原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

2度目の「骨折見舞金」を渡すと電話で言う認知症義母

2023年03月14日 | 自己実現
 それは何度頂いても構わないし、嬉しいが。😜 


 結果として、明日義母が暮らす高齢者介護施設へ脚を運ばなければならない事態となった。

 まあ日頃の積極的な鍛錬により、我が骨折左膝もよほど快方に向かっている。
 今となっては駅の階段も、上りに関しては手すりに掴まれば何とか右左交互の脚運びが可能となっている。
 問題は下りだが。 これに関しては、どうしても左膝が(挿入している“針金を編んだ銅線”のせいと私は判断している)未だ90度以上曲がらないため、交互の脚運びは無理だ。 手すりに掴まりつつ片足ずつの脚運びとならざるを得ない。
 混雑が無い駅だとそれが可能だが、混雑している場合は、やはりエレベーター利用とならざるを得ない。

 参考だが、エスカレーターに関しては上り下り共に利用可能となったものの。 駅や時間帯によってはエスカレーターの運転速度が高いため、特に下りは未だに恐怖感がある。 (田舎暮らしの方々はご存じないかもしれないが、大都会のエスカレーターは利用者の混雑状況により速度を変えて運行しています。)


 とにかく危険を回避するために利用するべきは、やはりエレベーターであろう。
 ただこれも、駅や時間帯によっては混雑している場合が多いし。 既に“松葉杖”を病院に返却した身にして、他者から見たら立派な健常者である私は、エレベーターの利用を今後は避けるべきと心得ている。


 そんな状況下での明日の義母高齢者施設訪問となるが。

 私が脚を骨折している事態に関しては、認知症がある身にしていつまでも義母が記憶してくれている事実はありがたいものの。
 その実態をまったく心得ない義母が、どうしても(嫁の立場である)私に会いたいと言ってくれている事実をやはり尊重するべく時でもあろう。


 明日は亭主と共に義母の施設を訪れる予定だが。

 いつまでも交通機関利用に関して、その詳細手段を亭主と話し合わねばならない我が身である事実が実にもどかしい。

 タクシーを多用すればそれで済むのだろうが。

 亭主も、私が通常の交通機関を利用したい旨を勘案してくれていて。
 我が詳細の交通機関利用手段(駅のどの辺のエレベーターがあるのか、等々)を確認してくれるのが、実に有難い。



 さて、明日の義母からの見舞金は如何程なのだろう?!?😜 😍 

 とにかく明日は必ず行きますので、お義母さん待ってて下さいね!!
 

病気になったのは個人の責任、と誤解される病名の改善を

2023年03月13日 | 医学・医療・介護
 例えば、「糖尿病」などもその一つだ。


 医学関係者であるこの原左都子も、子供の頃に「“甘いもの”ばかり好んで食べていると糖尿病になるよ」との誤った情報を大人から聞かされてきた記憶がある。

 ところが「糖尿病」の発症機序とは、決してそうではない。



 以下は、2023.01.25付朝日新聞「糖尿病 名前のイメージ 悩む患者 『だらしない印象が』『自己責任と思われ』」より引用する。

 糖尿病は、免疫の異常などによりインスリンの分泌が著しく低下する「Ⅰ型糖尿病」や、食事などの生活習慣や体質などが関係する「2型糖尿病」に分類される。 (中略)
 8割の糖尿病の人は、「実態を正確に表す言葉」に病名を変更することを望んでいる。 
 「尿に糖が出るというイメージが不快」「不摂生で病気になったといったマイナスイメージ」「自己責任の病気と思われてつらい」などの声もある。
 某病院の病態栄養治療部長は、「糖尿病とともに生きる人の声に真摯に耳を傾けることが大切」と指摘。 「病を隠す意識は治療にも悪影響を及ぼす。病名について考えることを契機に、長く悩んで来た人の生きづらさを想像する優しさを社会全体が持つべき」と語る。 (途中大幅略)
 あるいは、「生活習慣病」との名称があるが、これは故・日野原医師が1970年代後半に「習慣病 日常の悪い習慣が生み出す病気」と説明したのが始まりとされる。
 その後、厚生省(当時)の審議会が96年にまとめた「意見具申」の中で、「生活習慣病」という概念の導入を提唱。 これを受けて同省はすぐに「成人病」から「生活習慣病」へ名称を変えた。
 ただ、この意見具申は、病気の原因には生活習慣のみならず遺伝、外部環境など個人の責任に帰することが出来ない複数の要因が関与しているとし、「『病気になったのは個人の責任』といった病気や患者に対する差別や偏見が生まれるおそれがある点に配慮する必要がある」と警鐘を鳴らしていた。
 「厚生省が当時、意見具申による警鐘を正確に広報していれば、『生活習慣病』を個人責任と見なす近年の風潮を予防できた」と某教授は指摘する。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 原左都子の私事及び私見に入ろう。

 身内の恥を晒すが。
 私が子供の頃から、父方の祖父が「糖尿病」を患っていた。
 この祖父、大地主の一人息子(女兄弟はいたようだが)として生まれ、小さい頃より後継ぎとして“蝶よ花よ”と周囲の皆から贅沢三昧に育てられたらしい。
 そのためか、いつも甘いお菓子や果物等々をおやつに食べていたようなのだが。 大人になって「糖尿病」を患った際に、周囲からいつも言われたていたのが、「甘いものばかり食べて来たからこうなった」だったという訳だ。
 いや確かに我が記憶によってもこの祖父、名店で甘い銘菓を買い込んでんで来ては一人でバクバク食べていた記憶がある。 その印象が強いせいで、この私も「祖父は甘いものばかり一人で食べていたから糖尿病になったのだ」と信じていた。
 私が上京後に死去したと見聞しているため、おそらく70代頃に他界したとの計算になるだろうか。
 余談だが、我が祖父の場合は実際そんな生活習慣の大いなる乱れも「糖尿病罹患」との運命を自身で作り上げたとものと、今尚思えるふしもあるのだが…


 そんな我が(愚かな)祖父の事例は例外として。

 今考えるに「生活習慣病」との医学命名も、確かに“無責任さが満載”との感覚だ。😖 
 その前の「成人病」命名が、あまりにもお粗末だったにせよ。😲 😭 


 今後は 病名名づけに際して、どうか患者さんたちの名誉を傷つけない命名に期待したいものだ。
 

哲学における「科学的方法」とはどんなものか?

2023年03月12日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、2023.03.11付朝日新聞「書評」ページより ティモシー・ウィリアムソン著「哲学の方法」の写真を転載したもの。)



 久しぶりに、朝日新聞「書評」ページよりエッセイの題材を得よう。

 上記写真のティモシー・ウィリアムソン著「哲学がわかる哲学の方法」に対する、法政大学・政治思想史教授 犬塚元氏による書評「精緻にして明晰な思考のために」と題する書評を以下に要約引用する。


 「それってあなたの感想ですよね。」 文系の学問に外部からそんな批判が向けられるのは珍しくはない。 人文社会科学の内部にも、統計学の手法によるお墨付きがなければ、学問とは呼べないと説く立場がある。 特に哲学は、日常語では個人の人生観や信条も意味するから、この分野の営みを、主観的な施策とみなす人だっていることだろう。 
 哲学はサイエンスたりうる。 これが本書の立場だ。「うまいやり方」をすれば、哲学は「体系的、組織的な探究」という意味の化学であるというのだ。
 それは最善の説明を与える理論を探る点で自然科学に近いが、アームチェアで思索をめぐらす点では数学に近い。 原著は、オックスフォード大学出版局の、定評ある入門シリーズの一冊。 筆致は軽やかで、翻訳も工夫があって読み易い。
 では、哲学における「科学的方法」とはどんなものか。 それが本のテーマだ。
 とはいえ、哲学が武器にできるのは「思考の力」だけで、奇抜な策はない。  誰もが使う認知の方法を、いわば体系的・批判的に繰り返す方法だ。 それは、人間のどんな能力も誤りを犯しうることを前提に、精緻で明晰な思考を積み重ねるための手続きである。
 精緻に議論する研究者には、慎重過ぎる、ゲームに興じているじゃないかとの批判も寄せられるが、著者は、むしろ奔放で大胆な思索の論者に厳しい。 明晰さを欠くがゆえに反駁されずに済む、「安易で気楽なやり方」というのだ。
 「科学的方法」を掲げるこの本は、「分析的」と呼ばれる英米哲学の潮流に属している。 哲学や政治哲学の学界には、かねてこれに批判的な潮流もあり、どんな方法で何を目指すかをめぐっては、学問内部に活発な議論がある。 人文社会科学をなんでも「感想」とみなすのは、それ自体が実態をふまえないであろう。

 (以上、朝日新聞「書評」ページより引用したもの。)



 上記 犬塚教授の書評を読ませていただいて、原左都子が真っ先に思い起したのは。

 30歳時に再入学した2度目の大学に於いて履修した、哲学者A先生による「科学哲学」の授業だった。

 参考だが、我が最初の大学での専攻は「医学」だった。
 2度目の大学では最終的には「経営法学」専攻に落ち着き、大学院にて「経営法学修士」を取得したのだが。

 何分入学時点で既に30歳を超えている独身の立場だし、夕方以降と大学の長期休暇中は仕事も持っていたしで(大学院も含めて)6年間の学生時代は超多忙な日々を過ごした。

 そんな中で、私が2度目の大学にて「教職科目」の一つとして選択したのが、哲学者A先生による「科学哲学」の授業だった。
 (この哲学者A 先生による「科学哲学」授業内容に関しては、本エッセイ集「学問・研究カテゴリー」内にて公開しておりますのでご参照下さい。)

 これが、他のどの科目にも勝る程の“インパクト”を私に与えてくれたものだ!
 まさに「哲学」と何か?なる基本的命題から始まり、「プラトン哲学」や「量子力学的実在論」、ウィトゲンシュタイン、米国のRortyの哲学やプラグマティズム、デカルト、ニュートン、等々……
 素晴らしい哲学の世界を、学生達(残念ながら、授業内容が難解だったのか?中途辞退者が多く最後まで残った学生は少人数だった…)に伝授していただいたものだ。

 先程も書いたが、我が2度目の大学にての専攻は「経営法学」だったものの。

 この哲学者A先生のお陰で学問の素晴らしさに十分触れることが叶い、充実した学生生活を過ごせたことに感謝申し上げたい。

 
 最後に話題を「哲学」に戻すならば。

 「哲学」を一時でも本気で学ぶことにより、確かに一生を通して “緻密にして明晰な思考”が叶うようになる!と、原左都子も同感だ!!
 

N党のガーシー議員とやら、とっとと除名されなさい!!!

2023年03月11日 | 時事論評
 朝日新聞より表題のN党ガーシー議員関連複数記事を、以下に列挙しよう。


 まずは、2023.03.08付「NEWSダイジェスト」より。

 海外に滞在したまま国会欠席を続けるNHK党のガーシー(本名・東谷義和)参院議員は8日、参院が科した懲戒処分「議場での陳謝」が予定された本会議も欠席した。 与野党は決定に従わないとして、10日にも懲罰委員会を開き、議員の資格を失う「除名」とする意向だ。 (途中大幅略) 
 ガーシー氏は参院選で初当選した後、アラブ首長国連邦に滞在し続けて帰国せず、一度も登院していない。

 (以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)


 引き続き、2023.03.09付「社説」より。

 昨年7月の初当選以来、海外に滞在したまま一度も国会に登院せず、文書で約束した「議場での陳謝」も反故にする。 国会議員の責務を、どこまでないがしろにするのか。 この振る舞いを放置し、擁護してきた党とその代表も、厳しく批判されねばならない。 (途中大幅略)
 ガーシー氏は再三出席を求められながら、昨年の2度の臨時国会に続き、今年の通常国会でも欠席を続けている。 審議や採決への参加など、実質的な議員活動はないに等しい。
 それでも、歳費や期末手当など、2月末までに約1833万円が支給された。 釈然としない国民も少なくあるまい。 みやは看過はできないという与野党の判断は理解できる。 (中略)
 議員は支持者だけではなく、全国民を代表する立場である。 国会への出席は国会法で義務付けられており、まずは現行のルールに従ったうえで、変更を求めるのなら国会で議論するのが筋である。 (中略)
 「言論の府」の役割を、これ以上軽んじることはしないと、党の行動で示さねばならない。

 (以上、朝日新聞「社説」より一部を引用。)


 ついでにもう一本、2023.03.10付「天声人語」より。

 ガーシー氏に投票した有権者たちは「政治家が暴露を恐れ、悪さができなくなると期待した」と本誌記事で語っていた。 ガーシー氏本人も「国会で眠っとるオッサンの頭を片っ端からひっぱたきたい」と書いている。 だが、遠いドバイから逮捕を恐れて帰国せず、結局は何もしていない。

 (以上、朝日新聞「天声人語」より一部を引用。)




 原左都子の腹立たしい“怒り”の感想を述べよう。

 申し訳ないが、この私はガーシーさんとやらを全く存じていない。
 ユーチューブ上で人気を博していたがために、有権者たちの期待を集めて今回国会議員に当選したらしいが。
 上記引用文を繰り返すと、「政治家が暴露を恐れ、悪さが出来なくなる」と貴方のファンから期待され多くの投票を集めて当選したようでもあるが。

 私に言わせてもらうに。
 ガーシーさんが今やっている “一度も国会に登院しせずして、歳費や期末手当として約1833万円を既に受け取っている” との行為は、“暴露を恐れて悪さが出来なくなる”政治家よりも数段「悪質」度が高い!!
 これぞ、犯罪と言わずして何と心得る?!!

