どうやら、現代の若者は“むなしい”らしい。
いや、現代に限ったことではなく、昔から“若さ”とは虚無との闘いであるのかもしれない。
5月10(土)朝日新聞夕刊「こころ」のページ“悩みのレッスン”の若者の悩みもこの“むなしさ”なのである。
以下に、中学3年生の相談内容を要約する。
この春中3になり高校受験の年であるが、勉強する気が全く起きない。自分には作家になりたいという夢があり、童話を書いたり物語を作るのが好きだ。だが、自分の夢の実現方法が分からず、勉強も手につかず、ただ流される毎日である。この1年をどう過ごせばよいのか。
当ブログのバックナンバー記事「学問は虚無からの脱出」においても、この“悩みのレッスン”を取り上げた。前回の相談者は高校生だったが、悩みの内容が今回とほぼ同一だ。 小説家になりたい希望はあるが勉強をする意義が見出せない、という相談であった。
この相談に対し、創作家の明川哲也氏が「ほぼすべての若者の対決は“生 vs 虚無”の構図にある。まず“虚無”を認識しそれに敗北することがスタートである。」という趣旨の回答を書かれていて、私見も同感であることは既述した。
今回の相談の回答者は哲学者の永井均氏なのだが、その回答を以下に要約する。
誰もがしなければいけない勉強などそんなにはない。 たぶん小学校の勉強だけで十分である。 与えられた勉強を与えられるがままにやれる人というのは、「順応主義的」といえるような特殊な才能があり、そうでない人には真似はできなくて当然である。ではどうするか。中学生ならばもう自分の「専攻」を持つべき。幸い、相談者は作家になるという夢があり、既に問題は解決されている。まず、真剣に本格的な作品を書き人に批評してもらったり、人の作品を読んだり、話の作り方や書き方の研究もしよう。そして自分の「むなしさ」についてその本質をつかみ作品化することも試そう。そのような自分にしかできない勉強を通じて、学校の勉強もはじめて自分のものとしてつかめるようになる。
私論を述べる前に、自分自身の中学生時代を振り返ってみる。
私の中学生活は至って多忙だった。なぜならば、私は(自分で言うのも何だが)勉強もよくする生徒だったのに加え、クラブ活動(今は部活と言うのか?)に没頭していたためだ。 ブラスバンド部に所属していたが、過去において全国優勝経験がある程の伝統ある部で、活動が大変厳しかったのだ。 毎日夕方6時頃まで、土曜の午後も、そして日祝日は終日練習、夏休みには合宿もあった。 加えて、中学校管轄自治体の市民バンド的な役割も果たしていて、市の各種行事、例えば消防出初式、成人式、駅の開通式、市内パレード、etc…にはいつも演奏隊として駆り出される。それに毎年定期演奏会に学校の文化祭での舞台、そして極めつけのコンクール出場と、年中行事が目白押しなのである。(表舞台に立つことを好んでいた私にとってはこれが快感で、大きな達成感を得たものである。) 中3の2学期までこれを頑張った。 合間に部の仲間とのコミュニケーション(帰りの寄り道等のチョイ悪行動)もこれまた楽しくてはずせない。 この過密スケジュールの中、私は高校受験勉強もそつなくこなし、第一志望校合格を見事ゲットした。 (一応、私の出身の都道府県では当時1、2位を争っていた名立たる高校なのだが…。当時も今も推薦入試など一切なく、自力での学科試験合格ゲットだった。)
この通り、私の中学生時代は“むなしさ”を感じる暇など一切ない程忙しかった。
ここから結論を短絡的に導くならば、虚無からの脱出の一番手っ取り早い方法は自分を過密スケジュールの中に置くことである。 過密とまではいかずとも、ある程度自分に負荷をかけることにより虚無を回避することは可能ではなかろうか。
ただしその負荷が自分の意に沿わない事柄である場合は、当然長続きしないどころがかストレスばかりを食らうであろう。好きであるからこそ対象事象に没頭できるのだ。
そういう観点から推測して、この相談者は本当にものを書くことが好きなのであろうか、という疑問符が私の頭をもたげる。 もしかしたらただ単に“作家”という職業に漠然とあこがれているだけなのかもしれない。ただ、まだ中学生の相談者にこの指摘は酷であるため、私論としてもとりあえずは永井氏の回答を支持する。 とにかく自分が好きだと思えることを行動に移してもっと掘り下げよう。 それを日々実行している間に、気が付いてみれば“虚無”から脱出でき、学校の勉強にも励んでいる自分がそこに存在しているかもしれない。
