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朝日新聞「近代日本の光と影 明治維新150年」:歴史は誇ったり、讃えたり、崇拝したりするためにあるのではない

2018-09-01 20:42:00 | 憲法

 2018年8月22日朝日新聞朝刊に、「近代日本の光と影 明治維新150年」という記事があり、「時代の渦 抗した声にも焦点を」という見出しで「解説」がなされていたが、この解説は理解に苦しむ。つまり、歴史を扱う解説になっておらず、歴史を科学的に研究する姿勢を否定したものであるからだ。それは「歴史修正主義」の立場に立って歴史を解釈利用しているという点であり、歴史の真実を自己に都合よく歪め書き換える立場に立っているという点であり、それは安倍自公政権が好む立場と同じでもある。

 それは簡単に言えばまず、明治維新から今日までの年月を、単純な算数計算で150年経ったという把握をし、それを「連続するもの」としてみなし、それを「近代」という時代区分で「くくり」、「近代日本」とし、その間を「明治維新150年」として理解解釈しようとしているという事である。記事の文章は、

近代日本も、敗戦を機に『二生を経る』コースを歩んだように見える。無謀な戦争に突入した帝国日本(神聖天皇主権大日本帝国のこと)は崩壊し、国民主権の民主主義国家(日本国のこと)として再出発した。実は、このふたつの近代日本が存在することが、明治維新150年の評価を難しくしている」としている。

 今日の歴史学(他の学問分野でも)の常識では、明治維新から敗戦までは「近代」とし、敗戦から今日までは「現代」としている。それを無視しているのである。「無分別」な「無茶」な「評価」をしており、それを「評価が難しい」と嘆いているのである。

 歴史に対するあるべき姿勢は、歴史から「り」を得ようとしたり、讃えたり崇拝する事ではない。しかし上記のような立場(歴史修正主義)をとるために、記事では、「明治維新によりアジア初の近代国家を造ったことは、国民の大きな誇りになってよい経験だろう」と私情を入れているのである。ただ、歴史修正主義の立場に立った文章である事に負い目も感じ居心地が悪いためであろう、そのためにその文章の後に続けて「しかし、単純にそれを讃えるには、その後の植民地支配や侵略戦争の過去が重い」と付け加えている。しかし、「讃える」私情は押し通したいのである。そのために非常におかしな文章になってしまっているのである。

 その後に続く文章を見ても明らかである。それは「どこで日本は針路を誤ったのだろうか。それとも明治の出発点から問題をはらんでいたのか」というものである。支離滅裂な文章となっているのである。

 ついでながら付け加えておくが、「明治天皇」の像を載せているが、これは偽造であり、真実の顔ではないというのが定説であるが、それを知った上で載せている(大メディアとして知らないという弁明は通じない)のは、読者はもちろん主権者国民への許せない欺瞞である。

 

 

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東京地裁決定(国有地売却データ保全却下)は職権の私物化、安倍政権の不正売却証拠隠滅行為に共謀する国民主権蹂躙の憲法否定偏向判断

2017-06-04 15:49:15 | 憲法

 学校法人「森友学園」への国有地売却問題を明らかにするため、NPO法人「情報公開クリアリングハウス」が、財務省と近畿財務局が持つ電子データを証拠として保全するよう申し立てたが、東京地裁(古田孝夫裁判長)は2017年5月31日、「却下」決定した。

 ちなみに財務省は2日までに当時使用していた情報システムを更新した。財務省は運営を委託しているNECに対して、7月31日までに消去するよう要請している。

 ところで、問題視しなければならないのが、「却下」決定の理由である。東京地裁は「森友学園への国有地売却問題」の重要性を故意に無視しているとしか考えられない。なぜなら、その決定理由が、「無関係の文書やデータも含めて網羅的に検証しなければならない」「必要なデータが具体的に特定されていない」「検証の目的も特定されておらず、不適法だ」という内容だからである。

