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昭和天皇は「戦艦大和特攻作戦を望まず」は事実でなく国民に責任を追及させないため

2024-10-25 09:38:30 | アジア・太平洋戦争

 山田朗明治大学教授は、「(昭和)天皇戦艦大和などを特攻作戦に投入する事を望んでいなかった」とするが、それは昭和天皇にその責任を負わせたくない負わせるべきではない事を目論む事実に反した偏向した解釈である。

 陸海軍が「特攻作戦」を「いつ」「どのように」行うかを議論し計画し始めたのは、サイパン島の神聖天皇主権大日本帝国政府守備軍が全滅する1944年7月頃であった。

 半藤一利『昭和史』によると、陸軍参謀総長と海軍軍令部総長が1944年7月24日、昭和天皇サイパン奪還が完全に不可能である事を報告したが、それに対し昭和天皇が「元帥会議を開きたい」と侍従武官長に要望し、25日に開催した。出席者は伏見宮、梨本宮、永野修身、杉山元の4人。伏見宮から「それならば、陸海軍とも何か特殊兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない」との発言があり、それを受けて、陸海軍は「特攻作戦」を計画し始めているからだ。

 航空特攻作戦を始めたのは、大西滝次郎中将であった。軍需省航空兵器総局長であった大西中将は海軍部内に「このままの状態では日本は敗北以外考えられない、上の人たちは総辞職すべきである」という意見書を提出。1944年10月9日に第一航空艦隊司令長官となり東京を立ち、17日にフィリピン・マニラに到着。大西中将には軍令部の源田実参謀から10月13日付の以下の内容の電報が届いた。「神風攻撃隊の発表は全軍の士気昂揚並びに国民戦意の振作に至大の関係ある処 各隊攻撃実施の都度 純忠の至誠に報い攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)をも併せ適当の時期に発表の事に取り計らいたし……」と。大西中将は10月20日には米国政府軍のレイテ湾上陸作戦に対抗し捷一号作戦の一環として「神風特別攻撃隊」を編成した。大西中将は敗戦翌日、「特攻隊の英霊にもうす。善く戦いたり。深謝す」と書いた遺書を残し、割腹自殺した。

 戦艦大和など10隻による水上特攻作戦は、1945年4月7日であった。昭和天皇が1945年4月4日に海軍軍令部部長に「もう海軍に艦はないのか」と問うた言葉と上記のような歴史と事実を勘案すれば、山田朗明治大学教授の「(昭和)天皇が望んでいたのは大和の合理的な運用による戦果であり、無益な特攻作戦に投入するなど思ってもいなかった事が分かる」とする解釈は事実に基づかないもので、昭和天皇に責任負わせないための、又昭和天皇の責任を戦後国民に問わせないための国民を洗脳する歴史の改竄である。

○大和出動の際の豊田副武合艦隊司令長官より艦隊あての壮行の詩

「帝国海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を挙げて、沖縄島周辺の敵艦船に対する総攻撃を決行せんとす、皇国の興廃は正に此の一挙にあり、ここに特に海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝国海軍力を此の一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に、その栄光を後昆に伝えんとするに他ならず、各隊はその特攻隊たると否とを問わず、いよいよ致死奮戦、敵艦隊を随所に殲滅し、もって皇国無窮の礎を確立すべし」

草鹿龍之介参謀長は、大和艦上に艦隊全幹部を招集し、口達により作戦趣旨を下記のように説明した。

「国家存亡の岐路にあるこの際、海上部隊の最後の花形として多年苦心演練したる腕を発揮し得るは、武人としての本懐これに過ぐるものなし、この上は弾丸の続く限り、一騎千獅子奮迅の働きをなし、敵の一艦一船に至るまでこれを撃滅して戦勢を一気に挽回し、皇恩の万分の一にも報われたきものと存ず」

○全作戦終結後の豊田副武連合艦隊司令長官の布告

「昭和20年4月初旬、海上特攻隊として沖縄島周辺の敵艦隊に壮烈無比の突入作戦を決行し、帝国海軍の伝統とわが水上部隊の精華を遺憾なく発揚し、艦隊司令長官を先頭に幾多忠勇の士、皇国護持の大義に殉ず、報国の至誠、心肝を貫き、忠烈万世に燦たり、よってここにその殊勲を認め全軍に布告す」

○当局責任者の敗戦後の釈明

「駆逐艦30隻相当の重油を喰らう巨艦の維持は愈々困難の度を加え、更に敗勢急迫による焦りと、神風特攻機に対する水上部隊の面子への配慮もあって、常識を一擲、敢えて採用せる作戦なりという、あたら6隻の優秀艦と数千の人命を喪失し、慙愧に堪えざる如き口吻あり、かかる情況を酌量するも、余りに稚拙無思慮の作戦なるは明らかなり」

○豊田副武連合艦隊司令長官の戦後の言葉

「当時の私としては、こうするより他に仕方がなかったという以外、弁明はしたくない」

 ※この言葉が通用すると思っているところに地位役割に対する強度の「無責任さ」と「生命軽視・死の讃美」思想が巣くっている。神聖天皇主権の大日本帝国政府が、又大日本帝国憲法がいかに「その国体(国家体制)護持」を第一とし、臣民(国民)はそのための「道具」(奴隷)と同様の扱いであったという事を示している。「神聖天皇主権」の「国体」は敗戦後に得られた「民主主義」と比較して、国民にとってどれほどの価値があるといえるだろうか?答えは明らかだろう。しかし、特に安倍晋三首相以降の自公政権やそれを支持する国民は、戦前回帰をめざし、「大日本帝国憲法」を復活させ、「現行憲法改悪」を強行しようとしている。自公政権は「民主主義」の価値を、「国民主権」「基本的人権の尊重」を天賦のものと認めていないのである。国民は自公政権の価値観を変える事は不可能である。退場させる以外に政治を日本を変える事はできないのである。

吉田満氏の言葉

「戦艦大和の終焉とそれに殉じた人々の命運は、日本人が残した栄光転落の象徴として我々の眼前にある。必然の事実として、近代日本がたどった歴史の一過程としてある。この「必然」の指し示す方向とその限界を明らかにする事は、今日、深い混迷の中にいる我々が、自己を再発見する上で無意味な試みではあるまい。近代日本が明治以来躍進の果てに到達した頂点の高さを示すとともに、自らの手で歴史を打ち建てるのにいかに無力であるかを露呈するものでもあった。科学と技術の粋は非合理きわまる精神主義と同居し、もっとも崇高なるべきものは最も愚劣なるものの中に埋没する事によって、ようやくその存在を許された」

(2024年7月10日投稿)

 

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