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国立歴史民俗博物館の展示は歴史を書き変える意図:士農工商は序列ではない、は修正主義

2020-03-26 22:26:16 | 教育

 2020年3月23日の朝日新聞は、国立歴史民俗博物館は、新しい研究成果を積極的に展示に取り入れていると伝えている。それは、

 徳川幕府が支配した時代の身分制度であるとして学校教育で教えている「士農工商」について、固定的な身分としてあったのではなく、武士以外は百姓・職人・家持町人などは社会的序列は存在せず、対等であった。また、徳川時代中期の町人たちは「職分」=社会的分業と考えていた事が明らかになっていると。さらに、神聖天皇主権大日本帝国政府が、「四民平等」政策を強調するために、「士農工商」を「社会的序列」とする見方が定着したというものである。

 しかし、この説はいわゆる歴史修正主義者(安倍自公政権)の主張であり、これまでのきちんとした科学的な研究成果を認めず、自己に都合よく歴史を偽造し書き換えようとするものと言って良く、政治的な意図をもって行われていると考えるべきで、主権者国民にとっては極めて危険な動き(歴史を国民洗脳のために利用する事)がひそかに進行しているという事を示すものと考えて良い。

 徳川幕府は、それまで(織豊政権時代)に形成されてきた身分社会の崩壊を避け「士農工商」(正確には穢多非人も)として再編固定化しようとした。そのために、「士農工商」各身分=職分のあり方について細かく規制する様々な法典を制定するとともに、儒教による教化を行ったのである。儒教では、貴賤富貴をすべて天命として、先天的に受け入れて固定させる。天は尊く高く、地は卑しく低いように、上下差別があるのが人間世界であるとする。人においても君は尊く、臣は卑しい。この上下の区別をつける事が大事で「」であるとしたのである。

 徳川中期の思想家・三浦梅園の『價原には、は「上に仕え、下を教え、礼儀を道とし、政刑を権とし、社稷を守り、国土を安んずる者」、は「黍稲桑麻を作り出して自他を養い、筋力を以て徭役を務め、余算を得て工商と相通ずる者」、は「天下に色々の器財なくてかなわぬもの故に、朝夕その道を鍛錬し、百の器物を作り出し、民生の用に不自由なき様にする者」、は「此にあり彼に無きを通用させて、天下の用をなす者」とみ、「この四者は一つ欠けても天下の用をなし難いから、それぞれの職分を務め怠らないようにすべきで、これにより共存共栄、以て国を富まし、国を興すべきである」としている。この職分意識が、農民に生産にだけ励ませ、年貢を納入させる拠り所とされていた。

 「士農工商」という身分は、それぞれの職能に基づいて国家社会における役割を分担させた「職分」なのである。そして、「職分」=「身分」はいずれも相互に上下や貴賤といった格付けをし、平等に取り扱わず差別待遇を定めたのである。

 ヨーロッパ中世では、「農民は僧侶と騎士とのために耕さねばならず、僧侶は騎士と農民を地獄から救わねばならず、尊敬すべき騎士はすべて僧侶と農民とに悪事を働こうとする者を退けねばならぬ」と考えられ、農民・僧侶・騎士のそれぞれが特有の職能を持っていた。しかし、これらの各身分は決して平等に評価されたのではなく、上下貴賤の別があったのであり、農民身分は最下層の者として他より賤視された。

 しかし、最下層に置かれた商身分はその身分秩序に変更を迫る動きを見せた。ヨーロッパではピューリタニズムであるが、日本では石田梅岩石門心学がある。そこには商売の利益を武士の禄と同等の道徳的地位に引き上げ、の職分を天命にしたがうべき天職とみなす考え方が見られる。

 「四民平等」政策というのは、「士農工商」を平等にしたという事を示す政策ではなかった。神聖天皇主権大日本帝国政府は、徳川時代の身分秩序を廃止したが、それは平等としたという事を意味するものではなく、新たにそれに代って華族・士族・平民という身分秩序(差別待遇)を設け国民を再編成し利用しようとしたものなのである。資本主義を発展させるために、前近代的身分秩序を競争の条件として利用するために意図的に残したのである。

(2020年3月26日投稿)

 

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伊勢神宮は神聖天皇主権大日本帝国政府による国家神道樹立とともに作り変えられた

2020-03-26 18:42:34 | 皇室

 伊勢神宮は、元々伊勢の地方神を祀った神社で、その祭神は、後の外宮の祭神となった土着の農業神であった。大和朝廷の伊勢への進出とともに、5世紀頃から、大王の祖先神を、在来の神社とあわせて祀る事になり、伊勢の内外の両宮が成立した。朝廷は、天照大神を鎮座させるとともに、在来の土地神を優遇して外宮に祀ったのである。内宮の天照大神と、その御饌神であった外宮のトヨウケノオオミカミを同格で祀ったのである。

 平安時代中期には、神道と陰陽道との習合も進み、伊勢神宮の神明造の正殿(社殿)も、内宮を陰外宮を陽とする陰陽道の影響を受け、それぞれ堅魚木が10本と9本、千木の切端が水平と垂直、風穴が3個と2個と定型化された。

 1871(明治4)年、神聖天皇主権大日本帝国政府により、伊勢神宮は国家神道の本宗として、内宮を主体に作り変え、「神宮」と称するようにした。1874(明治7)年には、『神宮祭式』19巻が成立させ、1914(大正3)年1月には、神宮祭祀(大祭、中祭、小祭)令を勅令で公布し、祭祀制度を確立させた。

 神宮祭祀は、伊勢神宮の伝統を一定の範囲で生かしながら、さらに宮中祭祀(皇室神道)に見合った大祭、中祭を付け加えたものである。

 ちなみに大祭は、祈年祭、神御衣祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭、遷宮祭、臨時奉幣祭。中祭は、日別朝夕大御饌祭、歳旦祭、元始祭、紀元節祭、風日祈祭、天長節祭、明治節祭など。小祭は摂社末社関係の祭祀。

 

 

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