 これは一言でいえば、「邪魔くさい事はできない」という事でしかない。そして、先のNPO法人が2月下旬~3月上旬に財務省や近畿財務局に対し、森友学園との交渉経過を記した行政文書などの公開を求めたのに対し、同省が「文書の保有が確認できない」という理由で請求を退け(拒否?)、国会の場においても「売買契約を結んだ後に文書データを廃棄した」と答弁した事態をまったく考慮していないだけでなく、国民に対して「事実を明らかにする使命」を自覚したものとは考えられない内容である。裁判官の職権を私物化するものであり、憲法の定め(第6章司法第76条3項「裁判官の独立」)に違反するものである。

 さらに踏み込んで言えば、東京地裁の「却下決定」は「安倍政権による国有地不正売却」の証拠を隠蔽する事を意図して出されたものと見做す事ができる。財務省はこの東京地裁の「決定」を「お墨付き」とみなし「データ消去」を完了した場合、安倍政権による公務員ぐるみの「国有地不正売却」は「完全犯罪」となるのである。 

 この事が罪に問われずまかり通れば、政権を首謀者とする公務員は味を占めて今後形を変えて何度でも、また、別の部門でも行うであろう。そして、政権(行政)は情報公開法を無視し、知る権利も認めなくなるだろう。政権(行政)は国民主権をも奪うつもりなのである。国民は主権者として必ず真実を明らかにし、この国有財産の不正売却に関わった公務員や関係者を罪に服させなければならない。そして、裁判官に対しても、特別視する必要はなく、彼らも同じ「人間の子」であるという認識を新たにし、国民にとって望ましい裁判官を育てる事を忘れてはならない。

 ※ドイツの憲法裁判所長官のことばを大切にしたい。

国家(政府・政権)の人権侵害から市民の権利を守る事が我々の任務である

 

 

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オルタナティブ・ファクト判決(憲法を基準としない判決、判断しない判決)は憲法違反・職責不履行、裁判官として失格

2017-04-13 20:32:01 | 憲法

 近年の裁判判決には、「憲法を基準としていない」判決や、「憲法判断をしない」判決が横行している。それらに共通した特徴は、法的判断をつかさどる専門家裁判官とは思えない国民を馬鹿にしたような非論理的な屁理屈を弄し、憲法で保障している国民の基本的人権を認めず、被告(安倍政権や日本維新の会など政権側)が推進する大日本帝国回帰の政策を、結託して強引に正当化するところにある。たとえば、大阪高裁が「君が代起立斉唱条例訴訟」を合憲(2016年10月24日や2017年3月30日など)としたり、同じく大阪高裁が「安倍首相の靖国神社参拝(2013年12月)訴訟」で憲法判断をしなかったり(2017年2月28日)、また広島地裁が「伊方原発差し止め仮処分申請」を却下(2017年3月30日)したりしている事などである。

 憲法第6章「司法」第76条3項には「すべての裁判官は、その良心に従い、独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定めているにもかかわらず上記ような判決を下すという態度は、裁判官でありながら判断の唯一のよりどころとすべき日本国憲法を否定し尊重擁護義務をも踏みにじるもので、自身の偏向したオルタナティブ・ファクトに基づく判断判決を下しているというべきである。その判断判決は、原告はもちろん原告同様の考え方に立つ国民に対し、判決の非論理的な論理(屁理屈)を権力を私物化濫用し「正当な考え方」として押し付け、考え方や価値観の改造洗脳を意図しているのである。その「考え方」は「自民党改憲草案」に示されている内容であり、それ以外のものではないのである。日本国憲法をよりどころとすべき裁判官としてはその使命職責をまったく果たしていないだけでなく、資格を有していないというべきであり、辞職させるべき事態であると考える。

 「君が代起立斉唱条例訴訟」(2017年3月30日)の件は、君が代の起立斉唱を教職員に義務付けた条例が、思想・良心の自由を保障した憲法に違反するかが争われたが、最高裁が上告を退け大阪高裁判決(職務命令の根拠となった府条例は合憲減給処分も府の裁量の範囲内)が確定した。それ以前には、

