※下記の内容は、2016年8月21日に投稿したものであるが、加筆修正して再投稿したものです。
8月15日の「全国戦没者追悼式」の天皇の「お言葉」が、いかに昭和天皇の責任とその父を継承した現行天皇の責任を曖昧にしたものであり、真に世界の平和と日本の発展を望むものでないかをみよう。現行天皇はかつての侵略戦争に対して自らの立場を自覚し、その地位に求められる言葉を述べるべきである。
この曖昧さの原因は、一言で言えば、「昭和天皇の侵略戦争の責任を明確にしない」という事にあると言えるが、その「曖昧さ」は、
「……全国戦没者追悼式に臨み、先の大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。」
という文言については、「かけがえのない命を失った」としているが、戦争は昭和天皇に責任があったのであり、現行天皇はその責任を継承しなければならないのは当然であるが、昭和天皇が「命を失わせた」のであり、その責任を明確にしなければならないのである。だから正しい文言は「失った」ではなく「命を失わせた」としなければならないのであり、第三者的な意味合いの「深い悲しみ」ではなく「強い責任」「強い悔恨」「強い呵責」などとするのが妥当な表現なのである。
また、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されない事を切に願い」としているが、現行天皇としての正しい文言は、「繰り返されない」ではなく「繰り返さない」とすべきで、「切に願い」ではなく「固く誓い」などとするのが妥当なのである。
なぜ現行天皇がこのような文言を使うのだろうか。それは「昭和天皇」という「天皇」に重大な戦争責任があったのだという、その自覚を明確に持たないため、昭和天皇の地位を継承していながら、戦争責任の継承者としてのあり方を自覚できていないためである。そのために、「繰り返されない」という「他動詞」「受け身」の表現となっており、「切に願い」という「他力本願」の「責任の自覚を感じさせない」言葉となっているのである。また、意図的のこのような表現を使用し、天皇の責任について曖昧にしているともいえる。なぜなら、現行天皇は「お言葉」について、どのような文言であれ国民にとってはそれなりに「政治的効果」をもたらすものと考えており、その事を計算したうえで文言を作成しているからである。つまり、「お言葉」のその実態は、国民に対して「政治的意味」をもつ「政治的発言」という事であるが。
また、「全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し」としているが、「全国民と共に」としているのは、現行天皇が自ら、手前勝手に昭和天皇と自らの継承者としての戦争責任を曖昧にするために国民と同じ立場に立って追悼する立場に位置づけているという事である。大日本帝国では、天皇は支配者であり、国民は天皇に支配された者(人権を認められない奴隷と言っても良い)で天皇にすべてを捧げる事を求められた存在として扱われたのであり、天皇政府によって起こされた戦争の被害者であり、天皇とは全く立場が異なっていたという事実を無視隠蔽しているのである。だから、「全国民と共に」は昭和天皇の責任を継承した天皇の「お言葉」として使用する文言としては不適切であり削除すべきであり、「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」とした文言は「戦陣に散らせ戦禍に倒れさせた人々」とすべきであり、「追悼」ではなく当然「謝罪」でなければならないのである。また、「天皇」は自らの立場に伴う責任と決意だけを述べるべきであり国民の意思を代表する必要はない。つまり、日本国憲法前文が「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こる事のないようにする事を決意し」とうたっている事を、第99条「憲法尊重擁護義務」に基づいて、固く遵守する事を誓う事を表明する事こそが求められているのである。
現行天皇が、本当に「深い反省」に基づいているならば、「お言葉」の文言に表れてくるものであるが果たしてそれを感じ取れると言えるだろうか。言葉や文言、表現はそれを使用する人の思想や価値観を表しているものである。昭和天皇は国民に対して謝罪しなかった。現行天皇も未だに謝罪していない。そして、「退位」するという。今回のような責任の所在を明確にしない「お言葉」を今後も続けるのであれば、「戦没者追悼式」は天皇や安倍政権や政府の意向に沿ったものかもしれないが、死者も遺族の心も、敗戦後主権者となった国民の心も納得させられないだけでなく、いつまでも恨みや無念さに歯ぎしりを続けるだけである。
加えて、「お言葉」は、周辺諸国に対する侵略植民市支配、つまり加害については一切触れておらず、謝罪の文言はもちろんない。これでは「真」の友好関係を築けるどころか、これからも阻害し続ける事になるだろう。物事の解決は当事者(加害者)の誠意のこもった謝罪によって成るものである。身近な人間関係においても、相手に対して「非」を認め謝罪してこそ理解し合う事ができ仲直りができ、友情を育てる事ができるものなのであるから。
ナチスドイツのヒトラーを生んだドイツとファシスト・ムッソリーニを生んだイタリアの戦後と、日本の戦後の歩みの大きな違いが今日のそれぞれの国民精神や文化の内容に大きな影響を及ぼしているのであり、日本は無責任文化腐敗文化を生み出している。安倍政権はその最悪の状態の政権であるが、天皇や皇族はその安倍政権や自民党とのしがらみの中で生きる事こそが、皇室の存続と最良の安らぎを得られる道であると考えているのであろう。
天皇家や安倍政権ワールドの人間に、彼らの「道徳観」「倫理観」を批判すれば「生き方」「考え方」を変えてくれる、と思い込んでいる人がいるかもしれないが、それは絶対にあり得ない事に気づくべきである。