つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

戦時下、政府を翼賛するメディア(新聞)は国民に一億特攻を煽った

2024-10-25 09:52:09 | メディア

 1944年後半以降、「体当たり精神」や「特攻隊精神」という言葉が盛んに叫ばれるようになった。メディアもこのような世相を反映して、「精神主義」を前面に打ち出した記事を載せた。

 1944(昭和19)年9月22日の朝日新聞『神風賦』には、B29に飛行機で体当たりした操縦士を取り上げて、「もとより生還を期さない、生命の執着を地上に忘れて来たものに違いない。いな、俺は死ぬんだといった感じのものではなく、その瞬間には、生死を超越し敵を斃さねばならぬという必墜の信念でぶつかってゆく気持ちだといわれる」と書き、また、「体当たり精神とは、『弾丸が雨と降る中に、倒れても倒れてもなお突撃して来る超人的精神力』として、日本の歩兵の突撃精神は外国戦術家の驚異となっている。この歩兵の突撃精神をさらに一歩進めたものが体当たり精神である。肉弾の強さは洋の東西を問わぬ。特に、日本はこのこの肉弾をもって、今日まで戦って来た。物量よりも、武器の性能よりも、生命をもってぶつかって行く肉弾精神こそ敵の最も恐るる『不可思議な力』である」と書いている。

 1945(昭和20)年になると「一億特攻」という言葉が頻繁に使われるようになり、兵士だけでなく「国民全員」に特攻精神を要求する記事を載せた。同年6月14日の同紙には、「敵来らば『一億特攻』で追い落とそう」と題し、「『一億特攻隊』の言葉が叫ばれて既に久しい。だがこの言葉の叫び続けられねばならぬところ、国民の中にはまだ特攻精神に徹しきっていないものがあるのではないか。しかも今ほど一億国民すべてに、あの烈々醜虜(外国人の事)を焼き尽くさずんばやまぬ特攻精神が求められることはないのだ。沖縄の決戦なお続くといえども大局我に利あらず。我々は遂に敵の本土上陸を覚悟しなければならなくなった。男も女も、老人も子供も、一たび敵が本土に上陸せば武器となし得るものすべてを武器とし、敵兵を突き刺さねばならないのである。一億特攻、今にしてこれを我がものとして敵に立ち向かうのでなければ勝利は永遠に失われるであろう。書いてみれば平凡な常識である。また多くの人々によって語られた言でもある。ひとあるいは『報道班員いまさら何をほざく』と嘲罵するであろう。だが基地にあって幾多の特攻隊員の沖縄出撃を見送り、力の限り帽子を振った一報道班員である私にとっては、この嘲罵をも甘んじて受け、さらに声を大にして『一億特攻!』と絶叫し本土上陸の敵を迎え撃つことに最後の勝利を見つめたいのである」と書いている。

 また1945(昭和20)年4月16日の同紙には、女性や老人など国内に残る一般人を対象に、手榴弾の握り方や投げ方を細かく説明している。それは「投げ方は立ち投げ、膝投げ、伏せ投げの3パターンがあり、兵士は立ち投げで30~35㍍、伏せ投げで20㍍以上投げるが、この距離は容易に投げられる距離ではないから、老若男女は投げる訓練をすべきである。手榴弾がないからといって訓練ができないでは済まされない。手榴弾と同じ形、重さの石でも何でもよいから訓練を積むべきである」と書いている。

 同年6月11日の同紙には、大本営陸軍部刊行の『国民抗戦必携』を引用して、国民に敵を殺傷する事を指導している。例えば、「ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口、鎌等を用いる時は後ろから奇襲すると最も効果がある。正面から立ち向かった場合は半身に構えて、敵の突き出す剣を払い瞬間胸元に飛び込んで刺殺する。刀や槍を用いる場合は背の高い敵兵の腹部をぐさりと突き刺した方が効果がある。一人一殺でもよい。とにかくあらゆる手を用いて何としてでも敵を殺さねばならない」と書いている。

 上記は戦時下、神聖天皇主権大日本帝国政府それを翼賛したメディアの姿勢の一端を紹介したものであるが、侵略戦争に勝利するために当時国民にどのように処す事を求めたのかを詳しく知る事ができるものである。現在、大日本帝国への回帰をめざし憲法改悪をめざす安倍政権と、それをメディアが翼賛する状況下で、国民はその過去から貴重な教訓を学び取り、再び騙され同じ過ちを繰り返してはならない。

(2016年12月27日投稿)

 

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『週刊朝日』(1948年5月16日号)の鼎談での昭和天皇についての三淵忠彦発言

