原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

かっぱなにさま? かっぱさま!

2020年06月02日 | 医学・医療・介護
 家庭内での我が愛称は、「ぱっか」である。
 「かっぱ(河童)」をひっくり返したものだが、我が最愛の娘が幼少の頃に付けてくれたお気に入りの愛称だ。

 何故、娘がこの愛称を私に授けてくれたのか?
 その理由とは娘が2歳の時に、私は頭部皮膚癌の摘出及び脚からの植皮手術を受けた故だ。
 その置き土産が、我が外見をまさに“河童”に仕立て上げてくれた。

 当時ちょうどNHK「お母さんと一緒」内で、冒頭の「かっぱなにさま? かっぱさま!」が流行っていた。
 この歌、曲調がよいのに加えて、歌詞もいい。 
 娘がテレビでこの歌を聴き画面の“かっぱさま”を見て、母の姿が二重写しになったことだろう。 



 ここで、我がエッセイ集2007.10.05公開 「癌は突然やって来る」 を以下に再掲載させていただこう。

 現在、癌は日本人の死亡原因の第一位を占めているようだ。 とは言っても、自分や身内や近親者が癌に罹患しない限り、他人事と考えている人が今なお多いのではなかろうか。 ところが、癌とは本当に突然やって来るものなのだ。

 実はこの私にも癌が突然やって来た。 私の場合、医学関係の仕事をしていたこともあってある程度自分の体の状態が客観的に把握できるため、突然と言うには少しニュアンスが違うのだが、そんな私にとっても癌との対面はやはり人生において忘れることはない大きな出来事であった。

 癌と診断される8年も前のある日、私の頭に突然“できもの”が出現した。 痛くも痒くもないのだが何日たっても消えない。 不気味に思い、健診時に医師に相談したところ「粉瘤」であろうとの診断である。 私もその類のものではないかと自己診断していたため多少は気にしつつも、“できもの”に特に変化はなく年月が流れた。

 子どもが1歳の頃、その“できもの”が徐々に大きくなっていくのに私は怯えながらも、母親として育児を最優先し自分の事は後回しにしているうちに、子どもが2歳になり少し手が離れた。 その“できもの”の大きくなり方が尋常ではないため、私は思い切って近くの皮膚科を受診した。 案の定、直ぐに大学病院を紹介され、その大学病院にて“できもの”の組織を切り取り細胞診の結果を待った。 
 その3週間後の夜10時半頃担当医から突然自宅に電話があり、次の日の午前中に必ず病院まで来るようにとの指示があった。 あの電話のことは今でも生々しく憶えている。 私はその電話で既に悪性腫瘍(癌)であることを悟り、生まれて初めて「死」を意識した。 ところが、私は自分でも不思議なくらい至って穏やかなのだ。 なぜならば、死を意識した瞬間に「いい人生だった」と思えたからである。(何分、類を見ないほど自分のやりたいことを最優先して自分勝手に生きてきたもので…。)
 いち早く、その電話の事と私の「いい人生だった」との思いを親しい知人に話したところ、知人からこっ酷く叱られた。 「馬鹿なことを言ってるんじゃない。あなたにはこれから産んだ子どもを育てていく義務がある!」と。 その知人の愛情が心にしみて、私は初めてぼろぼろ涙を流した。 それでも、死を意識した瞬間に「いい人生だった」と思えたことが、その後の私の癌闘病生活の大きな支えとなる。
 入院後、癌周辺組織の摘出手術を受け私は順調に回復し、見舞ってくれた友人に“明るい癌患者”と名付けられる程生き生きとしていた。 2週間後には退院できると喜んでいた時、突然担当医が抗癌剤投与を告げるのだ。 私は自分の癌について医学書を熟読し十分な知識を得てから入院しており、担当医とも出来る限り話し合って治療に臨んでいた。 私の癌に特異的に作用する抗癌剤はその時点では開発されていないはずで、抗癌剤投与はしないことを話し合っていたのに、突然の変更に私は大きく動揺した。 抗癌剤はご存知のように癌細胞を攻撃する薬であるのだが、正常な細胞までも攻撃してしまう、すなわち副作用が大変強い薬なのだ。 私は投与を中止するよう担当医に交渉したのだが聞き入れてもらえず、早速抗癌剤投与が始まってしまった。 これが予想通りの大打撃で、投与の度に発熱して体が手に取るように弱っていく。 手術後はあれだけ元気だったのに、抗癌剤のせいで私は一転して“癌患者らしく”なってしまった。
 人間というものは体が弱ると心まで弱気になり悲観的になるものだとつくづく学習させられることになる。 人にも会いたくなくなりせっかくの見舞い客の対応が苦痛になった。 1週間のみ限定投与の条件を付け、あの苦しみを私はとにかく1週間我慢した。 担当医はその約束は守ってくれ、投与終了後退院の運びとなった。 入院前にはピンピンしていた体が抗癌剤のせいで弱りきっての退院である。

