1941年12月8日の昭和天皇の「対英米開戦の詔勅」では蒋介石の中華民国政府を以下のように見なしていた。
「中華民国は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう4年以上経過している。幸いに国民政府は汪兆銘の南京政府(1940年3月成立、日本政府の傀儡政権)に新たに変わった。帝国はこの政府と善隣の誼を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権(1937年11月~)は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府といまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英国は残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名に隠れて東洋を征服する非道な野望を逞しくしている。」
さて、日中戦争を開始した1937年7月7日の翌年1月11日の御前会議では「支那事変処理根本方針」を決定した。これが1月16日の第1次近衛声明「国民政府(蒋介石)を相手とせず」である。
この決定はどのようにしてなされたのか、その時天皇はどのような態度をとったのだろうか。石射猪太郎「外交官の一生」によると以下のようであった。
「場所は宮中の広間……一同玉座の両側のテーブルに威儀をただす。玉座は臣席より2、3間ほど離れて、六曲の金屏風を後に、テーブルを前にしつらわれている。定刻、一同最敬礼裡に陸軍装にて出御着座、近衛首相が司会係、広田外相から議案を御説明申し上げた。……原案賛成の平凡な意見が、修辞美わしくもっともらしく述べられたに過ぎない。それで原案可決となり、陛下は終始御言葉なく、全員の最敬礼を背にして入御、会議は2時間とはかからなかった。国家の最高意思を決定する御前会議とは、いつもこんなものか、実にぎこちない形式的なものであった」以上
「開戦の詔勅」では、「東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は……私が常に心がけている事である」としているが、上記の御前会議の様子からは天皇は中国への武力行使(侵略戦争)を当然の事と考えていたと思われる。
また、近衛博文首相の「声明」発表後、小川平吉との会話を紹介しよう。
近衛「彼らを対手とせずと宣言したものの、蒋介石が和平を言ってきたらどうしたものか」
小川「そんな事は何でもない」
近衛「そうだな、その時にはまた方針を変えればいい」
小川「そうだ、そうだ」
というものであるが、ここに近衛の人格のすべてが表れているといえる。
ところで蒋介石は日本に対してどのような分析をしていたのだろう。その事がわかる史料がある。それは蒋介石が日中戦争開始2周年にあたる1939年7月7日発表したメッセージ『日本民衆に告げる書』である。以下がその内容である。
「日本軍閥の思想的重大な錯誤は近隣の東亜諸民族を蔑視する事である。日本は明治維新後、国運が進歩したために、幾千年来の歴史を忘れ、妄りに自ら尊大となり、立ち遅れた隣国を蔑視した事である。かかる思想が軍閥に唱導され奨励されたため、人心を麻酔して、ついに武力万能と侵略主義万能の思想を鋳成したのである。実を言えば、これは諸君の最大の不幸である。
日本、中国並びにその他の東亜諸民族は近代西洋科学文明から見れば、いずれも同じく立ち遅れた国家である。だが日本の明治維新が半世紀を先んじ得たばかりに軍閥は、意気沖天の面持ちで、自分こそはアジア唯一の優等民族だと思い込み、その他をみな劣等民族だと見なしているが、これこそまことに「器小さければ満ち易し」であり、毫も大国民の襟度がない事である。中国革命と明治維新とは、東亜民族にとっては二大事件である。だが日本軍閥はひたすらうぬぼれるばかりで、中国を抹殺し、中国を朝鮮と同様に併呑しうるとみなしている。……世の中の事は、おのれ独りの都合だけで計れるものではない。日本は我が満州を占領して便益を得たにしても、却って軍紀の堕落を迅速ならしめた。しかも軍人専制の政局を作り出し、諸君の国家は今日、狂妄無知の少壮軍人に左右されている。政権はまったく軍部に操られ、その軍部がまた少壮軍人の一団に操られている。この連中は野心はあっても識見なく、また各々議論は区々で、それぞれ派閥を作っている。そのためにただ侵略主義を高唱する者のみが益々勢力を得る結果となっている。諸君の国家の行動は、実際から言って、このごく少数の狂妄なる少数派に指導され、壟断されている。彼らは天皇の龍袍の袖に隠れ、悪のなさざるなく全く国家紀綱なきさまである。内閣に至っては、これら少壮派のロボットに過ぎず、彼らの尻について動くだけである。
戦争は元々一大事件であるのに、諸君はただ受動的に少数軍閥の措置するままに任せ、しかも資材と生命を捧げさせられて、その上に不断に軍部の提灯持ちを強要され、しかも謳歌のみ許されて、反対は許されず、苟も疑いの様子あれば忽ち投獄され、拷問を受けた。この2年間に、警察と憲兵とに逮捕され投獄された幾千幾万の日本の知識分子に至っては我が東三省(満州)におけるいわゆる思想犯と同じ境遇ではないか。……日本の軍部の言動がどれほど信用のおけないものか……こんな事は諸外国はとうに気づいている、気づいていないのは日本の民衆諸君だけである。……これでは日本の民衆諸君は実に奴隷も同然である。……日本軍閥の思想的特徴は、自らの過ちを絶対に認めようとしない事で、中国での戦争がうまくいかない事に自省するのではなく、かえって欧米諸国に恨みを移し、遠からず米国や英国に戦争を仕掛ける事になるであろう。……中国の諺に『盲人盲馬に騎して夜半深池に臨む』という事がある。日本の民衆諸君は、自ら盲従に甘んじて、盲馬たる軍部に手綱を任せ、日本の国家を万丈の深淵に追い込みつつある。満州事変以来日本の実情は全くこのようである。しかもそのよって来る所以は、日本民衆が現に受けつつあり、将来も受けようとしている無限の禍害のことごとく、日本軍閥が東亜諸民族を奴隷視せんとした一念から出たものにほかならぬ。諸君がこのうえ自救に目覚めないとすれば、必ずや後悔の臍を噛む想いをする日があるに違いない。」以上
以上であるが、神聖天皇制大日本帝国政府や国民はこのようなメッセージを送られながらもそれを無視し、泥沼化した日中戦争を打開するため東南アジアの資源獲得に向かったのである。そしてその先で、昭和天皇は、1941年12月8日「対英米開戦の詔勅」を発表する道を選ぶ事になったのである。
(2016年12月11日投稿)