goo blog サービス終了のお知らせ 

つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

済南事件は田中義一内閣による、中国の統一と革命に対する妨害政策と権益死守

2022-04-20 07:34:07 | 文学・歴史

 中国(中華民国)は、1925年3月に孫文が死去した後、7月に広州国民政府を樹立し、1926年7月には蒋介石国民革命軍総司令官となり、反封建・反帝国主義を掲げ、軍閥の打倒と中国統一をめざし、「北伐」=北洋軍閥打倒戦争(1926年7月~1928年6月)を開始した。蒋介石が1927年4月に上海で反共クーデタを起こし(南京国民政府樹立)中断したが、1928年4月再び開始(第2次北伐)し、6月には北伐を完了させた。(また、12月29日には東北三省を支配する張学良が国民政府の統治下に入る「易幟」を行い、中国統一は一応完成した。)

 当時、神聖天皇主権大日本帝国では、田中義一内閣(1927年4月~29年7月)で、中国に対しては反革命的侵略的な姿勢を強めていた。そして、「北伐」に対して、大日本帝国政府の権益を守り拡大していくため、「妨害」政策を画策実施していった。それは軍事力により「北伐」に対抗し、目的を達成するものであり、3回にわたる山東出兵の実施であった。

 第1次山東出兵(1927年5月28日~8月)は北伐軍(国民革命軍)が徐州に迫った時点で在留日本人の保護を口実(本音は国民革命軍が大日本帝国政府の支配地区である満州、山東に及ぶ事を阻止するため)に、北伐軍が山東省へ入るのを阻止するため、旅順から2千人の兵を青島に出動した。そして、6~7月にかけて対中国政策を樹立するため「東方会議」を開催し、7月7日田中義一首相が「対支政策綱領」として示した。そこには神聖天皇主権大日本帝国政府の中国に対する姿勢が明確に示されていた。要約すると、

「共産党などの『不逞分子』の跳梁によって中国における権利、利益が侵害される恐れがある時は、必要に応じ断乎として自衛(出兵・戦闘行為の正当化)の措置に出る。満蒙全域における大日本帝国政府の特殊の地位権益を明確に主張し、中国本土と満蒙とを分離し、満蒙は国防上、経済上重大な利害関係をもつ特殊地域であるから、万一動乱が満蒙に波及し治安が乱れ、侵害が起きる恐れがある場合、その方面を問わず、これを防護し、内外人の安住発展の地として保持されるよう機を逸せず適当の措置に出る覚悟を必要とする」

との内容である。1928年4月に蒋介石が北伐(第2次)再開徐州を占領すると、神聖天皇主権大日本帝国田中政権は19日、国内の反対を押し切って再び山東出兵(第2次)を決定し天津と熊本から5千人の兵を済南へ送った。大日本帝国政府軍は、英米の姿勢とは異なり、第1次出兵時点と変わらず民族解放運動を鎮圧するのである。この事が「済南事件」を導くのである。

※国内の出兵反対の動き……参謀本部、陸軍省、外務省、大新聞、民政党、在日中国人、日本共産党・社会民衆党・労農党など無産政党は中国国民党駐日総支部の呼びかけに応え「対支非干渉同盟準備会」を組織し、「対支非干渉同盟」を結成し、「出兵反対宣伝週間」「出兵反対民衆大会」「支那視察団派遣運動」を起こして闘争した。

 5月1日国民革命軍は済南に入ったが、待ち受けた大日本帝国政府軍と市街戦となった。そのため、6日には北伐軍は大部分が北伐継続のため、蒋介石の命令で済南を出た。一方、大日本帝国政府軍は、国民政府の多くの特派交渉員を殺害し、大日本帝国政府軍の死者を10名、在留日本人の死者を12人出した。そこで、大日本帝国政府軍は5日、この12人の死を「邦人虐殺数280人、言語に絶する暴戻」と誇大に本国へ伝え、国民の敵愾心を煽った。さらに、国民革命軍に対し、北伐軍膺懲と威信発揚のため、12時間の期限付きの最後通牒を突きつけた。その内容は5項目で、事件関係の国民革命軍将校の厳罰、日本人に危害を加えた軍隊全部に対する日本軍の面前での武装解除、済南及び膠済鉄道沿線両側20華里以内の軍隊駐在禁止などで、国民革命軍が容認しないと承知の上のもので、再び戦端を開くための「謀略」であった。7日、田中政権は第3次出兵を決定し、1万5千人を青島へ送り、8日から10日まで済南の住民に対し空爆を含む容赦しない総攻撃を行い、死者3600人と負傷者1400人を出し、済南を壊滅させた。それは駐中公使芳沢謙吉が「第3師団が敵より先に手を出したる事はたとえ軍事上必要あるにせよ支那側(ママ)を首肯せしむるに足らず。加えるに支那(ママ)側の死傷者日本より多数なるをもって師団の要求せる5か条の如きは自然本件をもって帳消しとなるべし」と参謀本部へ報告するほどのものであった。済南事件は大日本帝国政府軍による一方的で無意味な殺戮と破壊でしかなかったのである。この事件で大日本帝国政府の暴虐ぶりは世界に知れわたり、中国の排日抗日運動は強まった。また、英米両国政府は1928年末には蒋介石の南京国民政府を承認し、関税自主権も承認したため、神聖天皇主権大日本帝国政府は中国の不平等条約撤廃の最大の敵対者である事が露わとなった。

