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興福寺五重塔修理記事:メディアは興福寺僧が国家神道政策に無抵抗だった頽廃的過去を教訓として伝えるべき

2024-05-17 12:06:19 | 世界遺産

 2020年2月20日の朝日新聞が、世界遺産である奈良・興福寺(730年に光明皇后の発願で建立され、現在の五重塔は室町時代の再建)が21年度から、約120年ぶり(1901年に屋根の吹き替え工事)に国宝の五重塔(高さ約55㍍の京都東寺に次ぐ2番目の高さ)の大規模修理を行う事を報道した。

 この記事の書き方を見て残念に思った事がある。それは、五重塔の修理は、明治維新に神聖天皇主権大日本帝国政府国家神道政策に基づいて宗教統制をするために発した神仏分離令(廃仏毀釈運動)をきっかけに興福寺の僧たちの頽廃的風潮が起こした五重塔売却という危機状況が現実化しなかったからこそ可能となったのだという事実を、国民に伝え国民が今後の教訓にできるうな内容にする事こそ、記事とする意味がある事を知るべきだという事である。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、古代律令国家(神道神権政治)回帰する事を目指し、神道を国教とする祭政一致の政治の整備を進めた。そして、神祇官が、それまで神仏習合状態にあった宗教のあり方に対し、1868年3月神仏分離(廃仏毀釈運動)を命じた。その際、興福寺の僧たちは春日大社の神職にさせられ(実態は自ら進んでなった)興福寺は廃寺同然となった。この時に五重塔は入札をもって払い下げられ、25円で落札(評価の基準は単に金具にあった)されたのである。

 買主商人で、解体するのに大変な手数と費用が必要である事が分かり、金目の金具だけ剥ぎ取ろうとした。しかし、作業の人夫への手当も大変だとわかり、ついに焼いてしまった後金具を拾う事にした。しかし、近隣の民家から類焼の恐れがあると抗議されたため、結局買う事を止めたのである。

 『明治維新・神仏分離史料』には「奈良における神仏分離、ひいては廃仏毀釈は、興福寺において、最も激烈を極めたりき」とある。

その際の興福寺別当(長官)格の大乗院・一乗院両院家の対応について『奈良市史』には「されば排仏の事決せらるるや驚愕甚だしく、四月十三日(1868年)両院家先ず復飾(還俗)を願い出ると、一山衆徒も之に倣って復飾を願い……」との状態であった。

 上記両院に次ぐ権別当(副長官、喜多院)復飾の願いに遊民同様の僧侶、過分の高禄を世襲の事、恐縮……」と自認していた。

 1869年6月24日には、髪を蓄え、俗服を着た元僧侶たちは神職となるために、興福寺東室に集まり、神道を学ぶため国学(『古事記』)の講義を受けた。

 このように興福寺の僧たちは一斉に還俗し、寺を捨てたため、寺(五重塔)も仏像も宝物も政府によって売りに出されたのである。

 また、『明治維新・神仏分離史料』による当時の興福寺には「本寺本山既にあれども無きが如く、法音聞こえず、香烟絶え、強慾無慚の輩は、重宝什器を偸みて、私腹を肥やすに汲々たる有様にて、中に之を監督すべき官吏にして、権威をほしいまま、名画名器を私するもの少なからず、某々知事の如き其のもっとも甚だしかりしものと称せらるる」という状態も見られた。

1872年9月には、一山の土塀・諸門などがことごとく破壊された。

1882年政府は、廃仏毀釈を止め、古社寺を保存するため「古社寺保存金制度」を実施した。1889年には、広大な興福寺跡に奈良県立公園が設立された。

1909年には、大乗院庭園跡の丘陵上に奈良ホテルが建てられた。

 神聖天皇主権大日本帝国政府が推進した文明開化政策は、実利主義に立った。その社会改造は破壊的であった。歴史的伝統的なものを排斥して、古い物と見なせば、深くその価値を考えず破壊した。美術も建築も破壊又は骨董屋に並び、風俗、習慣、嗜好さえも文明開化の名の下に政治権力で強引に変えさせた。

消滅寸前にそれを免れ今日に残るものの例を挙げると、彦根城、姫路白鷺城、吉野山の桜、鎌倉大仏、名古屋城、能楽などがある。

メディアはある事を記事にする場合、何を目的とすべきかを熟考すべきである。

(2020年2月23日投稿)

 


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