◎太田光氏の「まともな感覚」に期待する
一昨日11:35配信の東京スポーツWebによれば、爆笑問題の太田光氏に対する世論の風当りが強くなっている。ツイッター上では、「#太田光をテレビに出すな」がトレンド入りしているという。
先月一一日に接したインターネット情報によれば、太田氏は、八月七日放送の『サンデー・ジャポン』(TBS系)で、「そもそも、この問題、きっかけがテロであったことをマスコミはもう少し自覚しないといけない」として、「テロによってわれわれが動き出したっていう自覚を持たないと。こうすれば社会が動くって思う人が潜んでいる」と、“第2の山上” が出現することを危惧したという(当ブログ、八月一一日の記事の「付記」参照)。
非常にまともな感覚だと思う。おそらく太田氏は、今でも、そのまともな感覚を維持しているのだと思う。その太田氏に対し、「#太田光をテレビに出すな」などの声が挙がっていることに対して、私などは、むしろ無気味なものを感じとる。
太田光氏は、数多い芸能人の中において、批判精神と言語能力において、傑出したものを持っておられると思う。ただし、今回の問題に関しては、思想的ないし歴史的な面で、理論を組み立ててゆく作業が十分でない。このことが、発言に説得力を欠く要因、あるいは発言に対する反発を招く要因になっているのではないのだろうか。
僭越ながら、太田光氏に対しては、次の三点で、理論武装をおこなってゆかれることを希望したい。
1)新聞を中心としたマスメディア、知識人が大衆を煽り、日本を「戦争」に導いていった昭和前期の歴史について、認識を深める。最近、出た本では、筒井清忠氏の『天皇・コロナ・ポピュリズム』(ちくま新書、二〇二二年四月)に、重要な問題提起が含まれている。
2)一九二一年(大正一〇)九月二八日に、安田財閥の安田善次郎が、右派活動家の朝日平吾に刺殺されるという事件があった。この事件のあと、「近来の痛快事なり」と報じた新聞があったという(宮武外骨『私刑類纂』六六ページ)。マスメディアがテロを是認し、その後のテロを誘発させた例は、これに限らない。五・一五事件などは、正にその典型的な例であった。マスメディアは、今日、この点を深く肝に銘ずべきである。
3)戦前戦中の日本は、苛酷な宗教弾圧と厳しい宗教統制をおこなったことで知られる。その結果として生じたのは、国家そのものが「カルト」化するという事態であった。そういった歴史を振り返ると、「宗教団体に対する統制の強化」とか、「反社会的な教団の解散」といった言葉は、簡単に口にすべきでことではない。
1と2は、ポピュリズムの問題である。3は、「国家と宗教の関係」についての問題である。
3の点については、若干の補足が必要だろう。本年七月の暗殺事件のあと明らかになったのは、某教団の影響力が国家の中枢にまで及んでいたという衝撃的な事実であった(国家そのものが、すでに「カルト」化していたという見方もできよう)。某教団に対する人々の怒りが激しいのは、おそらく、このあたりに理由があるのだろう。
こうした情況の中では、「宗教団体に対する統制」に懸念を表明しただけで、人々から激しいの反発を招きかねない。事実、この点で、太田氏は、反発を招いているようだ。しかし、「宗教」をめぐる今回の問題は、一筋縄ではいかない。太田氏は、今回の問題を、「宗教統制」をめぐる問題として論評されているようだが、この宗教をめぐる議論そのものが「ポピュリズムの一局面」であると捉え、突き放した議論をおこなうべきだと考える。
太田光氏には、「まともな感覚」を失うことなく、情況をよく見極め、複雑な問題を解きほぐしながら、今後も、独自の意見表明を続けていただきたいと願う。