(2022年4月18日投稿)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彼岸花は飢饉用の最後の食糧として植えられた。それも食べ尽くしたら人間の肉を食べた

2021-09-16 20:44:16 | 文学・歴史

 天声人語(2019年9月25日)に、気象庁が観測している全国18カ所のうち14カ所で、彼岸花の開花が平年より遅れているという内容が載っていた。

 そもそも彼岸花は昔、飢饉用の食糧(非常用保存食料)として人間が植えたものである。昔人間は干ばつや冷害など様々な自然災害を生き抜くために身近な生活空間の中に非常用保存食料を備えていたのである。塩蔵食品、燻製(芋がらなど)、漬物など。さらに、松皮、藁など。は土壁を作る時に入れる藁である。藁の根元を3㌢ほどの長さに切って壁土と混ぜて塗り込めておいたのである。食べる場合、壁を崩して藁を水洗いし、潰して汁のように煎じ、とれる澱粉を飲んだ。藁の根元近くには7、8%ほどの澱粉質があり、100年以上保存できるのである。

 それらをすべて食べ尽くすと、最後に彼岸花を食べたのである。彼岸花は渡来植物(931~937年の間に成立の日本初の分類体百科事典『和妙類聚抄』に不記載。)で、雄株は日本の酸性土壌に適応せず絶滅し、雌株だけが残った。球根植物であり、種で生え殖えるものではなく、飢饉用の食糧として人間が植えたものなのである。その球根を食用にした。球根には多量の澱粉質があるのである。

 ところでこの球根にはアルカロイド毒がある。だから、水に晒し溶解して毒を除いた。彼岸花を食べ尽くすとどうしたのか。それは驚くなかれ人間の肉を食べたのである

 天明の飢饉(1783~84)に関する史料で1784年のものである、杉田玄白『後見草 下巻』の一部を紹介しよう。

「貧しき者どもは生産の手だてなく、父子兄弟を見棄て、我一にと他領に出でさまよい、なげき食を乞う。されど行く先々も同じ飢饉の折からなれば、他郷の人には目もかけず、一飯を与える人もなく、日々に千人二千人、流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなわずして残り留まる者共は、食うべきものの限りは食いたれど、後には尽き果て、先に死にたる屍を切り取りては食いし由、或は小児の首を切り、頭面の皮を剥ぎ去りて焚火の中にて焙り焼き、頭蓋の割れ目にヘラ差し入れ、脳味噌を引き出し、草木の根葉を混ぜ炊きて食いし人も有りと也」以上

 

 この飢饉による被害は単なる天災だけによるものではなく、租税の負担が平常から重く農民の余力がなかった事、領主は自己の領内の平和だけを望み、他領を救おうともしなかった事、天災に対する平常からの政治的配慮が極端に乏しかった事、飢饉に乗じて悪徳商人が跳梁した事などのため一層大きくなったといわれている。

(2019年9月29日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

織田信長が襲われたのは現在の本能寺ではない

2021-02-07 21:00:50 | 文学・歴史

 2021年2月7日(日)は、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回の日に当たっており、内容は「本能寺の変」という事になっている。

 そこで皆さんにお知らせしたい事があります。それはその事件が起きた「本能寺」は現在「存在しない」という事です。

 現在本能寺といえば、寺町御池にあります。しかし、「本能寺の変」が起きた1582(天正10)年ごろは、中京区小川通蛸薬師元本能寺町に存在した。寺域は東西150m、南北300mほどあったという。本能寺の変で焼失したあと、豊臣秀吉が上記の現在地に再建して今日にいたるのである。本能寺が元々存在した場所(現在の地名は元本能寺町)は現在、福祉施設「本能老人ホーム」となっているのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊勢荒神山の出入り(喧嘩)で落命した清水次郎長親分一家の吉良仁吉

2020-09-07 23:43:28 | 文学・歴史

 伊勢荒神山観音寺には清水を縄張りとした博徒一家の親分であった次郎長の子分吉良仁吉の「石碑」が建てられている。これは吉良仁吉が「荒神山の出入り(喧嘩)」で重傷を負い、それががもとで後に死亡したために建てられたものである。