 同じく(2016年10月24日)の件は、卒業式で君が代の起立斉唱を拒んだ事を理由に減給処分されたのは憲法が保障する思想・良心の自由の侵害だとして争ったが、大阪高裁は一審判決(減給処分は適法)を支持し、「起立斉唱は慣例上の所作」とし、式進行などの目的があるなら思想・良心の間接的な制約も許される、とし控訴を退けた。つまり、きわめて曖昧な言葉で法的拘束力のない「慣例」という概念を最大の根拠として「従うべきだ」と命じているのである。また「国旗国歌法」が「掲揚斉唱」を義務づけているものではない事に触れる事なく、「条例」とそれに基づく権力行使である「職務命令」を拘束力のあるものとみなし、最高法規である日本国憲法で基本的人権として政府が国民に保障すべきものとして定めている「思想・良心の自由」については拘束されても「我慢せよ」と命じているのである。まったく論理的に筋の通らない理解不可能の屁理屈で理不尽な判決としか言えないのである。大日本帝国憲法で「思想・良心の自由」を「法律の範囲内」でしか認めないとした考え方と同じ考え方に立った判決なのである。大日本帝国憲法では「法律の範囲内」の文言を明記していたのに対して、現行憲法には明記されていないにもかかわらずである。高裁の初の司法判断であった。

 2016年7月6日にも、府の減給処分取り消しと100万円の国家賠償を求めた訴訟判決を大阪地裁が下したが、判決内容は「起立斉唱は単なる儀礼的な所作で、許される程度の制約だ。公務員としての規律より自らの価値観を優先させた」として訴えを退けた。ここでは「単なる儀礼」という概念を根拠として「従うべきだ」としているが上記の「慣例」と同じような曖昧で拘束力のない「儀礼」の言葉を使用して処分を適法正当しているが何の説得力もないものである。上記と異なる内容としては「公務員としての規律」も根拠としているが、規律とは条例の事であろうが、条例制定自体が憲法違反であるにもかかわらず、それに「従うよう」命じる事は権力を濫用悪用した横暴な判決である。

 2016年12月12日には、卒業式で君が代を起立斉唱しなかった事で定年退職後の再任用を不合格としたのは、思想・良心の自由を保障する憲法に反すると訴え国家賠償を求めたのに対し、大阪地裁は「式進行や厳粛な雰囲気を保つためならば思想・良心の自由が一定の制約を受けても許される」として請求を退けた。つまり、制約を認めない者は、再任用を認められなくても当然だとしているのである。

 2017年2月28日には、安倍首相が2013年12月に公用車で靖国神社を訪れ、宮司の出迎えを受け、「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳し、私費で献花料を納めた事に対して、政教分離原則に反するとした訴訟の大阪高裁判決で、一審に続き憲法判断をせず、請求を棄却した。

 判決で問題とすべき点は、靖国神社が「歴史的経緯から一般の神社とは異なる」として、特別視している点である。それは、敗戦までは国家神道制度において、伊勢神宮と両輪をなすものであったが、敗戦後は日本国憲法の下では、単なる一つの宗教法人の神社でしかない事を認めていないのである。また、敗戦後もそれまで通り天皇のために侵略戦争に動員され戦没した者を神々として祀るという荒唐無稽の作り話に疑念を示さず、靖国神社の存在意義を認め尊重すべきものであると判断している点である。

 判決ではさらに、首相の参拝で原告らが「不快の念」を抱いても法律上保護される利益の侵害とは言えない、とした点も問題である。靖国神社について上記の認識に立てば、公務員のトップである首相が、私費であろうが献花料を納めて参拝した行為は憲法の政教分離原則に違反し、公務員を引き連れた参拝行為はその関係者すべてが憲法尊重擁護義務に違反しているとみなすべきであるにもかかわらずである。国民はそのような判断をして当然である。そのため法律上保護される利益の侵害である「不快の念」を抱くのである。そして、その「不快の念」を解消するため(これは国民の権利である)、首相たちに憲法を厳守させるための司法判断求めたのである。しかし、裁判官は意図的にその意味を無視し理解しようとしないのである。ここに、裁判官のオルタナティブ・ファクトに基づく判決が見られるのである。