それにしても若さとは“むなしさ”との闘いであり、それはごく自然で健全なことだとも思うけどね。
えっ、年をとってもまだむなしいって? 今の時代、その気持ちもわかるよね…。
いや、現代に限ったことではなく、昔から“若さ”とは虚無との闘いであるのかもしれない。
5月10(土)朝日新聞夕刊「こころ」のページ“悩みのレッスン”の若者の悩みもこの“むなしさ”なのである。
以下に、中学3年生の相談内容を要約する。
この春中3になり高校受験の年であるが、勉強する気が全く起きない。自分には作家になりたいという夢があり、童話を書いたり物語を作るのが好きだ。だが、自分の夢の実現方法が分からず、勉強も手につかず、ただ流される毎日である。この1年をどう過ごせばよいのか。
当ブログのバックナンバー記事「学問は虚無からの脱出」においても、この“悩みのレッスン”を取り上げた。前回の相談者は高校生だったが、悩みの内容が今回とほぼ同一だ。 小説家になりたい希望はあるが勉強をする意義が見出せない、という相談であった。
この相談に対し、創作家の明川哲也氏が「ほぼすべての若者の対決は“生 vs 虚無”の構図にある。まず“虚無”を認識しそれに敗北することがスタートである。」という趣旨の回答を書かれていて、私見も同感であることは既述した。
今回の相談の回答者は哲学者の永井均氏なのだが、その回答を以下に要約する。
誰もがしなければいけない勉強などそんなにはない。 たぶん小学校の勉強だけで十分である。 与えられた勉強を与えられるがままにやれる人というのは、「順応主義的」といえるような特殊な才能があり、そうでない人には真似はできなくて当然である。ではどうするか。中学生ならばもう自分の「専攻」を持つべき。幸い、相談者は作家になるという夢があり、既に問題は解決されている。まず、真剣に本格的な作品を書き人に批評してもらったり、人の作品を読んだり、話の作り方や書き方の研究もしよう。そして自分の「むなしさ」についてその本質をつかみ作品化することも試そう。そのような自分にしかできない勉強を通じて、学校の勉強もはじめて自分のものとしてつかめるようになる。
私論を述べる前に、自分自身の中学生時代を振り返ってみる。
私の中学生活は至って多忙だった。なぜならば、私は(自分で言うのも何だが)勉強もよくする生徒だったのに加え、クラブ活動(今は部活と言うのか?)に没頭していたためだ。 ブラスバンド部に所属していたが、過去において全国優勝経験がある程の伝統ある部で、活動が大変厳しかったのだ。 毎日夕方6時頃まで、土曜の午後も、そして日祝日は終日練習、夏休みには合宿もあった。 加えて、中学校管轄自治体の市民バンド的な役割も果たしていて、市の各種行事、例えば消防出初式、成人式、駅の開通式、市内パレード、etc…にはいつも演奏隊として駆り出される。それに毎年定期演奏会に学校の文化祭での舞台、そして極めつけのコンクール出場と、年中行事が目白押しなのである。(表舞台に立つことを好んでいた私にとってはこれが快感で、大きな達成感を得たものである。) 中3の2学期までこれを頑張った。 合間に部の仲間とのコミュニケーション(帰りの寄り道等のチョイ悪行動)もこれまた楽しくてはずせない。 この過密スケジュールの中、私は高校受験勉強もそつなくこなし、第一志望校合格を見事ゲットした。 (一応、私の出身の都道府県では当時1、2位を争っていた名立たる高校なのだが…。当時も今も推薦入試など一切なく、自力での学科試験合格ゲットだった。)
この通り、私の中学生時代は“むなしさ”を感じる暇など一切ない程忙しかった。
ここから結論を短絡的に導くならば、虚無からの脱出の一番手っ取り早い方法は自分を過密スケジュールの中に置くことである。 過密とまではいかずとも、ある程度自分に負荷をかけることにより虚無を回避することは可能ではなかろうか。
ただしその負荷が自分の意に沿わない事柄である場合は、当然長続きしないどころがかストレスばかりを食らうであろう。好きであるからこそ対象事象に没頭できるのだ。