 この「出入り(喧嘩)」は伊勢荒神山を預かっていた二人、黒田屋勇蔵一家の神戸の長吉(下総出身)と、穴太の徳次郎(伊勢出身)の内輪もめに端を発し、清水次郎長親分一家の子分、大政と小政と吉良仁吉が巻き込まれたものであった。

 荒神山では例年4月6日から9日まで祭礼が行われていた。6日の鈴鹿野登り山の祭りから始まり、7日から9日には荒神山の「御開帳」とともに各社の祭りが続いた。そして、1㌔ほどの参道・境内で博徒の賭場が200近く開かれた。

 桑名明神を本拠縄張りとしていた博徒一家の親分黒田屋勇蔵は、荒神山の「しょば割り」を長吉と徳次郎に任せていたが、徳次郎が「よそ者」の長吉を冷遇して「テラ銭」を独り占めしようとした。思い余った長吉清水次郎長親分一家の吉良仁吉に相談したところ、大政と小政らが助っ人を買って出たのである。清水次郎長親分一家は船で四日市へ乗りつけ、東海道の宿場「石薬師」(三重県鈴鹿市石薬師町)に陣取った。

 徳次郎のバックには黒駒の勝蔵が付き、西隣の宿場「庄野」(三重県鈴鹿市庄野町)に陣取って睨み合った。そして、祭りの終日の9日に、大勢の見物人の見ている中で双方斬り合いとなった。吉良仁吉は鉄砲で撃たれて重傷を負い、後に死亡したのである。双方死者2人、重傷2人を残して全員逃走し終わった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清水次郎長と東海道の博徒一家の親分衆

2020-09-07 12:22:51 | 文学・歴史

 2020年9月7日の朝日新聞「文化の扉」が「次郎長 大親分の実像」を取り上げた。その次郎長は、東海道に数ある博徒一家の中で、清水を縄張りとした一親分であった。博徒一家の親分には2種類あった。一つは領主や代官所などから十手取縄を預かる親分(風っ引き)、もう一つは賭場のテラ銭だけで生計を立てる親分であった。

 前者は、宿場問屋場と結託したり、人足部屋部屋頭を引き受けたり、子分に任せたりした。博徒一家の資金源は、人足部屋と、宿場の村の名主・役付を集めた「旦那ばくち」や「賭場のテラ銭」のほかに「祭礼ばくち」があった。

 「祭礼ばくち」とは、寺社例祭日や、本尊・秘仏の開帳縁日に、参道や境内に博徒一家が出張って、「賭場」を開いた事をいう。境内や参道の「場所を割る」のは、その神社や寺を「縄張り」にする博徒一家の親分で、「しょば代」だけで一年遊んで暮らせた一家が少なくなかったという。

 大場の久八(伊豆函南出身)は、大山不動・日向薬師(神奈川県伊勢原市)、大雄山最乗寺(同南足柄市)、箱根神社(箱根町)、伊豆山神社(熱海市)、韮山神社(韮山市)、三島神社(三島市)その他、沼津、吉原など合計12の寺社を縄張りとしていた。ちなみに、江戸湾の「お台場」を請け負った人物である。

 ほかの博徒一家の親分たちの縄張りは以下の通りである。

浜松の国領屋亀吉は井伊谷宮と方広寺(引差町)、西伝寺。見附(磐田市)の中泉の五郎は掛塚明神。森(周智郡森町)の五郎は光明寺。都田村(浜松市)の吉兵衛は権現山。雲風の亀吉(愛知県小坂井町)鳳来寺。亀吉の弟の下地の常吉は豊川稲荷(豊川市)。寺津の間之助は三州花蔵寺。常滑の兵太郎は大興寺薬師。宮の三吉は熱田神宮。桑名の黒田屋勇蔵は桑名明神。伊勢荒神山(三重県鈴鹿市)は黒田屋一家の神戸の長吉と穴太の徳次郎の預かり。勢州の他の神社と寺は、すべて伊勢古市の丹波屋伝兵衛縄張りであった。江尻(清水市)の紺屋九兵衛は瓜生神社。そして、清水次郎長の縄張りは清水の美濃輪稲荷秋葉神社であった。駿府の安東の文吉は久能山・浅間神社と今川義元の菩提寺の臨済寺。長楽寺の清兵衛は藤枝神社(藤枝市)。日坂の栄次郎は小夜の中山夜泣石。堀越のと藤左衛門は掛川神社(掛川市)。秋葉三尺坊は山梨(袋井市)の巳之助。大和田の友蔵は見附天神社(磐田市)。

このように東海道のの大親分は大場の久八で、西の大親分は丹波屋伝兵衛であったのであり、清水次郎長は東西の二人の大親分の足元にも及ばなかったようである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする