つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

岐阜市長良川の鵜飼

2024-05-12 18:24:48 | 文学・歴史

 2020年9月5日朝日新聞「Be」が長良川の「鵜飼」の記事を載せた。「鵜匠」は「世襲制」で、現在長良川では岐阜市に6人、関市に3人、合計9人いるという。1890年に宮内省所属となり、現在では「宮内省式部職鵜匠」という肩書だそうだ。「鵜飼」は宇治川など全国十数か所で行われているが、皇室に納めるアユをとる「鵜飼」は長良川だけで行われ、『御料鵜飼』とよび、その「鵜飼漁の技術」は2015年に国の「重要無形民俗文化財」に指定されている。

 ところで記事には書いていないが、この「鵜飼漁」は日本のオリジナルではなく東南アジアから伝わったというのが定説である。そして、その「」には「海鵜」と「川鵜」がいるが、日本では「海鵜」を使用している。また、「人工ふ化」ができない(2014年頃に実現)ため、岩手県三陸海岸などで自然繁殖している「海鵜」の幼鳥を捕獲したり、茨城県日立市北部の伊師浜海岸では渡り鳥としてやって来た若鳥を捕獲して各地に送り、鵜匠が訓練育成して使用してきたようだ。

 ちなみに、「鷹狩」も東北アジアの狩猟法で、沿海州で起こったものといわれている。そして、その「」も「人工ふ化」ができない鳥なので、幼鳥を捕獲して訓練しなければならなかった。そのため、鷹の幼鳥を捕獲する保護地区を作ったりしてきた。地名や山の名称で「鷹」という字がつくところはその名残といわれている。

(2020年9月6日投稿)

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日立造船のルーツ「大阪鉄工所」の起こり

2023-10-13 13:16:29 | 文学・歴史

 日立造船の起こりは、1881(明治14)年4月1日開業の様式造船所「大阪鉄工所」であった。その所長はイギリス人のエドワード・ハズレット・ハンター氏(当時41歳)であり、彼のワイフは日本人で平野愛子(当時31歳)であった。場所は大阪府西成郡春日出、六軒屋新田の松ヶ鼻。現在の此花区北安治川通3丁目。

 「鉄工所」には、6馬力の蒸気機関を原動力に、スチーム・ハンマー、旋盤などいずれも外国製の機械を設置。宣伝文句は、「造船、陸用諸機械はもちろん、架橋あるいは耕作用ポンプ、その他大小諸鋳物の製作並びに修理などすべて各位の乞いに応ず」とした。ここに「日立造船」の歴史が始まったのである。

 ハンター氏が大阪へ来たのは、1867(慶応3)年12月7日の兵庫開港、大阪開市の時。それまですでに、1865(慶応元)年に横浜へ来て、同郷の輸入商E・C・キルビー氏を手伝っており、関西へ来たのも神戸と大阪の川口居留地に店を構えた「キルビー商会」で働くためであった。

 ワイフ・愛子は、大阪市西区江之子島上之町にあった府立工業奨励館近くの薬種商・平野常助商店の長女であり、その出会いは、1868(明治元)年9月、愛子が18歳の時、腸を患っての高熱で、明日をも知れない重体で、医者も匙を投げていたところへ、27歳のハンター氏がたまたま「キルビー商会」の使いで輸入薬品を届けに来て愛子の命を助けたという。

 1873(明治6)年には、「キルビー商会」の同僚・秋月清十郎の重病も救い、これをきっかけに、秋月はハンター氏の片腕となり、西南戦争(1877)の海運業ブームの中で、「大阪鉄工所」を創設開業した。しかし、1881年に「松方デフレ政策」(緊縮政策)により経営難に陥った。その時、敷地提供者・門田三郎兵衛が「鉄工所」を譲り受けようとしたが、恐慌状態の中で経営に失敗。契約不履行から「鉄工所」は再びハンター氏の元へ戻った。ハンター氏が再開した「鉄工所」は、彼の「ジョンブル精神」(典型的英国人気質=不屈の精神)とワイフ愛子の協力により「日立造船」の土台を築いた。

 ハンター氏の子の代で、「ハンター」を日本語読みにした「範多」家を起こした。1907(明治40)年に神戸市生田区北野町に建てた「ハンター氏邸」は、1966(昭和41)年3月、重要文化財に指定され、現在神戸市灘区青山の「王子動物園」の隣に移築されている。

ハンター氏は、1917(大正6)年、76歳で死去。彼の死後、ワイフ愛子は社会福祉事業に生涯尽力したが、1939(昭和14)年、89歳で死去した。

(2023年10月13日投稿)

 

 

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ゲルニカ・ピカソ・バスク人・スペイン

2022-04-24 15:26:54 | 文学・歴史

 1929年10月24日、米国ニューヨークの株式市場(ウォール街)の株価が暴落し世界恐慌が始まった。 

 スペイン王国では1931年4月に共和派が、スペイン革命を起こしブルボン朝を倒してスペイン第2共和国を成立させた。新共和国政府はヴァイマル憲法にならった新憲法を制定したが、土地解放を実施せず、地主・教会・軍部・資本家などは必死で巻き返しを図り、政情は安定しなかった。しかし、1936年2月の総選挙で勝利したアサーニャ人民戦線内閣土地改革や教会の特権剥奪などに着手した。それに対し危機感をもった僧侶・軍人・大資本家・地主に支持されたフランコ将軍が、1936年7月にスペイン領モロッコで反乱(スペイン内乱の始まり。~1939年3月)を起こし軍事政権を成立させた。この時、これを支援したヒトラーのナチス・ドイツ軍(コンドル軍団)が残虐な無差別爆撃を行ったのがゲルニカという町であった。ドイツとイタリアはフランコ側に武器・弾薬・軍隊を送った。またドイツはこの内乱を兵器と戦術のテスト場として多くの残虐行為を行った。スペイン生まれのピカソはその残虐さを絵画『ゲルニカ』に描き抗議した事は有名である。

ゲルニカ・バスク人ゲルニカを含む、フランスとスペインの国境沿いにはバスク人が住み、バスク地方と呼ぶ。現在バスク人は国を持たず、ピレネー山脈西端麓、ビスケー湾に面したスペイン側(ゲルニカを含む)の4県とフランス側の3地方に住んでいる。バスク人はクロマニヨン人の進化した民族といわれ、現在の欧州に住む各民族の中でも最も古くからイベリア半島に住んでいた。独自の習慣や、ほかの欧州言語とはまったく類似性のないバスク語を話す。かつてはローマに侵略されても自治を保ち、5世紀の西ゴート族、8世紀のイスラム侵入にも全面降伏を許さなかった。ムーア人の侵入は、「バスク人は全員貴族だ」という理由で奴隷化を免れ、支配者が現れると、逆に自分たちの「法律」を見せて、「これを守ってくれるなら領主や王として認める」と言ったという誇り高いエピソードを持つ。12世紀頃から、カスティリア王国の支配下に入った後も、何とか自治権を維持しようと試み、それが適っていた時代もあった。しかし、その後のフランス革命、スペイン内乱などでは、自立はうやむやになってしまい今日に至っている。伝統的に続く独立運動は20世紀に入っても衰えていないが、その象徴がゲルニカの町にある「樫の木」である。かつてこの木下でバスク人たちは、領主や国王に自分たち独自の「」を護る誓いを建てさせたのである。元々ゲルニカは、人間の「自由と尊厳」の象徴の町としての歴史がある。

 1937年4月28日付の「タイムズ」紙の記事では、「バスク人の最古の都市であり、その文化的中枢であるゲルニカは、昨日午後、反乱軍の空爆によって破壊された。戦線からはるか離れたこの非武装都市の爆撃はきっかり3時間15分にわたって行われ、その間3機のドイツ型編隊機は1000㍀を下らぬ爆弾を町に投下し続けた。戦闘機は町の中央から野外に避難している民間人に対し、機関銃を打ち込んだ」と書いている。

 首都マドリードは抵抗を続けた。「優勢なフランコ軍の包囲は、マドリードの陥落を最早時間の問題であると思わせていた。「奇跡」が起こらなければマドリードは間もなく陥落するであろう、といわれた。しかし、その「奇跡」が起きた。マドリードは以後2年半持ちこたえる事になったのである。20歳から45歳までの男子は、首都防衛のために総動員される事になった。市民はを掘り、石工を指導者としてバリケードを作った。女性も使い慣れない銃をとって戦列に加わった。市内では次第に燃料がなくなり、湯茶さえも沸かせなくなった。ちょうどこの時、反ファシズムの情熱に燃えた45ヵ国の知識人や労働者が、共和国の防衛に感激と同情を寄せてスペインに集まった。世界的に頭をもたげた巨獣のようなファシズムと戦うスペインは、各国の労働者や青年を惹きつけた。彼らにとってスペイン人民戦線は、正義・革命・民主主義そして英雄的献身のシンボルであった。彼らは国際旅団を作って、スペイン市民とともに戦った。」(斉藤孝著『スペイン戦争』中公新書)

国際旅団については、別稿(カテゴリー:日本人)「スペイン戦争で人民戦線政府の国際義勇兵として戦った日本人がいた」を参照してください。

 しかし、1939年3月、マドリードは孤立無援状態でフランコ軍に陥落した。

 スペイン人民戦線側は、外国に武器援助を求めた。それに応えたのはメキシコ政府とソ連政府だけで、人民戦線政府への援助の声明を出した。それに対し、英・仏両政府はともに不干渉政策をとった。そのため、独・伊両政府によるフランコ反乱軍への武器援助は、欧州資本主義諸国政府の「容認と寛容」の下で公然と行われた。また、米国政府は、フランコ側にガソリン・自動車などの物資を援助した。

 英国・仏国・米国それぞれの政府は、マドリード陥落後すぐにフランコ政権を承認した。そして、ナチス・ドイツは欧州戦争の準備に精力を集中した。フランコ政権によるスペイン人民戦線の敗北は、スペイン以外の国々において、帝国主義戦争へと突き進む自国政府の政策を止める事ができなくなり、第2次世界大戦の序幕となったのである。

(2022年4月24日投稿)

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済南事件は田中義一内閣による、中国の統一と革命に対する妨害政策と権益死守

2022-04-20 07:34:07 | 文学・歴史

 中国(中華民国)は、1925年3月に孫文が死去した後、7月に広州国民政府を樹立し、1926年7月には蒋介石国民革命軍総司令官となり、反封建・反帝国主義を掲げ、軍閥の打倒と中国統一をめざし、「北伐」=北洋軍閥打倒戦争(1926年7月~1928年6月)を開始した。蒋介石が1927年4月に上海で反共クーデタを起こし(南京国民政府樹立)中断したが、1928年4月再び開始(第2次北伐)し、6月には北伐を完了させた。(また、12月29日には東北三省を支配する張学良が国民政府の統治下に入る「易幟」を行い、中国統一は一応完成した。)

 当時、神聖天皇主権大日本帝国では、田中義一内閣(1927年4月~29年7月)で、中国に対しては反革命的侵略的な姿勢を強めていた。そして、「北伐」に対して、大日本帝国政府の権益を守り拡大していくため、「妨害」政策を画策実施していった。それは軍事力により「北伐」に対抗し、目的を達成するものであり、3回にわたる山東出兵の実施であった。

 第1次山東出兵(1927年5月28日~8月)は北伐軍(国民革命軍)が徐州に迫った時点で在留日本人の保護を口実(本音は国民革命軍が大日本帝国政府の支配地区である満州、山東に及ぶ事を阻止するため)に、北伐軍が山東省へ入るのを阻止するため、旅順から2千人の兵を青島に出動した。そして、6~7月にかけて対中国政策を樹立するため「東方会議」を開催し、7月7日田中義一首相が「対支政策綱領」として示した。そこには神聖天皇主権大日本帝国政府の中国に対する姿勢が明確に示されていた。要約すると、

「共産党などの『不逞分子』の跳梁によって中国における権利、利益が侵害される恐れがある時は、必要に応じ断乎として自衛(出兵・戦闘行為の正当化)の措置に出る。満蒙全域における大日本帝国政府の特殊の地位権益を明確に主張し、中国本土と満蒙とを分離し、満蒙は国防上、経済上重大な利害関係をもつ特殊地域であるから、万一動乱が満蒙に波及し治安が乱れ、侵害が起きる恐れがある場合、その方面を問わず、これを防護し、内外人の安住発展の地として保持されるよう機を逸せず適当の措置に出る覚悟を必要とする」

との内容である。1928年4月に蒋介石が北伐(第2次)再開徐州を占領すると、神聖天皇主権大日本帝国田中政権は19日、国内の反対を押し切って再び山東出兵(第2次)を決定し天津と熊本から5千人の兵を済南へ送った。大日本帝国政府軍は、英米の姿勢とは異なり、第1次出兵時点と変わらず民族解放運動を鎮圧するのである。この事が「済南事件」を導くのである。

※国内の出兵反対の動き……参謀本部、陸軍省、外務省、大新聞、民政党、在日中国人、日本共産党・社会民衆党・労農党など無産政党は中国国民党駐日総支部の呼びかけに応え「対支非干渉同盟準備会」を組織し、「対支非干渉同盟」を結成し、「出兵反対宣伝週間」「出兵反対民衆大会」「支那視察団派遣運動」を起こして闘争した。

 5月1日国民革命軍は済南に入ったが、待ち受けた大日本帝国政府軍と市街戦となった。そのため、6日には北伐軍は大部分が北伐継続のため、蒋介石の命令で済南を出た。一方、大日本帝国政府軍は、国民政府の多くの特派交渉員を殺害し、大日本帝国政府軍の死者を10名、在留日本人の死者を12人出した。そこで、大日本帝国政府軍は5日、この12人の死を「邦人虐殺数280人、言語に絶する暴戻」と誇大に本国へ伝え、国民の敵愾心を煽った。さらに、国民革命軍に対し、北伐軍膺懲と威信発揚のため、12時間の期限付きの最後通牒を突きつけた。その内容は5項目で、事件関係の国民革命軍将校の厳罰、日本人に危害を加えた軍隊全部に対する日本軍の面前での武装解除、済南及び膠済鉄道沿線両側20華里以内の軍隊駐在禁止などで、国民革命軍が容認しないと承知の上のもので、再び戦端を開くための「謀略」であった。7日、田中政権は第3次出兵を決定し、1万5千人を青島へ送り、8日から10日まで済南の住民に対し空爆を含む容赦しない総攻撃を行い、死者3600人と負傷者1400人を出し、済南を壊滅させた。それは駐中公使芳沢謙吉が「第3師団が敵より先に手を出したる事はたとえ軍事上必要あるにせよ支那側(ママ)を首肯せしむるに足らず。加えるに支那(ママ)側の死傷者日本より多数なるをもって師団の要求せる5か条の如きは自然本件をもって帳消しとなるべし」と参謀本部へ報告するほどのものであった。済南事件は大日本帝国政府軍による一方的で無意味な殺戮と破壊でしかなかったのである。この事件で大日本帝国政府の暴虐ぶりは世界に知れわたり、中国の排日抗日運動は強まった。また、英米両国政府は1928年末には蒋介石の南京国民政府を承認し、関税自主権も承認したため、神聖天皇主権大日本帝国政府は中国の不平等条約撤廃の最大の敵対者である事が露わとなった。

(2022年4月18日投稿)

 

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大仙陵古墳は戦国時代城郭とされた

2022-04-14 08:02:50 | 文学・歴史

 司馬遼太郎も『街道をゆく 2』で述べていたが、近年世界遺産に登録された大阪府堺市に存在する「大仙陵古墳(伝仁徳陵古墳)」は戦国時代、「国見城」という城郭として利用された事実がある。『日本城郭体系』(新人物往来社 1980年刊)にもきちんと城郭として登録されている。戦国時代、堺市周辺を支配していた阿波(徳島県)の三好氏の勢力の城郭という事になる。

 明治時代天皇陵とされる前には、墳丘上には神社が建っていたとも言われ、誰でも訪れる事ができたようである。

 

(2022年4月14日投稿)

 

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