 一体どうしたと言うのだ??
 元々、その手の“詐欺行為”を目指しての今回の国会議員立候補だったのか??
 あるいは、まさか当選するとは思っていなかったにもかかわらず当選してしまって。 国会議員としての力量や素養が何ら無い身にして、国会登院に恐れをなしてしまったのだろうか???

 とにかく、結果として除名されるにせよ。
 当選してしまっている以上、一度は国会登院を果たすべきだ。
 そして、既に手にしている国会議員歳費等の1833万円は綺麗さっぱり返金して。

 その後、あなたが「暴露系ユーチュバー」を続行しようがやめようがあなたの勝手だろうが。
 おそらく、貴方の日本国内ファンは激減するだろうねえ…


二刀流、三刀流で行こう!!

2023年03月10日 | 仕事・就職
 原左都子の長年の愛読新聞である「朝日新聞」のコラム “リレーおぴにおん”の最近のテーマは「二刀流で行こう」のようだ。


 このコラムの存在を本日初めて知ったのだが。

 「原左都子エッセイ集」長年のファンの皆さんは、おそらく私が現役時代の職業として“二刀流”、いや“”三刀流”だったことを十分にご存じであろう。

 
 その我が職業経歴を少し振り返らせていただくと。

 まずは国立大学医学部卒業後上京し、民間企業にて「免疫学」関連の業務に従事した。

 順風満帆に医学業務をこなし30歳を過ぎた頃に、自らの希望で再び学業に励む道程を歩む決断をして。 医学分野の職業から一旦離れた。
 
 その後、二度目の大学生となると同時に。
 食い扶持稼ぎのために、アルバイトとして夜は「ラウンジコンパニオン」に励み。 大学の長き休暇中には、医学分野の派遣社員として活躍した。

 2度目の大学にて「教職免許」を取得した縁で、大学院進学と同時に夜間は高校教諭として日々勤務を頑張った。
 大学院修了と同時に、昼間私立高校にても教鞭をとり。 娘の高齢出産直前期に、高校教諭を出産退職して。
 娘5歳時に再び医学業務に舞い戻って、基礎医学研究の一端を担った。
  


 ざっと我が職業経歴を簡単に列挙したが。
 要するに私の場合、これらの職歴のみでも、「医学」「教育」「コンパニオン」と“三刀流”にて食い扶持を繋いだこととなる。



 さて、話題を朝日新聞“リレーおぴにおん” 「二刀流で行こう」に戻して、評論家・スージー鈴木氏による 「サラリーマンは2枚目の名刺を」と題する記事の一部を以下に引用しよう。

 サラリーマンは2枚目の名刺を持とう。 私の持論です。 (中略)
 変化の激しい時代、会社の先行きは読めず、早期退職制度も広がっている。 一生会社にしがみつくのではなく、自分の「腕っ節」一本で生きる準備を初めておくべき。 「2枚目」の肩書はスイーツ愛好家のような趣味の世界でもいい。 大事なのは、会社以外に打ち込めるものを見つけること。(途中大幅略)
 二刀流で大事なのは、会社から後ろ指をさされないこと。 (中略)
 (鈴木氏の)業界は、過労死問題が起きるなどして働き方改革が叫ばれるようになった。 部下に言ったのは、会社の仕事が人生の全てではないということ。 歯を食いしばってでも自分の時間をつくれ。 会社は最後の最後まで、あなたを守ってくれません。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 最後に、原左都子の私見を書かせて頂こう。

 ははあ、評論家 スージー鈴木氏がおっしゃるところの「二刀流」とは、あくまでも「“会社”勤務人」との範囲内でものを言っていらっしゃるとのことのようだ。

 最後の記述で気になるのは、「会社に後ろ指をさされないことが二刀流で大事」と記されていることだ。

 
 元々専門分野での業務就業を目指していた原左都子にして、所属する会社はじめ企業など二の次だったものだ。
 ただただ自身が磨いてきた“専門力”を売り物にして世を渡ってきた身にすると、この辺の(“会社に後ろ指をさされないことが大事”なる)記述には違和感を抱かざるを得ない。

 この私も もしかしたら自分が所属した会社から「後ろ指」を指されたのやもしれないが、そんな事二の次以下のどうでもよい話だ。
 自分が選択して進まんとする次なる道程にこそ、我が夢の実現を描きつつ邁進して来た身としては。


 二刀流、いや、三刀流の我が人生もまんざらでは無いどころか。

 得るものが多大だったと、嬉しく振り返ろう!! 😃