そういう観点から推測して、この相談者は本当にものを書くことが好きなのであろうか、という疑問符が私の頭をもたげる。 もしかしたらただ単に“作家”という職業に漠然とあこがれているだけなのかもしれない。ただ、まだ中学生の相談者にこの指摘は酷であるため、私論としてもとりあえずは永井氏の回答を支持する。 とにかく自分が好きだと思えることを行動に移してもっと掘り下げよう。 それを日々実行している間に、気が付いてみれば“虚無”から脱出でき、学校の勉強にも励んでいる自分がそこに存在しているかもしれない。
それにしても若さとは“むなしさ”との闘いであり、それはごく自然で健全なことだとも思うけどね。
えっ、年をとってもまだむなしいって? 今の時代、その気持ちもわかるよね…。
若者に限らず“むなしさ”は一生ついて回ります。
虚無と充実感との駆け引きを味わいながら調整しながら、人間って生き永らえているような気もしますよね。
誰が何のために人間に生を与えたのか、それを問う業をノルマとして解決するために生きているような気もします。
と申しますのも、私のブログは専門性も高くなく、ただ単にブログの持続のためにジャンルを拡げ、あくまでも自己満足のために綴っているからです。
そんな勝手気ままな私のブログ記事に付き合って下さる方とは、それこそ大きな心と視野を持たれている忍耐強い方々だと拝察申し上げておりますためです。
こまねちちゃんが来て下さるのは本当にうれしいです!
私だってばあさんに近づくにつれ、いい悪い両面で分かってくることがどんどん増えます。こまねちちゃんとまったく一緒です。それは、自分にとってプラスでもあります!
自分のことを延べますが、私は「むなしいと」思ったことはごく僅かしかありません。文学の世界に触れて
それを思ったくらいです。若いときから忙しすぎて、生きてゆくのが精一杯でしたから「むなしい」と思っている暇はありませんでした。それに、何もかもが興味と関心、発見と感動の連続でしたから。
勉強嫌いですから、まともに学校での勉強はしていませんが、若いときはとにかく忙しかったです。今もそれは変わりません。悔しいと思ったことは沢山ありますが・・・。
娘は音楽に傾倒していて、「むなしさ」などは感じさせません。でも、自分の到達すべき目標に至らないときは悔しいといいます。私たちの家庭って、精神的に欠落した部分があるのかな?
この中学生は、若しかしたら「無常観」や「はかなさ」と「むなしさ」を混同しているのではないでしょうか。「無常観」や「はかなさ」を生活体験や文学などから覚えたのでしょうか。そうであれば、若いのに人生を達観しているようにも見えます。
私はコメントに、文学の世界に触れて「むなしさ」を思った、と記しましたが、どちらかと言うと「無常観」や「はかなさ」であり、「むなしい」と思ったことは殆どありません。
「むなしい」と思うこと。これは、健全な精神かも知れません。幸福かも知れませんが、半面不幸ですね。現代社会の様が投影されています。しかし、若者の多くが「むなしい」と思っているのでしょうか。
コメントにならないコメントをお許しください。
私はそうではなく、純粋に今方向性を見失っているだけであると察します。自分をある程度客観視できているようなので、まだまだ、今後どんどん伸びるでしょう。
私自身も常に自分自身に負荷をかけている人間なので「むなしさ」を感じる機会は少ないのですが、「むなしさ」を感じる心はなぜか十分理解できるのです。そしてこの虚無感は方向性を誤らなければ、将来へ続くエネルギーにもなりうると思います。そういう意味で「むなしさ」とは健全であると思います。
「むなしい」時に「むなしい」と語れる人の「むなしさ」は軽症でしょうし、おそらくすぐに将来へのエネルギーに転換できるでしょう。
そうではなく、特に若者において「むなしさ」を内に秘めてしまう場合が多々あるので、これは周囲の人間は見逃さず配慮するべきと思います。
これに対し、ガイアさんが書かれているように「無常観」「はかなさ」といったものはまったく別物ですね。「むなしさ」が主体的な感覚であるのに対し、これらは主体としてではなく、客体として感じることができる感覚だと思います。これらを感じることで人間としてのキャパシティが広がるようにも思います。
まとまらない文章で恐縮です。
雨は降ってないよ!
