原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「発達障害児」である事実を子ども本人に告げるか??

2020年06月18日 | 教育・学校
 昨日昼過ぎのNHKテレビ「ごごナマ」のテーマが“発達障害”だった。


 我が家の場合我が娘が既に26歳になり、何のコネも無く自分の力で公募制推薦入試に合格した大学をきちんと4年間で卒業し、自力一本で就活し探し当てた就職先での正社員としての勤務も5年目に入り、順調な成長を遂げてくれている。
 (まあ、サリバンの私が大学公募制推薦入試時の「面接」や「小論文」課題指導や、大学の小論文課題等の手伝いはしたけどね。😜
 
 この娘に関して記載したバックナンバーエッセイが数本あるが、その中で我が記憶に新しいバックナンバー 2019.09.10公開 「原左都子の娘記・『自分史下書き・私が産まれた日』」 を以下に再掲載させていただこう。

 つい先ほど、パソコンの「文書管理」ページを開いたところ、「娘の文書管理」内に興味深い文書を発見したため、それを紹介させていただこう。
   テーマ :私が生まれた日 
   聞き取り調査をさせてもらった人: 母

質問内容とその答え

 Q. 私は産まれた時に息をしていなかった(仮死状態で産まれた)そうですが、そのことについて詳しく教えてください。
  A. 〇〇(娘の名前)が生まれた日は、母にとっては一生忘れる事のできない特別な日です。〇〇はおなかの中で逆子でした。それに加えて母が高齢初産だったため、元々帝王切開で出産する予定でした。ところが、帝王切開手術の予定日より2週間早い日に陣痛が始まってしまって、その日がたまたま祝日でかかりつけの病院では手術ができないため、自宅で待機するよう電話で主治医から指示を受けました。父も出勤日だったので、母は自宅で苦しい陣痛に一人で耐えているうち、どんどん体調が悪化していくようで夕方には動けなくなりました。急きょ主治医の指示で、母は救急車で手術ができる病院に運ばれ、夜やっと手術をしてもらえました。
 夜の八時六分に帝王切開で〇〇が産まれました。いろんな悪条件が重なってしまって、産まれてきた〇〇は息をしていませんでした。(病院内ではなぜかその事実は伏せられていて親には告げられず、ずい分後に知った話ですが。)直後に保育器に入れられて、母が初めて〇〇に会えたのは産んでから三日目でした。とてもかわいい色白の女の子で感激しました。
 母は、赤ちゃんを産むということは産む方も産まれてくる方も命がけだという事を、〇〇を産んだお陰で身をもって知りました。 だからこそ、生まれてきた命はかけがえがなく尊いのです。

 Q. その後、私は息をしたのですか。
 A. もちろんです。母が産んでから3日目に〇〇に会えた時には息をしていたし、その後ずっと無事に育っています。幼少の頃は斜頸があったり夜驚症があったり不明熱を出したり抜毛性脱毛症を発症したりして頻繁に病院通いをしましたが、小学校高学年以降は大きな病気もなく比較的元気なことは〇〇本人も知っているとおりです。

 Q.  私は何事もスローペースだったり人とのコミュニケーションが下手なのですが、その事と仮死状態で産まれたことは何か関係があるのですか。
 A. 幼少期に、そういうことについても専門の医療機関や教育機関で調べました。結論だけ言うと、現在の科学では両者の因果関係の解明は困難です。 そもそもなぜ〇〇は仮死状態で産まれて来なければいけなかったのかについて、その原因追究、責任追及をしようと思ったこともあります。ただ、それらを徹底的に解明したり追及することでエネルギーを擦り減らしても、仮死状態で産まれたという事実は消しようがありません。 親として優先するべきことは実際に〇〇が成長していく中で、〇〇が苦手な事を克服して社会適応していく事のサポートだと考えたので、そのことに尽力してきました。幼少の頃に教育研究所に通って研究者の指導や助言を受けたことがあることを、〇〇も憶えていると思います。幸い〇〇は生まれ持っての性質や様々な能力に恵まれていて、また人一倍の努力家で頑張り屋でもあるので、今までに苦手な事を十分に克服してきています。「もう大丈夫」との専門家のお墨付きももらっているし、親としても今では心配な事はほとんどありません。〇〇はこれからも〇〇らしく持って生まれた能力や性質を伸ばしていって欲しいし、今後共、両親はそれを見守っていきたいと思っています。