 判決は結論として「法的利益の侵害があるかどうかという結論を導くのに必要な範囲で示せば十分とし、侵害がない以上、政教分離原則については判断するまでもない」として憲法判断をしなかったのである。しかし、これは「判断を回避した」と考えるべきである。それは「自民党改憲草案」には、天皇や公務員の「靖国神社参拝」や参拝に関わる事を「合憲」とするための条文が整備されているからである。また、国民に参拝させる事を合憲とする条文も整備されているからである。

 為政者(安倍政権と大阪維新の会など)と結託した裁判官は、為政者にとって都合の悪い事は無視し憲法に基づいた判断を示さず、その代わりに為政者の意向(政策)こそ「正しい」とするオルタナティブ・ファクトに基づいた判決を押し付け居直っているのである。裁判官が、国民が当然とする憲法に則らず、為政者が正しいとする基準(異なるルール)に基づく状態では、議論は成り立たず国民の権利を保障する判決を期待できる裁判が行われる事は望めないのである。

 2017年3月30日に示された、四国電力伊方原発3号機の運転差し止め仮処分申請に対する広島地裁判決においても、「具体的危険によって住民らの人格権が侵害されるおそれがあるとはいえない」と判断した。また、その根拠として、新規制基準に不合理な点はないとした。また、電力会社側にどの程度の立証を求めるかについて、原発や裁判所によって異なる事は望ましくないとして2016年の九州電力川内原発を巡る抗告審決定を参照するのが相当とした。これに対し原告側は、「間違った判断をする事もある民主主義の行き過ぎをただすのが司法権の独立法と良心にのみ拘束される理想的な裁判官の姿が見えない」と批判した。ここにも、原発再稼働の差し止め申請に対して、安倍政権と結託した裁判官のオルタナティブ・ファクトに基づく判決が見られるのである。

 国民はこのように様々な面で、安倍政権と結託した裁判官によって、オルタナティブ・ファクトに基づく判決を押し付けられ、安倍政権が国民に保障しなければならない憲法に定められた権利を、安倍政権によって次々と奪い取られているのである。これは数の暴力によるクーデターである。

 しかし、安倍政権(政治)に無関心になったり、闘う事をやめてはいけない。安倍政権(政治)は我々国民を逃がすことはしないから。日本人である限り、安倍政権(政治)から逃れる事はできないから。

 

 

 

 

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明治維新100年(1968年)記念事業(第2次佐藤内閣)の目的は何だったのか思い出そう

2017-03-31 21:38:09 | 憲法

 明治維新100年記念事業は、1968年、第2次佐藤内閣が実施した。佐藤内閣は1966年4月15日、内閣に「明治100年記念準備会議」を発足させ、同年11月1日号の「解説・政府の窓」で、その意図を表明した。それは、「現代の若人に共通の愛国的エネルギーの衰弱現象は、国家社会にとって重大な、そして危険な問題である。明治100年を契機としてめざましい近代国家発展の源となった明治の国民的エネルギーを再確認し、新しい意識を目覚めさせ、日本の第二の飛躍に役立たせたい」というもので、国家主義的意図が明確なものであった。そして、68年には、自民党はその運動方針の中で「明治100年を契機としてさらに新しい歴史学を創造し、占領史観からの脱却をはかり、思想混乱を一掃し、祖国愛と民族精神または防衛意識を回復させ、国民の理解を求め革命勢力の後退さらには粉砕をめざす」という大日本帝国下のような勇ましい決意を示した。ここには、戦後の歴史観(価値観)が思想混乱の産物と見做されており、大日本帝国下で、自由主義、民主主義、社会主義などあらゆる思想信条価値観を思想混乱と見做し弾圧したのと同じであった。

 2018年に自民党は、「明治150年記念事業」を実施すると意気込んでいるが、その意図は、この「100年記念事業」の延長線上にあり、大日本帝国(憲法=自民党改憲草案)の復活である事を認識し、日本国憲法を大切に思う国民は抜かりなく対処しなければならない。

