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5・15事件裁判における弁護士の言葉と軍部のファシズム化推進

2024-06-08 15:09:36 | メディア

 5・15事件(1932年)に関する記事が解禁されたのは1933年5月17日であった。事件の裁判が開かれ、その陳述の内容や様子を新聞が大々的に報じた。報じられた記事からは当時の臣民(天皇の家来の意。現国民)が置かれた生活状況社会状況認識状況がうかがわれる。今日、自公政権の専横の下に生活する国民にとって、日本を人権が尊重される民主的で生活しやすい国にするために参考になる部分があるので紹介したい。

1933年8月5日『大阪時事新報』では、

政党財閥特権階級軍閥等が悪いということも国民周知の事実だと考えて居った、……選挙はすべて買収選挙である、五当三落という言葉がある、五万円あれば当選三万円では落選の意味である。又三番ともいう。一番は鞄二番は地盤三番は看板の意である。……六十四議会(1932.12.26~33.3.25)における労働組合法案の運命を引例し資本家の圧迫により法案が骨抜きにされたこと……など暴露し、更に政友会の三井民政党の三菱等の腐敗政党地方自治破壊内閣更迭毎に繰返される地方長官更迭等幾多の事例を挙げて政党の罪悪を数え疑獄事件の続発をなげき/西園寺は維新の元勲であるが政民両党の二大政党の間にあってキャスチングボートを握り政党財閥の原因をなしているもの」

 1933年8月23日『神戸又新日報』では、

「山田弁護士 我国は由来国危殆に瀕する際は或は中大兄皇子現れ、或は楠木氏の忠節あり之れは国体の然らしめる所且つ又世界に冠絶する所以にして被告等の行為は又この一であると断じ……国家官吏を政党の奴僕となしている現状を縦横無尽にこきおろし政党政治否認論に及ぶ、更に進んではかかる政党の腐敗、堕落の根本多数党による政権の把握に原因し多数党となるための金員のかき集め、ひいて財閥との結託こそ政党政治腐敗の根本原因であると喝破……。山田弁護士は赤穂浪士の例を引き本件の行為と義挙について縷々陳述、更に犬養首相の壮烈なる最後ならびに首相を倒した被告などが敵を激賞せる心情を言々火の如き熱弁を以て述べ山岸中尉の法廷において口吟んだ句(来ん春を待たで散りにし人柱 今日は何処で国をみまもる)を涙にむせびながら読み上げれば満廷にはすすり泣きの声さえ洩れ、西村裁判長双頬にあふれる涙も僅にこらえる、更に進んで坂本龍馬の最後を説き、烈々火を吐き流汗淋漓ぬぐおうともせず被告のため論じ……被告の行為は一命を投出してなしたるものでかくの如きはまねてなし得る行為ではない、形式論を斥け進んで天誅論に入り刑は天刑をもって貴しとなし天刑とは輿論であるとて澎湃たる全国的減刑運動に言及し、正午再び休憩に入る」

海軍側の判決は1933年11月9日に出された。それについて11月10日『時事新報』では、

「被告人等は我国現下の情勢を目し国民精神頽廃し建国の本義日に疎んぜられ所謂支配階級たる政党財閥特権階級腐敗堕落して国家観念に乏しく相結託して私利私欲に走り……農村の疲弊思想の悪化を招く等事態憂慮に堪えざるものある……帝国は千九百三十六年の交に於て未曾有の難局に逢着すべく……合法的手段を以てしては到底焦眉の急に応ずるの遑なきものと認め遂に一切を超越して直接行動に訴うる已むなきを決意し自ら国家革新の為の捨石となりて先ず此等支配階級に一撃を加え其の反省を促すと共に一般国民を覚醒奮起せしめ以て国家革新の機運を醸成せんことを期するに至れり」

(判決)

陸軍側被告への判決(1933年9月19日)

 最も重罪で禁固4年

海軍側被告への判決(1933年11月9日)

 死刑求刑の三上卓ら3名を懲役15年、13年とするなど、異例の軽い判決

民間側被告への判決(1934年2月3日)