2024-10-01 07:42:59 | メディア

 『週刊朝日』(1948年5月16日号)が、佐々木惣一長谷川如是閑三淵忠彦鼎談を掲載した。佐々木惣一(1878~1965)は、法学者で、憲法及び行政法の権威で、天皇機関説民本主義を主張した。滝川事件に連座し退官。アジア・太平洋戦争敗戦後、帝国憲法の改正に参画した。長谷川如是閑はジャーナリストで思想家。自由主義批評家としてデモクラシー思想を鼓吹した。三淵忠彦は、敗戦後の新憲法下での初代最高裁長官を務めた

 三淵忠彦鼎談において、以下のような昭和天皇についての持論を主張したので紹介しよう。

「かりに陛下が道義的にお考えになって、退位されたいと考えた場合、国会だけで決めるか、あるいは国民投票に問うか、これは問題だな。僕らはね終戦当時陛下は何故に自らを責める詔勅をお出しにならなかったか、という事を非常に遺憾に思う。先例がある。この書(唐の玄宗の例を引いた)によってみんなが涙を流して感奮して、その力によって回復の緒についたという先例がある。やはり痛烈に自らを責められる詔勅をお出しになって、国民をして感奮せしめるだけの手を、なぜお打ちにならなかったかと、不思議に思うくらいだな。公人としては自分の思慮をもって進退去就を決するわけにはいかないんだ。どうしたって。だけど自らを責めることは妨げられない。だから、自分の不徳のいたすところ、不明のいたすところ、国民にかくの如き苦労をかけたということを、痛烈にお責めになれば、よほど違ったろうと思うな」

(2024年9月30日投稿)

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情報の統制と一元化を目論む籾井氏、敗戦までの日本放送協会への回帰めざす

2024-09-10 21:15:50 | メディア

 熊本地震で、関連する原発に関する報道について、4月20日開催の「災害対策本部会議」での籾井勝人NHK会長の指示内容が問題となっている。それは、

○「住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」

○「当局の発表の公式見解を伝えるべきだ。いろいろある専門家の見解を伝えても、いたずらに不安をかき立てる」

また、「被災地で自衛隊が活動するようになって物資が届くようになった事なども報じるように」と発言。その際の「公式発表」とは「気象庁原子力規制委員会九州電力が出しているもの」とした。

また、26日の衆院総務委員会の民進党奥野総一郎氏の質問に答えて、

○「事実に基づいて、モニタリングポストの数値などを、我々がいろんなコメントを加味せずに伝えていく」

○「指示」については、「原子力規制委員会が安全である、あるいは続けていいという事であれば、それをそのまま伝えていくという事。決して、大本営発表みたいな事ではない」と説明した。

 このような籾井氏の姿勢に対して、専門家の間から批判がなされている。例えば、「住民に安心感を与えるためとしているが、それは視聴者を馬鹿にしており、視聴者は政府や企業などが公式に与える情報だけでなく、様々な情報を得て正確な判断をする材料としたいと考えている」とか、「政府などの公式見解が出るまではNHKは報道しないという事で、編集権の放棄で、報道機関としての自殺行為ではないか」とか、「ジャーナリズムの役割を理解していない、公式発表を伝える事がメディアの役割だとすれば、広報だと思っているに等しい」などである。

 籾井氏に対するこれらの批判はまったくその通りであると思う。しかし、籾井氏にとって、今回の指示発言や姿勢への批判は痛くも痒くもないのである。私たちはもう一歩先にある籾井氏の目論見を見通しておかなければならない。それは、籾井氏の最終目的が、敗戦までの政府の広報機関であった「日本放送協会」への回帰であり、国民へ伝え知らせる「情報の統制と一元化」を図ろうとしているという事である。彼は今回も意図的に指示を出しているのであり、単に能力や資格がないというレベルの問題ではなく、「確信犯」なのだという事を我々はくれぐれも理解しておかねばならないのである。そしてさらに、そのような人物をどのようにして失脚させるかを早急に考えなければならない事を明確に示されたという事なのである。

 NHKによる「情報の統制と一元化」を実現するためには、民放メディアへの統制も必要であるが、それを進めているのが「高市早苗総務大臣」なのである。民放メディアに対し、「放送法第4条」の「政治的中立・公平」を安倍政権に都合よく解釈し圧力をかける事によって日本人の精神性に働きかけ「自主規制」させる手法を取って進めているが、籾井氏と連携してそれぞれの役割を遂行し、NHKによる「情報の統制と一元化」を達成しようとしているのである。国民にとって非常に深刻な事態となっているのである。