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「企業による結婚支援のあり方」提言(安倍政権内閣府検討会)は憲法改正草案実現への伏線、基本的人権の否定狙う

2016-12-25 23:05:49 | 憲法

 2016年12月20日、安倍政権内閣府の検討会は「企業による結婚支援のあり方」提言をまとめた。検討会は、安倍政権が掲げた「希望出生率1.8」の実現に向けて10月に設置されたものである。政府による「人口増加政策」であり、敗戦までの天皇主権の大日本帝国が、「国策」として国民に強制実施した政策と類似のものである。それを安倍政権も政策として実施しようとするものであり、」では、社内の既婚者が未婚者に助言する「婚活メンター(良き指導者)」の配置や、効果を上げた取組みをしている企業を表彰する制度などを盛り込んでいた。しかし、「女性支援団体」が反対署名運動を行ったため、「提言」では、大幅修正を経たものである。

 近年、結婚しない理由には経済的事情が大きいともいわれる。しかしそれだけでなく、過去の常識にとらわれない風潮が広まり、結婚年齢が高くなるだけでなく、結婚しない人も多くなり、結婚する事を当たり前の事であると考えないようにもなっている。そのような状況から考えると、個々人の自由な決定を保障されるプライベートな生活に対して無遠慮に介入し統制するようなこの「政策」は、女性にとっても男性にとっても余計なお世話でしかなく不愉快な思いをしている人は多いのではないかと思う。

 「提言」では、「婚活メンター」や「表彰制度」は削除し、「企業による婚活支援」も、「取り組まない事も含めて企業が自主的な判断による」とした。

 しかしこの事は「国策」と受け取られないようにする「ゴマカシ」であって、安倍政権は「企業による結婚支援」を「国策」として推し進める事をあきらめた事を意味するものではない。なぜなら、「希望者」に対する「企業の取り組み例」として、「自治体の婚活支援事業を紹介する事」や、「婚活支援サービスの費用補助」、「地域の独身者向けの交流の場づくり」などを紹介しているからである。

 これは、安倍政権が前面に立ち、正攻法で企業を利用し、企業にストレートに圧力をかけて進めようとしたが、反発を買ったのでその手法を止め、今度は新たに表向きは企業の自主性を尊重するとしながら、実態は政権が企業に裏から圧力をかけて操作し政権の意図を貫徹しようという手法に変更したという事を意味している。

 ところで、安倍政権が「国策」として「婚活支援」をするのは、敗戦後の日本国憲法下の政権の政策としては初めてである。しかし、基本的人権の尊重を規定する日本国憲法下で、政権が「国策」として実施する事が果たして可能なのかというと、明らかに「基本的人権の侵害」に当たり、「憲法違反」である。にもかかわらず、なぜ安倍政権はそれを無視して推し進めようとするのだろうか。

 この政策は「婚活支援希望者」のための「親切」な政策だと評価すべきものではなく、また、「希望者」だけに関係するものでもなく、極めて憲法が国民に保障している「基本的人権」を、安倍政権が「保障」する意思を持っておらず、「否定」しようとする意思を強く持ちその実現を目指している事の表れであると捉え問題視しなければならないのである。     

 率直に言えば、現行憲法では、「結婚」するか否かは「個人」の自由である事を保障している。しかし、安倍政権はそれを無視否定して、自己の都合(出生率上昇、人的資源の増殖)だけで、企業に婚活支援をさせ、企業の力を借りて、「結婚」の増加、「出生率の上昇」や「人的資源の増殖」などを目論んでいるのである。また、この政策をまず「希望者」に実施していく事によって、他の「独身者」に対して同調圧力を与え感じさせ取り込んでいこうとしているのである。そこにはもちろん「個人の尊重」や「人権の尊重」などの価値は否定すべきものと見做されている。

 これは改めて驚く事ではない。このような「人間観」「国民観」こそ、国民から見れば、安倍政権が「大日本帝国憲法」への回帰を目論んでいる事を国民に確信させる「自民党憲法改正草案」の根本をなしているからである。メディアも安倍政権に協力し、「独身者」に対して「結婚願望」に目覚めさせ強めさせるために知恵を凝らして「独身者」の「感性」に訴え同調圧力をかけている。

