礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

太田光氏の「まともな感覚」に期待する

2022-09-20 02:43:55 | コラムと名言

◎太田光氏の「まともな感覚」に期待する

 一昨日11:35配信の東京スポーツWebによれば、爆笑問題の太田光氏に対する世論の風当りが強くなっている。ツイッター上では、「#太田光をテレビに出すな」がトレンド入りしているという。
 先月一一日に接したインターネット情報によれば、太田氏は、八月七日放送の『サンデー・ジャポン』(TBS系)で、「そもそも、この問題、きっかけがテロであったことをマスコミはもう少し自覚しないといけない」として、「テロによってわれわれが動き出したっていう自覚を持たないと。こうすれば社会が動くって思う人が潜んでいる」と、“第2の山上” が出現することを危惧したという(当ブログ、八月一一日の記事の「付記」参照)。
 非常にまともな感覚だと思う。おそらく太田氏は、今でも、そのまともな感覚を維持しているのだと思う。その太田氏に対し、「#太田光をテレビに出すな」などの声が挙がっていることに対して、私などは、むしろ無気味なものを感じとる。
 太田光氏は、数多い芸能人の中において、批判精神と言語能力において、傑出したものを持っておられると思う。ただし、今回の問題に関しては、思想的ないし歴史的な面で、理論を組み立ててゆく作業が十分でない。このことが、発言に説得力を欠く要因、あるいは発言に対する反発を招く要因になっているのではないのだろうか。
 僭越ながら、太田光氏に対しては、次の三点で、理論武装をおこなってゆかれることを希望したい。

1)新聞を中心としたマスメディア、知識人が大衆を煽り、日本を「戦争」に導いていった昭和前期の歴史について、認識を深める。最近、出た本では、筒井清忠氏の『天皇・コロナ・ポピュリズム』(ちくま新書、二〇二二年四月)に、重要な問題提起が含まれている。
2)一九二一年(大正一〇)九月二八日に、安田財閥の安田善次郎が、右派活動家の朝日平吾に刺殺されるという事件があった。この事件のあと、「近来の痛快事なり」と報じた新聞があったという(宮武外骨『私刑類纂』六六ページ)。マスメディアがテロを是認し、その後のテロを誘発させた例は、これに限らない。五・一五事件などは、正にその典型的な例であった。マスメディアは、今日、この点を深く肝に銘ずべきである。
3)戦前戦中の日本は、苛酷な宗教弾圧と厳しい宗教統制をおこなったことで知られる。その結果として生じたのは、国家そのものが「カルト」化するという事態であった。そういった歴史を振り返ると、「宗教団体に対する統制の強化」とか、「反社会的な教団の解散」といった言葉は、簡単に口にすべきでことではない。

 1と2は、ポピュリズムの問題である。3は、「国家と宗教の関係」についての問題である。
 3の点については、若干の補足が必要だろう。本年七月の暗殺事件のあと明らかになったのは、某教団の影響力が国家の中枢にまで及んでいたという衝撃的な事実であった(国家そのものが、すでに「カルト」化していたという見方もできよう)。某教団に対する人々の怒りが激しいのは、おそらく、このあたりに理由があるのだろう。
 こうした情況の中では、「宗教団体に対する統制」に懸念を表明しただけで、人々から激しいの反発を招きかねない。事実、この点で、太田氏は、反発を招いているようだ。しかし、「宗教」をめぐる今回の問題は、一筋縄ではいかない。太田氏は、今回の問題を、「宗教統制」をめぐる問題として論評されているようだが、この宗教をめぐる議論そのものが「ポピュリズムの一局面」であると捉え、突き放した議論をおこなうべきだと考える。
 太田光氏には、「まともな感覚」を失うことなく、情況をよく見極め、複雑な問題を解きほぐしながら、今後も、独自の意見表明を続けていただきたいと願う。

*このブログの人気記事 2022・9・20(9位になぜか『本庄日記』)

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某の如く、その場で自己に私刑を加へたのは……

2022-09-19 00:46:14 | コラムと名言

◎某の如く、その場で自己に私刑を加へたのは……

 昨日の補足である。宮武外骨の『私刑類纂』(半狂堂、一九二二)には、もう一箇所、朝日平吾に言及している部分がある。ただし、実名は出さず、「刺客某」としている。

 予は昨冬〔一九二一年冬〕、刺客某の事につきて『東京日日新聞』に寄せし一文に記して曰く「人を殺すといふ事は、其理由の如何、効果の如何を問はず人世の大悪事、大罪科である、戦争で敵を殺す事も、人道上の罪悪であるとして非戦論が行はれて居る、法律で罪人を死刑に処する事も、文化行為でないとして死刑廃止論が起つて居る、されば刺客が国家のためとして誅罰を加へたとしても法律上の大悪人である、(中略)法律で罪人を刑罰に処するのは、国家の名による報復手段であるが、其報復手段の公刑を待たずして、某の如く、其場で自殺、即ち自己に私刑を加へたのは、自決心の強い自己報復の堂々たる行為である、(中略)自己の悪事を自己が処分する自己刑罰の度胸さへあれば、死すべき手段は幾つもある」云々
 これは罪人自殺奨励論なるが、其是非は兎も角、予は斯かる自殺を私刑の一と見るにあり〈七四ページ下段~七五ページ上段〉