 神聖天皇主権大日本帝国政府下における臣民(国民)の自由と権利を奪う手法には4つあった。それは、①弾圧立法、②教育、③暴力、④言論の自由の抑圧と情報の一元化、である。安倍自公政権はそれらを現在着々進めそして加速させている。

(2016年5月2日投稿)

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5・15事件裁判における弁護士の言葉と軍部のファシズム化推進

2024-06-08 15:09:36 | メディア

 5・15事件(1932年)に関する記事が解禁されたのは1933年5月17日であった。事件の裁判が開かれ、その陳述の内容や様子を新聞が大々的に報じた。報じられた記事からは当時の臣民(天皇の家来の意。現国民)が置かれた生活状況社会状況認識状況がうかがわれる。今日、自公政権の専横の下に生活する国民にとって、日本を人権が尊重される民主的で生活しやすい国にするために参考になる部分があるので紹介したい。

1933年8月5日『大阪時事新報』では、

政党財閥特権階級軍閥等が悪いということも国民周知の事実だと考えて居った、……選挙はすべて買収選挙である、五当三落という言葉がある、五万円あれば当選三万円では落選の意味である。又三番ともいう。一番は鞄二番は地盤三番は看板の意である。……六十四議会(1932.12.26~33.3.25)における労働組合法案の運命を引例し資本家の圧迫により法案が骨抜きにされたこと……など暴露し、更に政友会の三井民政党の三菱等の腐敗政党地方自治破壊内閣更迭毎に繰返される地方長官更迭等幾多の事例を挙げて政党の罪悪を数え疑獄事件の続発をなげき/西園寺は維新の元勲であるが政民両党の二大政党の間にあってキャスチングボートを握り政党財閥の原因をなしているもの」

 1933年8月23日『神戸又新日報』では、

「山田弁護士 我国は由来国危殆に瀕する際は或は中大兄皇子現れ、或は楠木氏の忠節あり之れは国体の然らしめる所且つ又世界に冠絶する所以にして被告等の行為は又この一であると断じ……国家官吏を政党の奴僕となしている現状を縦横無尽にこきおろし政党政治否認論に及ぶ、更に進んではかかる政党の腐敗、堕落の根本多数党による政権の把握に原因し多数党となるための金員のかき集め、ひいて財閥との結託こそ政党政治腐敗の根本原因であると喝破……。山田弁護士は赤穂浪士の例を引き本件の行為と義挙について縷々陳述、更に犬養首相の壮烈なる最後ならびに首相を倒した被告などが敵を激賞せる心情を言々火の如き熱弁を以て述べ山岸中尉の法廷において口吟んだ句(来ん春を待たで散りにし人柱 今日は何処で国をみまもる)を涙にむせびながら読み上げれば満廷にはすすり泣きの声さえ洩れ、西村裁判長双頬にあふれる涙も僅にこらえる、更に進んで坂本龍馬の最後を説き、烈々火を吐き流汗淋漓ぬぐおうともせず被告のため論じ……被告の行為は一命を投出してなしたるものでかくの如きはまねてなし得る行為ではない、形式論を斥け進んで天誅論に入り刑は天刑をもって貴しとなし天刑とは輿論であるとて澎湃たる全国的減刑運動に言及し、正午再び休憩に入る」

海軍側の判決は1933年11月9日に出された。それについて11月10日『時事新報』では、

「被告人等は我国現下の情勢を目し国民精神頽廃し建国の本義日に疎んぜられ所謂支配階級たる政党財閥特権階級腐敗堕落して国家観念に乏しく相結託して私利私欲に走り……農村の疲弊思想の悪化を招く等事態憂慮に堪えざるものある……帝国は千九百三十六年の交に於て未曾有の難局に逢着すべく……合法的手段を以てしては到底焦眉の急に応ずるの遑なきものと認め遂に一切を超越して直接行動に訴うる已むなきを決意し自ら国家革新の為の捨石となりて先ず此等支配階級に一撃を加え其の反省を促すと共に一般国民を覚醒奮起せしめ以て国家革新の機運を醸成せんことを期するに至れり」

(判決)

陸軍側被告への判決(1933年9月19日)

 最も重罪で禁固4年

海軍側被告への判決(1933年11月9日)

 死刑求刑の三上卓ら3名を懲役15年、13年とするなど、異例の軽い判決

民間側被告への判決(1934年2月3日)

 ほぼ求刑通りで愛郷塾主宰橘孝三郎が無期懲役など

軍人側には執行猶予あるのに民間人側には一人もおらず民間側に重かった。また、軍人側民間側とも  に大量の減刑嘆願署名が提出された。

※5・15事件で殺害された犬養毅内閣の後継内閣選びは、陸軍が政党内閣の継続を嫌ったため難航。元老西園寺公望は、退役海軍大将・元朝鮮総督の斎藤実を推薦し、最初の挙国一致内閣が成立。1924年成立の護憲三派内閣以来8年続いた政党内閣は倒され、軍部はファシズム化推進した。2・26事件を経て盧溝橋事件をきっかけに神聖天皇主権大日本帝国政府中国に対し全面戦争へ突入し、その泥沼化から脱するために、さらには米国を主敵とした太平洋戦争をも招いた。政党内閣は敗戦後の1946年まで復活する事はなかった。

(2024年6月8日投稿)

 

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白虹事件は神聖天皇主権大日本帝国政府が新聞の政府批判に牙を剥いた言論弾圧事件

2024-05-02 11:32:21 | メディア

 1918年秋に起きた「白虹事件」は、同年8月3日に発生し9月にかけて全国的な広まりを見せた米騒動の中で新聞寺内正毅内閣(政党政治家を締め出し、軍と官僚のみで1916年に組閣)の失政を厳しく批判する姿勢を強めた事に対し、神聖天皇主権大日本帝国政府が徹底的な弾圧を行うために引き起こした謀略事件であった。

 事の起こりは、1918年8月26日付の「大阪朝日」が夕刊の記事文中に「大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。「白虹日を貫けり」と昔の人が呟いた不吉な兆しが……人々の頭に電の様に閃く」などの文章があった事による。この文章は、前日25日に開催された、名古屋以西の新聞・通信社86社の代表が寺内内閣弾劾決議のために集まった関西新聞社記者大会の様子を伝える記事の一部であった。

 「白虹日を貫けり」という言葉は、中国の故事では「兵乱や国家滅亡の予兆」を意味する言葉とされていたが、新聞への徹底的な弾圧の機会を狙っていた帝国政府はこの文章を、「記事は天皇制国家への敵意を含み、その掲出は皇室の尊厳を冒瀆、政体を改変、朝憲を紊乱しようとする行為に当たる」とこじつけ、新聞紙法第41条違反などとして「大阪朝日」を発売禁止処分とし、発行人・記事執筆者を起訴(禁固)し、大阪検事局も動かして新聞を取り潰すための発行禁止を目論み提訴した。

 帝国政府の姿勢に勢いづいた右翼、「国体変更の意思」「不敬」を理由に、村山龍平社長を襲撃する事件を起こした。

 存亡の危機に立たされた「大阪朝日」は同年10月15日には、村山社長が退陣し、鳥居素川編集局長、長谷川如是閑社会部長、大山郁夫、丸山幹治ら幹部記者が退社、河上肇など社友の京大教授グループも退社した。

 さらに同年12月1日には紙面に、「皇室を尊崇して国民忠愛精神を鼓励し……不偏不党公平穏健の八字をもって信条と為す(国体や政府を批判しない)」とする社告を載せるまでに至った。

 結果的に、発行禁止処分を免れたが、「大阪朝日」はその主体性を放擲してでも会社の存続を第一とする経営の道を選ぶ事となったのである

 しかし、新聞(報道機関)が、このような事態を招く事になった背景には、それまでの新聞(報道機関)の対応・姿勢に原因があったのである。それは1910年の「大逆事件」に対しての対応・姿勢にあった。

 新聞(報道機関)は、大逆事件に対して、それが思想・表現の自由への弾圧であると理解できず、自分たちには関係のない特別な犯罪事件として対応したため、天皇制政府への警戒心と批判力を欠いていたのである。そのため「白虹事件」という形で自らも天皇制政府によって弾圧を受ける事態を招いたのである。

 現代の新聞(報道機関)の昨今の皇室報道は、この過去を教訓としているとは思えない。それだけでなく、理念や信条も大切にせず、再び自ら進んで、神聖天皇主権大日本帝国への回帰をめざす安倍自公政権に、責任の自覚もなく(自覚した上であれば相当な悪人であるが)迎合しているだけのようである。

 しかし、国民は未だに「皇室」が大好きだなあ。「皇室」の存在が日本の民主主義(人権尊重意識)の発展を阻害する「重石」となっているのであるが、その事を理解できずに。この国民の意識が変わらない限り、皇室に対する新聞(報道機関)の対応・姿勢も変わる事はないであろう。そして、国民の「皇室」大好き意識を利用する安倍自公政権の皇室を利用する対応姿勢も変わらないのである。

(2019年11月11日投稿)

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