 退院後は定期的な通院となるわけだが、育児の日常が待ち構えていて私はみるみる回復した。 ただ、抗癌剤による後遺症の抜け毛が半年程続き、手術の置き土産である頭部の傷跡は一生我が身に刻み込まれたままとなる。
 それでも(2007年現在)術後11年が経過した今、私は再発、転移もなくこの通り普通に生きている。
 (以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を引用したもの。)


 
 午前中に “草稿”状態のエッセイを公開してしまい、大変失礼致しました。
 それでは、最終章部分を追加記載させていただきます。

 今回のエッセイは「医療・医学・…」カテゴリーの記事として公開したため、その観点から少し追加分析をさせていただこう。

 私が患った皮膚癌は初期発症後8年も経過して癌細胞が増殖した、との珍しいパターンの癌だった。
 これに関して、当時の担当医と話し合ったことがある。
 “元々良性腫瘍だったのが悪性に転化した”のではないか?” との我が考察に対し。 担当医のご見解は“当初から癌だったが、増殖スピードが非常に遅く気づかないままに月日が流れた後、急激に増殖し始め今に至った”とのことだった。
 いずれにせよ、とにかく癌部位周囲への転移が無くラッキーだったものだ。
 もしも頭蓋骨等への転移があったならば、上記のごとく「いい人生だった…」と本気で言わねばならない運命だっただろう。 その転移に関しても、入院中(及び退院後も)幾度も頭部から胸部辺りまでのCT撮影等で確認したものだ。  

 同時期に入院していた女性など、腕に生じた初期皮膚癌を当初の地元担当医が1年以上にも渡り見逃したがために、腕全体に転移してしまい、片腕を肩の付け根から切断するとの悲惨な結末になったようだ。 当時既に義腕を装着されていたが、それでも気丈かつお喋り好きな方で、明るくその事実を話して下さった。
 癌経験者に共通した思いとは、癌で身体の一部を失う辛さよりも、癌が増殖するあの不気味さ経験の方がはるかに怖い、との事だろう。 私の場合も、頭が河童状態になったことなどどうでもよく、とにかく不気味な癌を切除できた喜びの方が格段に大きかった。

 我が皮膚癌の発症原因に関しても、私なりに考察している。
 やはり医学関係者だったことに端を発するが、私が結論付けた事がある。 “無菌操作”中に、大量の紫外線を頭部に浴びてしまったのではないか? との考察が正解のような気がしている。 
 現在では、医学者のそれら危険物質に対する管理体制も劇的に進化しているが。  私が現役だった40年程前の時代には、そうではなかった。 特に目に見えない紫外線や放射性同位元素等々危険物の管理が、万全だったとは言えないだろう。  我が皮膚癌の場合、頭部に発症したことを勘案すると、紫外線が疑わしいと考えている。

 更には、何故頭部に癌発症後しばらく8年間も小康状態が続いた後、何が原因でその癌細胞が急増殖し始めたのか?  
 それはおそらく「(高齢)出産」が原因であろう。 何分、救急搬送の上緊急帝王切開手術との、とてつもない難産だった。 その後半年間ほど“生きた心地がしない”程の絶不調のまま、不具合を抱えて誕生した娘の育児を余儀なくされた。
 それでも、娘2歳頃には母である私の精神状態に少しは余裕が出来ていたのだろう。  (この我が頭部の異常状態を放置しておくと、今度は我が身が危ないかも)なる考察が叶ったものだ!
 その結果診察を受け、我が皮膚癌の摘出手術は成功を遂げた。😃 


 最後に大幅に話題を変えるが。
 
 ネット情報によれば、本日東京都内で新たに30人以上が新型コロナウイルスに感染していることが確認されたとのニュース報道だ。 1日の感染確認が30人以上となるのは先月14日以来19日ぶり、とのこと。

 やはり我が予想通り、まだまだ“コロナ禍”に関し安堵している場合ではない。😷 
 
 癌で生き延びて、コロナで命を落とす訳にはいかないぞ!
 かっぱなにさま? かっぱさま! だ!!