伊勢荒神山の観音寺には清水を縄張りとした博徒一家の親分であった次郎長の子分吉良仁吉の「石碑」が建てられている。これは吉良仁吉が「荒神山の出入り(喧嘩)」で重傷を負い、それががもとで後に死亡したために建てられたものである。
この「出入り(喧嘩)」は伊勢荒神山を預かっていた二人、黒田屋勇蔵一家の神戸の長吉(下総出身)と、穴太の徳次郎(伊勢出身)の内輪もめに端を発し、清水次郎長親分一家の子分、大政と小政と吉良仁吉が巻き込まれたものであった。
荒神山では例年4月6日から9日まで祭礼が行われていた。6日の鈴鹿野登り山の祭りから始まり、7日から9日には荒神山の「御開帳」とともに各社の祭りが続いた。そして、1㌔ほどの参道・境内で博徒の賭場が200近く開かれた。
桑名明神を本拠縄張りとしていた博徒一家の親分黒田屋勇蔵は、荒神山の「しょば割り」を長吉と徳次郎に任せていたが、徳次郎が「よそ者」の長吉を冷遇して「テラ銭」を独り占めしようとした。思い余った長吉は清水次郎長親分一家の吉良仁吉に相談したところ、大政と小政らが助っ人を買って出たのである。清水次郎長親分一家は船で四日市へ乗りつけ、東海道の宿場「石薬師」(三重県鈴鹿市石薬師町)に陣取った。
徳次郎のバックには黒駒の勝蔵が付き、西隣の宿場「庄野」(三重県鈴鹿市庄野町)に陣取って睨み合った。そして、祭りの終日の9日に、大勢の見物人の見ている中で双方斬り合いとなった。吉良仁吉は鉄砲で撃たれて重傷を負い、後に死亡したのである。双方死者2人、重傷2人を残して全員逃走し終わった。