つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

既成政党解散・挙国一党運動推進と防共護国団のテロ行為

2024-08-11 15:08:06 | アジア・太平洋戦争

 1937年7月7日、盧溝橋事件を契機に神聖天皇主権大日本帝国第1次近衛文麿内閣(1937.6.4~1939.1.4)日中戦争を全面化させた。そしてその年の12月16日の各新聞夕刊は一斉に、一条実孝公爵、頭山満、山本英輔海軍大将ら連名の「全国民に告ぐ」と題した檄文を掲載した。以下に一部抜粋。

「万世一系の天皇厳然として国家組織の中心をなし給い、億兆心を一にして天壌無窮の皇運を扶翼し奉り、君臣一体、忠孝一致のわが国体の本義が現状において顕現されていない、世界は秩序潰乱、禍機鬱勃、正に歴史的転換の潮頭に立っている今日、内、国力を結合して一体となし、外、世界未曾有の変局に処する事がわが使命であり、その使命達成のためには西洋思想の余毒たる憲法政治をもって、政党対立の政治と解するがごとき考え方を排し、全国民の一致せる精神に即して一体となり、皇国の政党の理義の徹底が今日の急務であるから、現存一切の諸政党は速やかに覚醒するところあり、彼此相対の境地を超越し、渾然一丸となりて強力政党の組織を遂げよ、苟もこれを怠らば、現存諸政党は歴史的鉄則の下に粉砕せらるるの日、必ずや遠きにあらざるべし」

 挙国一党運動のバックは、秋山定輔で、彼が近衛文麿の了解を得たうえで、配下の秋田清、宮崎龍介、山元亀次郎らを使って行ったという(『中央公論』1938年2月号重信嵩雄「一国一党論の全貌」)

 上記の「檄文」に応じて、1938年2月には防共護国団既成政党解散運動も行われた。「政党本部推参事件」である。防共護国団中溝多摩吉が、事件の前月に団体を結成し、スローガンとして「国内相剋排除、一国一党」を掲げ、その第一段階として「既成政党の解散」を目標とした。団員は陸軍の軍服に似たカーキ色の制服戦闘帽を作り全員が着用した。

 東京には2カ所の屯所を作り、そこに団員を常駐させ、彼らに各政党代議士を訪問させ、政友・民政両党解散を勧告させた。しかし、十分な成果が出ないため実力行使で政友・民政両党本部に「推参」し、党議によって解散を断行させる計画を立てた。このような手口はナチス・ドイツSA(突撃隊)の手口を模倣したものである。1938年2月17日に600名の団員を動員し、トラックに分乗し両党本部へ押しかけ、党の解散=挙国的態勢による新党樹立を要求した。民政党に向った隊は阻止されたが、政友会に向った隊は本部を占拠した。この事件は近衛文麿の了解のもとに行われたテロ行為であった。また、麻生久など社会大衆党の幹部が関わってもいた。社会大衆党は国家総動員法を「社会主義の模型」と理解していた。しかしその後の歴史は、1940年6月には新体制運動が開始され、7月には社会大衆党・立憲政友会の解散、8月には立憲民政党の解散、10月には大政翼賛会の発足、そして12月には太平洋戦争開始と向かう。

(2024年8月11日投稿)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 斎藤隆夫が反対した国家総動... | トップ | 国民精神総動員運動から新体... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

アジア・太平洋戦争」カテゴリの最新記事