 聞き取り調査を終えての感想、メモ
  これからも、今までのように着実に努力を続けていろいろなことを頑張っていきたいと思います。

 (以上、パソコンに保存してあった「娘の文書」より引用したもの。)   
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 これを読んだ後の我が(2019.09時点の)感想だが。
 この文書は娘が中学生の時に作成したものだ。 その時に手伝ったことを今確かに思い出した。
 娘が「仮死産」だった事実を私は娘に告げたか否かに関しても、すっかり忘却していたのだが…
 これ程明瞭に告げていた事を、今になって認識し驚いた。
 それが失敗ではなかったことを私に思い知らせてくれる文書だ。
 ありがとう、娘よ。 
 その事実を知った後も、貴方は日々まさに着実にたゆまぬ努力を続け、最大限頑張って生きているよ!
 それを一番よく知っているのは、この母の私だ。
 そんな貴女を今後一生涯見守っていくよ!

 (以上、2019.09本エッセイ集バックナンバーを再掲載したもの。)



 2020.06.18現在の補足説明をしておこう。

 上記のごとく、我が家の場合“仮死状態での出産”であった事実は娘に告げている。  何故ならば上述通り、娘が生まれ出てから中学生頃までそれが理由と思しき“奇病・難病”を繰り返し病院通いを続けたがために、学校を休まざるを得ないとの事情があった故だ。 何故こんなに病院にばかり行かねばならないのかを娘に理解してもらうため正直に話した、と記憶している。

 ただ、私は娘に今の今まで「発達障害」に関しては、口が裂けても告げていない。 それは、そうすることが親としての子への配慮であると信じている故だ。 (ただ、過去にその専門教育研究所へ通った事等を娘本人が覚えているであろう。 それでも我が娘とは実に“立派”な人格者であると感心する。 親がそれを口に出さないのならば自分も黙っておこう、と気遣っている風でもある…)


 昨日のNHKテレビ番組に話題を戻すと。

 何と! 親が小学1年生の子どもに“発達障害児”であることを告げていると言う。😨   
 ただ、そうせずして“普通の親”(特に“医学経験や教育者経験の無い親”という意味だが)とは、そうでもせずして手の施しようがないのかもしれないが…。
 そうしたところ子ども本人が周囲の子ども達から、例えば「お前、変だよ。」と言われた時に、「ボクは“発達障害”だから仕方ないよ!」と言い返すのだと言う。

 いやはや、何だかすべてが基本的に歪み切っている印象を抱かされる…。


 あるいは、現在の“コロナ禍”下での自宅学習の話題もテレビ番組で出た。

 いつも学校での“発達障害児”特別教育制度に子どもの教育すべてを委ねている家庭に於いて、自宅学習を親が手伝うのに難儀しているとの訴えがあった。
 むしろ子ども側から「お母さんじゃダメだ、早く学校へ行ってその教育を受けたい!」との要求が出されてしまい困惑する、との談話もあった。

 この話を聞いて、私など現在はそれ程までに“発達障害児”教育が公教育現場で取り入れられている事実に安堵したものだが。


 最後に我が感想だが。

 ある意味では、我が家は恵まれているのであろう。
 教育方面・医学方面両者の専門的支援が母親である私の力量で十分に叶った事実を、昨日のNHKテレビにて再確認出来た。
 もしかしたら、“発達障害児”を抱える家庭に於けるこれ程の“成功例”は全国規模でも類を見ないのかもしれない。

 などと言っても、皆様には語れない我が娘に関する今後に渡る様々な課題がまだまだある。
 やはり私が長生きして、娘の人生を陰で支え続けたい思いが山々だ…。
 (それこそが我が“強さ”と“生き甲斐”の根源なのかもしれないが。)