1892(明治25)年3月、帝国大学教授・久米邦武は、神道家に彼の日本古代史に関する論文『神道は祭天の古俗』(91年)を攻撃され、大学を辞職に追い込まれた。この論文は、日本の神道は宗教ではなく、東洋祭天の古俗の一つであるとするもので、「蓋し神道は宗教に非ず。故に誘善利生の旨なし。只天を祭り、攘災招福の祓を為すまでなれば、仏教と並び行われて少しも相戻らず」と皇室と結びついた神道を絶対的な地位から引き下ろすとともに、「神の事には、迷溺したる謬説の多きものなれば、神道仏教儒学に偏信の意念を去りて、公正に考えるは、史学の責任なるべし」と 名分論から自由な実証的な史学研究を主張するものであった。
論文は『史学会雑誌』第23~25号(1891年)に掲載された。それを田口卯吉が自分の主宰する雑誌『史海』第8巻(1892年)に転載し、「若し彼等(神道家)にして尚緘黙せば、余は彼等は全く閉口したるものと見做さざるべからず」と、挑発した事により、神道家や国家主義者が久米に論文取り消しを強要するとともに、宮内省や内閣に対して久米排撃運動を行った。久米は譲歩して論文を取り消したが、辞職に追い込まれた。『史学会雑誌』と『史海』も発売禁止を命じられた。田口についてはその後も屈する事なく、都下各紙に「神道家諸氏に告ぐ」を投稿し、科学的・合理的・実証的歴史学を訴えた。
久米事件は、天皇制の確立に伴う学問・研究の自由への弾圧を象徴するもので、この後、天皇・皇室についての科学的研究はタブーとなったのである。
つまり、国民の間に「触らぬ神に祟りなし」というタブー意識が培われていったのである。
この国民のタブー意識は、戦後の今日までの日本国憲法の下においても、払拭できていない。それどころか、天皇・皇族に対する尊崇の意識の度合いを強め、敗戦前の神聖天皇主権大日本帝国政府下の臣民意識状況へ回帰していると言って良い。