 ほぼ求刑通りで愛郷塾主宰橘孝三郎が無期懲役など

軍人側には執行猶予あるのに民間人側には一人もおらず民間側に重かった。また、軍人側民間側とも  に大量の減刑嘆願署名が提出された。

※5・15事件で殺害された犬養毅内閣の後継内閣選びは、陸軍が政党内閣の継続を嫌ったため難航。元老西園寺公望は、退役海軍大将・元朝鮮総督の斎藤実を推薦し、最初の挙国一致内閣が成立。1924年成立の護憲三派内閣以来8年続いた政党内閣は倒され、軍部はファシズム化推進した。2・26事件を経て盧溝橋事件をきっかけに神聖天皇主権大日本帝国政府中国に対し全面戦争へ突入し、その泥沼化から脱するために、さらには米国を主敵とした太平洋戦争をも招いた。政党内閣は敗戦後の1946年まで復活する事はなかった。

(2024年6月8日投稿)

 

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白虹事件は神聖天皇主権大日本帝国政府が新聞の政府批判に牙を剥いた言論弾圧事件

2024-05-02 11:32:21 | メディア

 1918年秋に起きた「白虹事件」は、同年8月3日に発生し9月にかけて全国的な広まりを見せた米騒動の中で新聞寺内正毅内閣(政党政治家を締め出し、軍と官僚のみで1916年に組閣)の失政を厳しく批判する姿勢を強めた事に対し、神聖天皇主権大日本帝国政府が徹底的な弾圧を行うために引き起こした謀略事件であった。

 事の起こりは、1918年8月26日付の「大阪朝日」が夕刊の記事文中に「大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。「白虹日を貫けり」と昔の人が呟いた不吉な兆しが……人々の頭に電の様に閃く」などの文章があった事による。この文章は、前日25日に開催された、名古屋以西の新聞・通信社86社の代表が寺内内閣弾劾決議のために集まった関西新聞社記者大会の様子を伝える記事の一部であった。

 「白虹日を貫けり」という言葉は、中国の故事では「兵乱や国家滅亡の予兆」を意味する言葉とされていたが、新聞への徹底的な弾圧の機会を狙っていた帝国政府はこの文章を、「記事は天皇制国家への敵意を含み、その掲出は皇室の尊厳を冒瀆、政体を改変、朝憲を紊乱しようとする行為に当たる」とこじつけ、新聞紙法第41条違反などとして「大阪朝日」を発売禁止処分とし、発行人・記事執筆者を起訴(禁固)し、大阪検事局も動かして新聞を取り潰すための発行禁止を目論み提訴した。

 帝国政府の姿勢に勢いづいた右翼、「国体変更の意思」「不敬」を理由に、村山龍平社長を襲撃する事件を起こした。

 存亡の危機に立たされた「大阪朝日」は同年10月15日には、村山社長が退陣し、鳥居素川編集局長、長谷川如是閑社会部長、大山郁夫、丸山幹治ら幹部記者が退社、河上肇など社友の京大教授グループも退社した。

 さらに同年12月1日には紙面に、「皇室を尊崇して国民忠愛精神を鼓励し……不偏不党公平穏健の八字をもって信条と為す(国体や政府を批判しない)」とする社告を載せるまでに至った。

 結果的に、発行禁止処分を免れたが、「大阪朝日」はその主体性を放擲してでも会社の存続を第一とする経営の道を選ぶ事となったのである

 しかし、新聞(報道機関)が、このような事態を招く事になった背景には、それまでの新聞(報道機関)の対応・姿勢に原因があったのである。それは1910年の「大逆事件」に対しての対応・姿勢にあった。

 新聞(報道機関)は、大逆事件に対して、それが思想・表現の自由への弾圧であると理解できず、自分たちには関係のない特別な犯罪事件として対応したため、天皇制政府への警戒心と批判力を欠いていたのである。そのため「白虹事件」という形で自らも天皇制政府によって弾圧を受ける事態を招いたのである。

 現代の新聞(報道機関)の昨今の皇室報道は、この過去を教訓としているとは思えない。それだけでなく、理念や信条も大切にせず、再び自ら進んで、神聖天皇主権大日本帝国への回帰をめざす安倍自公政権に、責任の自覚もなく(自覚した上であれば相当な悪人であるが)迎合しているだけのようである。

 しかし、国民は未だに「皇室」が大好きだなあ。「皇室」の存在が日本の民主主義(人権尊重意識)の発展を阻害する「重石」となっているのであるが、その事を理解できずに。この国民の意識が変わらない限り、皇室に対する新聞(報道機関)の対応・姿勢も変わる事はないであろう。そして、国民の「皇室」大好き意識を利用する安倍自公政権の皇室を利用する対応姿勢も変わらないのである。

