2020年12月15日付朝日新聞が「西田哲学 スポーツで探る」という見出しの記事を掲載した。「生誕150年を迎えた」として西田幾多郎(1870~1945)を「称賛」「顕彰」し「肯定」している事をうかがわせる表現を使って。また、西田のプロフィール内容も極めて一面的で偏向しており、西田についての知識を持たない人を欺き好印象を与えるようにしている。朝日新聞はなぜ今何を目的に「西田哲学」を好意的に取り上げるのか注意が必要である。
西田幾多郎の生誕地石川県かほく市(旧宇ノ気町)は、西田の業績を後世に長く顕彰する事を目的として、すでに1968年には宇ノ気町立西田記念館を建設していた。その後2002年6月8日には、石川県が、かほく市に管理運営を委ねた、「石川県西田幾多郎記念哲学館」(安藤忠雄の設計)を開設している。かほく市も石川県もともども西田を「顕彰」する「立場」に立っているといえる。
哲学館HP「概要」には「西田哲学」を、「日本の哲学の歴史の出発点であり一頂点でもある……すでに古典の位置を獲得……国内外での関心の高さや研究文献の数が、その事を物語っている」「生きる事を凝視し続けた哲学」と高く称賛している。また、かほく市教育委員会が出す冊子は「西田先生」としており、市議会でも呼び捨てにしていない状況が存在する。
しかし、西田は軍の関係する「国策研究会」での演説を『世界秩序の原理』(1943年)にまとめたが、それには「皇室は過去未来を包む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に、万世一系の我国体の精華があるのである。我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心というだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである。」「神皇正統記が大日本者神国なり、異朝には其たぐいなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云う事は、単に直線的という事ではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云う事でなければならない」「日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云う事にあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。」「英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであろう。」と述べているように、万世一系の天皇を頂く神国日本が、世界の覇者になると予言していたのである。
また、1940年には講演録『日本文化の問題』では、日中戦争を肯定し、「従来、東亜民族は、ヨーロッパ民族の帝国主義の為に、圧迫せられていた、植民地視されていた、各自の世界史的使命を奪われていた。……今日の東亜戦争は後世の世界史に於いて一つの方向を決定するものであろう」と述べていた。
また、西田は禅体験による「純粋経験」を哲学の出発点としたが、それは、主観と客観の分離の否定、知情意の区別の統合、個と全体の統一であり、滅私奉公、さらに国民が国家(政府)=天皇のために殉死する事を正当化するものであった。西田の国家観は、天皇を父(神)とする疑似家族国家であり皇道であり、共産主義のみならず、民主主義や自由主義を否定した。
西田の教え子三木清は1933年、近衛文麿のブレーン「昭和研究会」に参画し、中心メンバーとなっていた。39年には彼の著『新日本の思想原理』で「東亜共同体論」を構想し、西田哲学を具体化した。これが近衛首相の「東亜新秩序」声明となり、「大東亜共栄圏」や「大東亜戦争」の元となったのである。
西田の理解者であり、ともに京都学派をリードした田辺元は、1940年に『歴史的現実』を出版し、「抑々天民・君民一体という言葉が表して居る様に、個人は国家の統一の中で自発的な生命を発揮する様に不可分に組織され生かされて居る、国家の統制と個人の自発性とが直接に統合統一されて居る、之が我が国家の誇るべき特色であり、そういう国家の理念を御体現あらせられるのが天皇であると御解釈申し上げてよろしいのではないかと存じます。」「死が問題となるのは死に於いて生きつつあると共に、生に於いて死に関係しているからである。……我々が死に対して自由になる即ち永遠に触れる事によって生死を超越するというのはどういう事かというと、それは自己が自ら進んで人間は死に於いて生きるのであるという事を真実として体認し、自らの意思を以て死に於ける生を遂行する事に他ならない。」という論理、つまり「生きる事は死ぬ事だ」「悠久の大義に準じた者は永遠に生きる」という論理を説き、強要される戦死を自発的な戦死へと歪曲させた。
西田の直系の弟子の高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高らは1941年に座談会を行い、戦争を正当化した(『世界史的立場と日本』)。42年には『近代の超克』を発表した。敗戦後4名は公職追放となった。
最後に、近年注意しなければならない動きは、「自由と民主主義が不幸を生む。平等主義や格差是正などは欺瞞である」(『反・幸福論』)などと主張している佐伯啓思が、西田哲学に傾倒し、日本や特攻を賛美している(『西田幾多郎 無私の思想と日本人』)事である。
(2020年12月18日投稿)
大学時代からの友人二人に誘われて発足後間もなく加わってからもう15年。一人は亡くなり、一人はパーキンソン病でほぼ病床に。習慣でほぼ毎日一人で書いているが、活動力の減退につれて、そろそろ限界と感じています。
まず犠牲になってきたのが、ギターを弾く時間。新曲への挑戦ができず、易しい2重奏、暗譜群の復習などに逃げています。
ランは諸活動の前提的条件として必要だし、同人誌は編集長の代わりがいない。
そんなわけで、今年はブログへの態度を改めて変更するかも知れません。なんとなく虚しい感じもありますし・・・。その節はまた相談します。