法という言葉がまったく出てこないですね。これも安倍政権が成立をめざす「自民党憲法改正草案」とはまったく別物ですから、当然です。出す気はさらさらなかったという事です。

安倍政権は政権を担当する資格はない。世界をリードする資格もない。

(2015年8月15日投稿)

 

 

 

 

 

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潜伏キリシタン遺産の世界遺産登録は経済効果のためか、国民は学び継承すべき教訓に目覚めよ

2025-02-21 16:50:50 | 世界遺産

 潜伏キリシタン遺跡世界遺産に登録された事を多くのメディア(テレビ各局など)が取り上げている。その取り上げ方は不思議な事に一律で共通しており、登録された事に大喜びをしている事と、その喜びの理由を「経済効果がある」という言葉ひと言で言い表している点に大きな特徴がある。そこには世界遺産に登録されるという事に対するメディアの価値観が端的に現れていると言って良い。これまでの、特に文化遺産に関して言えば、文化遺産を物として外見的な捉え方をするだけであり、それを通してそれを生み出した人々がどのように生きたのか(それはその人たちに対し権力者がいかに対応したのかという事も含むが)やその人々の価値観や思想を理解し、現在の私たちや未来を生きる子孫にとって貴重な教訓にしようとする姿勢態度はかけらも感じさせないものである。それは世界遺産についてお世辞にも真の意味を理解しているとはいえないものである。これは日本国民の最大の欠陥である。

 以下に、神聖天皇主権大日本帝国政府が、長崎浦上村の「潜伏キリシタン」に対してどのような姿勢態度で臨んだのかという事について、農民・高木仙右衛門について紹介するのでそこから教訓を得てほしい。

 「潜伏キリシタン」が国際的問題に発展したきっかけは、1864年12月29日にフランスの力で落成した大浦天主堂(フランス寺)で、65年3月17日に浦上村信徒が名乗り出た事に始まる。当時まだ政権を握っていた幕府は67年7月15日浦上村の信徒約70名を逮捕したが、幕府は政治面でも軍事面でもフランス公使ロッシュに頼っていたため徹底的な弾圧はできなかった。それを示す史料として、その時逮捕された浦上村農民である高木仙右衛門『覚書』がある。それによると幕府長崎奉行・河津伊豆守が仙右衛門に対し改宗を説諭したのに対し、「信教の自由」を訴え「改宗」を拒否したため改宗させられないまま結局「村預け」として釈放している。しかし、帝国政府はそうではなかった。

 帝国政府の「潜伏キリシタン」に対する政策は幕府とは異なり過酷を極めた。1868年3月7日、外国事務係、長崎裁判所(長崎奉行所の後身)参謀に着任した井上馨は「物情騒然たる維新の際、浦上一村をあげてキリシタンである事を騒乱分子として危険視」した。そのため、3月15日、「五榜の掲示」により「キリシタン」を禁じた。そのためそれ以後、外国公使団から「キリシタン禁制高札」の廃止を申し入れられ、「切支丹」と「邪宗門」を書き分ける小手先の改訂をするが、浦上村「潜伏キリシタン」に対しては徹底した弾圧を推進した。

 1868年5月17日には大阪行在所(西本願寺)での御前会議で、浦上村「潜伏キリシタン」の処分を、「一村総流罪」(キリシタンを残さず分散して諸藩に預け改宗させる)と決定した。68年6月7日には太政官布達で浦上村「潜伏キリシタン」の流罪処分が発せられ、7月11日から中心人物114名を津和野藩(28名で高木仙右衛門を含む)、長州藩萩(66名)、福山藩(20名)へ移送し投獄した。70年1月始めには残った村民全員(流罪総人数約3380名)を富山以南の西国21藩に移送し投獄した。

 このような帝国政府の姿勢に対し、各国公使団は直ちに帝国政府に対し警告を発した。71年1月には英国代理公使ウイリアム・アダムズが、右大臣三条実美に対し浦上村「潜伏キリシタン」の待遇改善を申し入れた。それに対し帝国政府は3月にはその要求を受け入れた。さらに、71年12月23日から「岩倉遣欧使節団」が出発したが、訪ねる先の国々で抗議を受けた。72年3月4日には米国大統領グラントから信仰や良心の自由、キリシタン禁制を解く事の必要を勧告された。同年11月27日には英国外相グランウィルからヴィクトリア女王の言葉としてキリシタンの弾圧政策を指摘された。また、仏国外相レミュサやベルギー国蔵相モローや米国国務相フィシュからも抗議を受けた。

 このような事から帝国政府(三条実美)は73年2月24日、キリシタン禁制の高札を撤去するに至る。同年3月14日には太政官布達で「長崎県下異宗徒帰還」を命令し、浦上「潜伏キリシタン」も釈放した。高木仙右衛門はこの間弾圧を耐え忍び、7月9日に帰村できた。しかし、帝国政府はキリスト教を許可したのではなく黙認する事にしただけであった(この事は後の内村鑑三不敬事件でも明確である)。

 津和野藩で高木仙右衛門はどのように扱われどのように抗したのかについては、長崎市本原町お告げのマリア修道会墓地に存する「高木仙右衛門碑文」(1941(昭和16)年建立)に詳しい。そこには「……津和野の冬は寒気稟烈骨を刺す程なるに、翁(仙右衛門)等は単衣の儘にてその冬を過ごし、一枚の布団すら給せられず、一日僅か一合四勺の麥(麦)粥にその飢えを凌ぎ三日或は五日に一度は必ず白州に引き出されて説得を加えられても飽くまで屈せざりければ、三尺牢に閉じ込められて、具に辛酸をなむ、明治二年霜月二十六日の朝の如きは病臥中なりしにも拘らず素裸にされ、氷の張り詰めたる池の中に突っ込まれ、長柄の杓にて容赦もなく、冷水を浴びせられ次第に顔色は蒼黒く舌の根は硬ばり、言葉も自由ならずさすがの翁も今は是までなりと覚悟を定め、天を仰ぎ両手を合わせて一心に祈る、役人等もそれと気遣い命じて池より引き上げしむ、翁は牢内にありても毎日熱心に祈り金曜日毎に断食を行い身をも心をも天主にささげて拷問に堪えるべき力を懇請し、かくして六年の久しきに亘りてよく難萬苦に堪え以て終わりを全うする事を得たり、明治六(1873)年四月放免の恩典に浴し、無事浦上に帰還す、……」とある。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、天皇を神格化し神社信仰・神道を国教として、日本国民の思想的・宗教的統一を確立するために、仏教とキリスト教を弾圧したのである。

 そのような権力者に対して、浦上村の農民・高木仙右衛門は自己の信仰(思想の自由・信教の自由)を守るために命を賭けて抵抗したのである。

 大仏次郎は高木仙右衛門の事を『天皇の世紀』に、「政治権力に対する浦上切支丹の根強い抵抗は、目的のない『ええじゃないか踊り』や、花火のように散発的だった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を一切許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作るためにした事は破壊以外何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題となった点で有名となったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から抜け出て、新しい時代の扉を開く先駆となった事件である。社会的にもまた市民の『我』の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い航跡を残した。文字のない浦上村本原郷の仙右衛門は自信を以て反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個となった。それとは自分も知らず、その上間もなく歴史の砂礫の下に埋もれて、宗教史以外の歴史家も無視して顧みない存在と成って、いつか元の土中に隠れた。明治の元勲と尊敬された人々よりも、真実新しい時代の門に手を掛けた者だったともいえるのである」と評している。

 日本国民は、浦上村「潜伏キリシタン」から何を教訓として学ぶべきなのか。

(2018年7月投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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