(2019年11月11日投稿)

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ラジオ体操放送開始の目的とその中止と再開の正しい認識を

2024-04-23 22:05:13 | メディア

 2023年6月10日付朝日新聞be記事が「ラジオ体操」の歴史を掲載した。しかし、今日の主権者国民が最も知っておかねばならない事を書いていないので、それからは偏向した知識教訓しか学べないのでメディアの責務として是非書いて欲しかった事を以下に少し紹介したい。

 ラジオ体操は、1920年代に逓信省職員が米国で体験し、日本での実施を提唱した事から始まり、同省簡易保険局が作った。その目的は、神聖天皇主権大日本帝国政府が、1928年11月10日に実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を記念するためであった。 

 日本初のラジオ放送は、新聞社、通信社、無線機器メーカーなどの出資による、それぞれ独立した3つの社団法人、つまり東京放送局(1925年3月)、大阪放送局(3月)、名古屋放送局(7月)が開始した。その後、神聖天皇主権大日本帝国政府は「放送は国家的事業」と考え始め、3局を合併して1つの組織にまとめるとともに、全国各地に支部を設けていき、1926年8月には社団法人日本放送協会を創設した。新役員の多くは逓信省出身者により占めた。そして、1928年11月10日実施予定の昭和天皇の大礼(即位儀式)を目標に、3局を結ぶ中継回線建設を計画し、11月5日に完成させた。つまり、神聖天皇主権大日本帝国政府は、全国ラジオ放送体制を、天皇制との関係で整備したのである。そしてそれを用いて昭和天皇の大礼奉祝番組を11月6日から27日までの22日間にわたり全国中継でラジオ放送したのである。

 そして、ラジオ体操の放送についてであるが、大日本帝国政府逓信省が日本放送協会に持ち込み、政府がその「大礼」を記念する事を目的として1928年11月1日東京放送局から開始させ、時を開けず全国放送とさせ、早朝に集団で実施させるようにした。目的は、音楽と号令による学童の集団行動や集団統一の馴致であった敗戦の翌1946年4月には再開したが、連合国軍総司令部(GHQ)が翌47年9月1日からの放送中止を命じた。しかし、朝鮮戦争開始後約1年の1951年5月に実施を許可した。これはGHQによる警察予備隊創設をはじめとする、民主化・非軍事化から再軍備へという占領政策の大転換(逆コース)と大きく関係していたのである。主権者国民は、このような歴史をしっかりと認識した上で、ラジオ体操を、又今日ではテレビ体操をも健康維持のために生かす事は良い事である。

(2023年6月10日投稿)

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「日露戦争勃発」報道に対する「大阪朝日新聞」と「平民新聞」の違い

2024-01-07 12:17:40 | メディア

 2024年1月6日付朝日新聞「天声人語」神聖天皇主権大日本帝国政府時代に刊行していた「大阪朝日新聞」に「天声人語」が1904年1月5日に登場し、その書き出しが「日露戦争勃発」の予兆を見たと思えるような「雲を呼び雨を起こすと云ふ辰の新年」となっていた事を紹介していた。

 その「大阪朝日新聞」と比較して、「平民新聞」がどのような主張を掲載したのかを紹介したい。「平民新聞」とは、日露戦争直前、「非戦論」を唱えてきた「万朝報」が「開戦論」に転じたため、退社した幸徳秋水堺利彦が1903年11月15日に結成した「平民社」の機関紙である。「自由・平等・博愛」に基づく「社会主義・平民主義・平和主義」を唱え、日露戦争に反対した。しかし、1905年1月、神聖天皇主権大日本帝国政府による弾圧と財政難により廃刊した。

以下にその「平民新聞」の主張を一部抜粋して紹介しよう。

不忠と呼ぶ、可なり。国賊と呼ぶ、可なり。もし戦争に謳歌せず、軍人に阿諛(おもねりへつらう事)せざるをもって不忠と名づくべくんば、我らは甘んじて不忠たらん。もし戦争の悲惨、愚劣、損失を直言するをもって国賊と名づくべくんば、我らは甘んじて国賊たらん。世は平和をとなうるを効果なしとす。しかし我らは一人の同志を得ば足る。今日一人を得、明日一人を得、三年、五年、十年、進んで止まず、我は必ず数千、数万の同志を得るの時あるを信ず。」