自分の将来の「ライフワーク」をこの時代に見つけられるなんて、何てスバラシイ中学生だろう。
自分の中学、高校時代には・・・とても、思いも着かない将来の姿。なのに、この中学生は・・・たいした者だ。
ただ、「頭の中」だけで考えていても駄目。
何事もそうだと思うが、まず、紙に目標を記す。
その目標に向うには、どういう障害があり,どうクリアーして行くかを記す・・・と言う様に、具体化させ、今自分がとるべき行動を把握する事が肝心の様な・・・
そこで、「さとちゃん」の言う「自分の行動の多忙化」を図れば「虚無」なんて事は回避されちゃうよね。同感!!
暇はいけない!暇は良くない事ばかり考えるから・・・体を動かしてその計画に邁進していれば、
「俺は生きている!」感がひしひしと湧き出る。
前向きに考え、行動ある所に、「希望」が産まれると信ず。
≪何もしなければ、何も興らない!・・・≫
そうですよね。頭の中で漠然と考えているだけでは“夢”とは言えないように思います。むしろ、何かに打ち込んでいて、結果としてそれが“夢”となるのが理想的かもしれません。
中学生ぐらいの年齢では、漠然と“夢”を描いてもいいのでしょうが、それを自分なりに実行に移さないことにはいつか“夢”も立ち消えるでしょう。
その“夢”が見つけられず「むなしさ」ばかりが先行してしまう場合は、とりあえず何でもいいからとにかく忙しくしている方がましかと私も思います。
今の私も似たようなもので、年齢的なハンディもあって自分自身の確固とした目標が見つけにくい状況です。こんな事は私の人生で初めてと言ってもいい経験です。幸い、体が老いぼれていくので昔よりは休養を受容する気持ちはあり、それが救いです。(それまでは、1分たりとてスケジュールが空くことを嫌っていましたので。)それで、現在はブログをノルマにして綴っている訳です。
そういう意味では老いさんの毎日はブロッ娘をすくすくと育て、さぞや充実されていることでしょう!
私の大した事も言えないコメントに無理に返答しなくても大丈夫ですからね!
中学生にして文学の道を志す。・・・これは、私も同じような境遇なので、その際の「むなしさ」はよく理解できます。
小説を書く際に、一番参考になるのは、文豪の書いた教科書に載るような立派な作品でも、芸術家たちの詩とか絵画ではなく、身近な“リアル”です。リアリティの無い作品には命が感じられませんからね。(まぁあくまでも持論ですが)
で、周囲に、無意識に期待を向けてしまう。自分自身を客観視するのも含んで、期待を向けた分、実際の自分や周囲にがっかりしてしまうんです。肉付けしたい部分に関するリアリティを提供してくれる存在を見失っちゃうんです。
特に中学生って、精神的に不安定な時期で、周囲と自分について深く考えこみがちです。私の場合は余計なことばかり考えてしまったためにそれに早く気付けたという皮肉な部分もありますが。
この中学生は返答を読んで、何か変われたのでしょうか?・・・こういう時は遠回しな“大人の言い方”ではなく、ストレートで単純な言葉の方が心に響くんじゃないかなぁ・・・。
でも、この中学生は、凄く立派です。
だって、自分ではない誰かに、自らの苦しみを公開する勇気があるんですから。新聞ともなれば、読者の数も半端ではないというのに。
私は打ち明けるよりも先に自己解決しましたが、周囲に打ち明けるだけの存在を見出せない、という側面もありました。見出せた分、この中学生は私より一歩前に進んでいる気がします。
・・・まぁでも、悩みを誰かに相談する、という時点で、本当は無意識に自分でどうすればいいかを既に選択しているのかもしれません。その背中を押してもらいたいだけなのかも・・・。
ではでは。