 文中、(中略)とあるのは、外骨によるものである。
 この外骨の投稿もまた、一種の朝日平吾擁護論と言えるのか。ただし、それについての判断は、当時の記事にあたり、その全文を読むまで、保留しておかなければなるまい。

*このブログの人気記事 2022・9・19(8位になぜか「村八分」)

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宮武外骨、『私刑類纂』の中で朝日平吾に言及

2022-09-18 01:01:02 | コラムと名言

◎宮武外骨、『私刑類纂』の中で朝日平吾に言及

 山田孝雄著『古事記講話』(一九四四)を紹介している途中だが、いったん話題を変える。
 たまたま、宮武外骨の『私刑類纂』(半狂堂、一九二二)を手にしたところ、その六六ページ下段に朝日平吾のことが出ていた。引用してみよう。

 右の外、吝嗇者〈リンショクシャ〉に対する制裁は種々の手段にて行はれ、甚だしきは、極端なる私刑を加ふることすらあり、彼の刺客朝日平吾が守銭奴安田善次郎を暗殺せしが如きも其一例なり、当時諸新聞は善次郎に同情することなく、平吾の凶行を当然なるが如くに記し、『東京毎日新聞』〔ママ〕などは、近来の痛快事なりと特筆大書せり、社会が吝嗇者を憎む情深きこと察すべし、平吾は刑法上の大犯罪人なりといへども、其後善次郎の後継者が、亡父の罪ほろぼしとして、社会事業に投資すること多く、又世の富豪連が同轍の凶変を避くる手段として公共的利益を計る傾向ありとせば、平吾は地下に於て微笑瞑目せんか

 朝日平吾が安田財閥の安田善次郎を刺殺したのは、一九二一年(大正一〇)九月二八日、宮武外骨の『私刑類纂』が上梓されたのは、その一年後の一九二二年(大正一一)一〇月一日であった。それにしても、事件のあと、『東京毎日新聞』(『東京日日新聞』のことか)が「近来の痛快事なり」と報じていたとは知らなかった。ただし、このことは、当時の紙面にあたって確認する必要がある。
 なお、当ブログ先月二日から六日に至る記事、「朝日平吾は昭和テロリズムの先駆か」、「吉野作造の「朝日平吾論」を読む」、「安田善次郎の怪腕には玄人筋も舌を捲いた」、「安田善次郎は財界の張作霖(吉野作造)」、「昭和テロリズム擁護論の先駆は吉野作造」を、併せてお読みいただければ幸いである。

*このブログの人気記事 2022・9・18(8位になぜか日本精神叢書、10位になぜかナチス綱領)

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我が国では字体の統一をやかましく言わない

2022-09-17 00:25:32 | コラムと名言

◎我が国では字体の統一をやかましく言わない

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。ただし、「脱線している部分」を中心とした紹介である。本日は、その四回目。本日、紹介するところは、「第二 古典の研究」の一部である。

 古事記で申しますならば、古事記と云ふものは今から千二百年程前に書いたものであります。其の千二百年前に使つて居た文字は今日と大部分は固より〈モトヨリ〉同じであります。だからさう云ふものには余りさう力を要しなくても良いかも知れませぬが、場合によりますと云ふと、文字の調べが不十分な為にとんでもない間違が起ることがあります。古事記伝の中に本居〔宣長〕先生が非常に著しい間違をして居られるのが一つある。それは上の巻の八岐の大蛇〈ヤマタノオロチ〉が酒を飲んで、さうして酒に酔つて、終ひに殺されるあそこの記事であります。
   於 是 飲 酔 死 由 伏 寝
斯う云ふやうに傍線を引いてある所のやうな字を書いて居る。是は此の死と云ふ字と由の字と二字にして普通の板本である。寛永本はさう書いてある。それが京都の私共の友人で猪熊信夫と云ふ人の持つて居る写本は、寛永の版本の元の本になるだらうと思ひまずが、しかしながら全く同じ本といふ訳でないのであります。それが矢張り斯う云ふ二字です。それを本居先生は之を非常に読みにくいことにして色々の意見を述べて居られる。併し此の二字に書いて居るのは無論誤りでありますが、名古屋の真福寺にある古い本など、是が一字になつて■と云ふ字になつて居ります。今日の我々の文字の知識で考へると問題はないのでありまして、死ぬる由とか何とか云ふことは必要でない。是は留めると云ふ留【リユウ】の字です。支那は六朝〈リクチョウ〉時代即ち御存知の通り南朝、北朝と朝廷が幾つにも別れて、其の多くの朝廷が又興亡常ならぬものでありますから、風俗、習慣が非常に分裂したのです。それで文字の異体と云ふものが色々生じて来るのであります。もとより言葉も色々生じました。それ故に文字の形も亦色々になりました。その後隋が起つて支那を統一し、唐がそれを受けて完全に統一したのであります。ところが文化的の統一はなかなか出来ない。併しながら唐の中頃になりますと云ふと文字の統一などが行はれまして、有名な干録字書〈カンロクジショ〉などと云ふ本が出て、是でまあ文字の体形が略々〈ホボ〉統一したことになります。支那ではさう云ふ風にして文字の統一が落ちついたのです。それは唐の中頃からの事でありましたのです。我が国に於ては色々支那のものを手本に致しましたけれども、此の字体の統一と云ふやうなことは我が国では余り喧ましく〈ヤカマシク〉言はない。それで我が国の古典には此の六朝時代に行はれました色々の文字の姿が其の侭古典に使はれて居ります。今古事記の文字などに付て申しますと、古事記を書いた時分にはまだ支那では干録字書などと云ふものが出来ない時分であります。〈三四~三六ページ〉