(2024年1月7日投稿)

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天声人語「ラジオ体操の開始」:「昭和天皇即位」を印象づけ以後国民が政府の報道に注目する習慣付けが目的

2023-12-04 19:49:12 | メディア

 2017年7発21日の「天声人語」に「ラジオ体操」の歴史が書かれていた。記者が把握している歴史知識についても披瀝していた。それは、

「ラジオ体操の歴史は古い。昭和天皇の即位の大礼に合わせて1928年に始まり、戦時中は『国民精神総動員』の号令下、国威を高める場ともされた。戦後の占領当局は『300万人を一斉に動かす軍国日本の活動だ』と廃止を迫る」

という内容である。

 この内容は、確かに事実を伝えていると言えるが、しかし、それは事実の一面であり、それ以上に重要な、今を生きる国民が学ぶべき歴史事実を伝えていない。歴史が、今を生きるための教訓を学ぶためのものであるとするならば、この記事では充分でない事は明らかであり、故意にそのような書き方をしているように考えたくなる。

 さて、大日本帝国政府が「ラジオ体操」の放送を実施した最も大きな意図は何だったのだろうか。

 それは、政府が、昭和天皇の即位の大礼の日を目標に日本の全国放送体制を完成させ、昭和天皇の時代を強く印象づける事を第1の目的とするとともに、その後の国民の社会生活において、政府がラジオという新たな情報伝達手段によって自己の方針を国民に伝達する手法を開始するに当たって、国民に「ラジオ体操」への参加をきっかけとして、「ラジオを聴く」という習慣を、違和感をもたずスムースに身に付けさせる事を目的として実施するようにしたという事である。

 ところで、大日本帝国最初のラジオ放送は、新聞社、通信社、無線機器メーカーなどが出資した、独立した3つの社団法人(東京放送局、名古屋放送局、大阪放送局)によって開始された。東京は1925年3月、大阪は同年6月、名古屋は同年7月であった。

 しかし、政府は「放送は国家的事業」であると考え始めて、3局をまとめるとともに、全国各地に支部を設置していき、1926年8月には、「社団法人 日本放送協会」を開設した。役員の多くは逓信省出身者によって占められた。

 「ラジオ体操」は「昭和天皇の即位の大礼」を記念して逓信省簡易保険局が作り、それを放送協会に持ち込み、28年11月1日から東京だけで放送を始めた。

 それと並行して政府は、昭和天皇即位の大礼(1928年11月10日)を目標に、上記3局を結ぶ中継回線を建設する事にし、11月5日に完成させた。そして、翌日の6日から27日までの22日間にわたって「即位大礼の奉祝番組」を全国に中継放送し、昭和天皇即位の印象を国民に強く焼き付けたのである。日本のラジオの全国放送体制は天皇制と政府が意図的に密接に結びつけて完成させたものであり、そのラジオ放送を利用して昭和天皇の誕生を国民に強く印象づけたのである。

 そして、「ラジオ体操」の放送については、1929年からは全国放送とし、集団で早朝に実施するようにし、「挙国一致」の精神と体力を培い高めるものと位置づけられて敗戦まで続けられたのである。その間の日本放送協会のラジオ放送は、大日本帝国政府が国民に聴く事を許可した唯一の、ラジオ放送であった。また、それは日本の侵略戦争に関する情報を伝え、国民に聴く事を許した唯一のラジオ放送であった。

 その事を分析していた敗戦後のGHQは、日本に再び軍国主義が復活する事のないように「廃止」させたのである。

 日本放送協会は戦後、一般的に名称を「NHK」としてきたが、そのNHKが、現在、テレビ番組を放送と同時にそのままインターネットで流す「同時配信」の準備を進めている。NHKと総務省は「東京五輪に間に合うように」という理由で、2018年に放送法を改正し、19年には同時配信を実現しようとしてきた。

 しかし、その理由は建前であり、本音は、かつての昭和天皇の即位時と同様に、「新天皇の即位の礼」など天皇関係の儀式に間に合わせるためなのである。そして、民放との二元体制を崩し、表現の自由や言論の多様性をなくす事を目指しているとも考えられる。それは、憲法で国民に保障する権利を軽視否定する事を目指す事でもある。自民党の改憲草案に書いてある事を実現するために。

(2017年8月4日投稿)

 

 

 

 

 

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