 ところで、この「国策」としての安倍政権の「企業による結婚支援」政策のテキストは、ほかでもなく敗戦までの大日本帝国政府の定めた家父長制・戸主制度(家制度)にある。そして、特にアジア太平洋戦争下には政府は積極的に国民に対して「当然の義務」として強制し、メディアも政府に積極的に協力追従し「独身者」に「結婚」「出産」を強制したのである。それは、「独身者退治」と呼ばれた。

 大日本帝国政府は、1939年9月、「結婚十訓」を発表した。この中の一つが「産めよ殖やせよ国の為」であり、戦時下のスローガンとした。政府は戦争に備えて、国民を兵力、労働力を増強するための人的資源と見なし、結婚、出産を強制したのである。

 そして、帝国政府を翼賛していたメディア(新聞)は、「紙上結婚相談」を連載し、早期結婚を奨める意見を掲載し、世論を喚起するとともに「独身者退治」へと誘導した。

 1942年10月4日の朝日新聞は「社告」には、「戦時下の正しい良い結婚は健康な精神と身体に加えるに皇国の礎を固める結婚報国の念に燃えるものでなくてはなりません。政府も最近人口増強政策を確立し昭和35(1960)年内地人口1億をもってその目標としています。結婚戦線にも総進軍の命令が下ったのです。そこで本社は結婚適齢期にありながら、よい配偶に恵まれない悩みを解消するために新たに『紙上結婚相談欄』を設け結婚相談に豊富な体験を持たるる諸氏を煩わし質疑や相談に対して親切に回答していただく事にしました。」と載せた。

 1942年10月10日の同紙の『相談欄』には、読者の質問に対し『日本婦人の務め、良縁を逃がさず、よい主婦に』と題し、「国家では早く結婚してよいお子さんを沢山産んでいただきたいといっているのに、良縁を断るなどとはもっての外です。いま戦争の真っ最中にある日本の国民が安易な生活を求むべき時ではありません。御良人と協力してお家を護り、銃後の務めを全うする事が日本婦人の誇りと思いにならねばなりません。……」と答えている。

 また、1943年4月4日の同紙には、独身男性を強引に説得し結婚に導いた「隣組」の話を載せている。『独身者退治に結束、猛攻1年で陥落』と題し、「生めよ増やせよの大事な御時世に『独身者』をほったらかして置いては組内の恥だ、とばかり『常会』の度毎に『独身者退治』……。この不名誉を何とかして早く片付けねばと組長と郡長。なだめたり、すかしたり、仕舞には『何かお身体に御異常でも』と……、かくて天照皇大神の掛軸と大日章旗が飾られた式場では、町の氏神の神主による祝詞、隣組長、郡長の男同志からなる仲人により隣組主催の結婚式が行われたのである。……隣組懸案の『独身者退治』がここに目出度く終了したのであった。」と記載している。

 同年6月19日の同紙には、『青空の下・集団見合い、四百名、胸おどらせ、武蔵野散策』と題して、「一億総決起の初夏に贈る和やかな話題。結婚こそ戦力増強の源泉でなければならぬと、東京都結婚奨励組合では、わが国最初の試みともいうべき『集団見合い』を行い、決戦下産めよの国策に大効果を期することになり、この種機関の新しい試みとして各方面から注目されている。……個々の見合による煩瑣や労力の無駄を省き、集団による自由選択の効果を狙ったもので、……都下立川都立農事試験場を会場に、この画期的な『集団見合会』を行うことになった。……」と記載している。

  このように、安倍政権による「企業による結婚支援」政策事業は、そのルーツが大日本帝国が戦時下に実施したものを焼き直したものなのであり、国民に人権を保障しなかった大日本帝国憲法下においてこそ可能であった、人間を資源と見做した極めて非人道的な意識に基づく政策なのである。 

このような点から、この政策が実施される事に無関心であってはいけないのである。

 

 

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