 文中、■は表記できなかった。「留」の異体字で、上半分が「死」、下半分が「田」。
 山田孝雄は、「漢文は大嫌ひなんだ」と公言していたが(今月一四日のコラム参照)、実際は、漢学にも造詣が深かったのである。

*このブログの人気記事 2022・9・17(10位に極めて珍しいものが入っています)

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学問をした馬鹿程始末の付かぬ者はない(山田孝雄)

2022-09-16 01:17:09 | コラムと名言

◎学問をした馬鹿程始末の付かぬ者はない(山田孝雄)

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。ただし、「脱線している部分」を中心とした紹介である。本日は、その三回目。本日、紹介するところも、「第一 古典の意義」の一部である。

 ……其の時分の常識と云ふことがわかれば我々は其の常識を以て其の時分の書物を読み取る。萬葉集の歌などと云ふものは何も学問の結果よんだのではない。唯常識ある人間が歌つたのです。いはゞ何でもない話であります。唯其の時分の常識が今の私どもに十分に分らない。常識さへ分かれば何でもないのと思ふ。処が其の時分の常識と云ふものは今の人が常識を働かせば大体ば分ることを余り学問があり通ぎると云ふか、何と云ふか、学問するとかへつて分らなくなつてしまふ。だから私は学問するならば徹底してしなさい。なまはんかな学問をするならばしない方が良いと云ふのです。学問をした馬鹿程始末の付かぬ者はない。常識をはたらかせれば分るといふことはそれはどう云ふ訳かと云ふと例へて申しますと、萬葉集の中に是は二ノ巻にあるのでありますが、石川郎女〈イシカワノイラツメ〉と云ふものが、或る男の所へからかひに行く、是は大納言の息子の所、大納言と言つたら今でいへば大臣です。其の息子の家へ若い女がお婆さんに化けて侵入する事実がある。所が其の若い男は若い女だと云ふことを知らずに帰してしまふ。その後での歌でありますが、其の歌のことは問題ではありませぬ。其の時に隣の婆さんが火を呉れと言つてその家へ行くのであります。さうるとそれでは火を上げますと言つて火を呉れてやる。貰つたから仕方ないから其の女は帰らざるを得ないので帰つてしまふ。さう言つて近附かうとしたけれども、向ふの方がぼんやりして居るから若い女とは知らないで火を呉れと言つたら、上げますと言つて火をやつた。そして帰つた、斯う云ふ話は是はどう云ふことを物語つてゐるのであるか。斯う云ふことは今でもするが、皆さん御存知であるかどうか。大抵の人は恐らくは氣が附かないかも知れぬ。私は現在の事実で萬葉集のこの事が説けると云ふのです。それはどう云ふことかと申しますと、火と云ふものが今マツチがありますけれども、多少統制で喧しかつた時分にはマツチも困つたでありませうが、昔は火と云ふものと水と云ふものは人間の生命の源なんだ。だから火を呉れと言はれると、どんな人からでも火を呉れと言へばやらなければならぬ。だから其の火を呉れと云ふことを手段として言へば貴賤男女の差別なく接近することが出来る。そこで其のお婆さんに化けて火を呉れと言つてその家に往つたのだが、それを本当のお婆さんだと思つたから火をくれて帰してしまつた。斯う云ふ事実があります。これは現在もある事実です。其の風習が今残つて居るのは煙草の火です。どんな立派な服装をして居る人でも、どんなきたない服装をして居る人でも、煙草を喫んで〈ノンデ〉居ると「一寸」と云ふとお互に黙つて貸す。是は神代以来の風習が残つて居るのだと私共にはさう見える。さう云ふ風にして見ますと云ふと、何も千年前も今も変りはない。それは古いことだ、古いことだと思ふから分らない。決してさう云ふものでない。私は是から古事記を御話致しましても、決してそんな古いものだとして取扱ふのではありませぬ。〈二六~二八ページ〉

 山田孝雄は、ここで、石川女郎(いしかわのいらつめ)が大伴宿禰田主(おおとものすくねたぬし)を訪ねたエピソードを引いている。このエピソードに関わる歌は、『萬葉集』巻二の一二六(石川)、および一二七(大伴の返歌)。返歌において大伴は、石川が婆さんに化けていることに気づいたが、あえて気づかない振りをしたのだという強がりを言っている。

*このブログの人気記事 2022・9・16(9位になぜか古畑種基)

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