九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆紹介  百 歳    文科系    

2023年02月28日 00時34分06秒 | 文芸作品
随筆  百 歳    K.Kさんの作品です

 今年の十月に百歳迎える母がお世話になっている施設の担当者から「より良い介護の実践レポートを書くことになり、母を対象にしてもよいか?」の打診があった。チームを作って計画しているらしい。母に関心を持って貰えることは嬉しいので了解した。「母についてのこれまでの生い立ちや仕事を知りたいのですが┉┉┉┉協力お願いします」と、始めはおそるおそる聴いてくる。
思いだしながら応えていく。母は大正十二年日進市のお寺の五人兄弟の次女として生まれ、兄が後に住職として跡を継ぐ。ここまで話していくと「お寺さんでしたら、抹茶が好きなのが分かります」と言う。「最近、水分が摂取少なくて、一日で五百ⅭⅭ程しか摂れてないのが、抹茶を飲むようになってから増えて、今は千ⅭⅭまでになりました。水分摂取が多いと便秘解消になり、覚醒時間も長くなります」とやり取りがあり、情報が共有出来た。面会の時に母はうつらうつらするのが多かった。「寝ているのか、起きているのか分からん」呟いていたのだが、好きな抹茶の効果で水分補給も出来て、色んな事を改善できるとは┉┉┉┉。
若い担当者は「お寺が心配とよく話す理由も納得です」、続けて言う。お寺関係者とは気が付かないだろう。本人の環境、習慣や生い立ちは家族は分かっていても、介護者は情報不足で分からないのだと改めて思う。
教職を経て二十五歳の時に結婚で辞め、刈谷市へ嫁ぐ。その後は三人の子育てしながら、連れ合いの転勤で茨城県、青森県で過ごす。退職後、刈谷市へ戻る。趣味の園芸では名古屋市の東山植物園でボランティア活動を通して植物について学ぶ。庭も季節の花が咲いていた。花について話す顔は輝いていた。「それでぬり絵も花だけを選ぶのですね」担当者はここでも納得したようだ。
八十歳の時に横断歩道でトレーラーの左折巻き込み事故、 四カ月入院。骨盤骨折、両手も不自由になった。それからは父が家事をこなしていた。四年後父が急に旅立ち、それまでデイサービスに通っていた今の所にお世話になっている。この辺は担当者も記憶しているようだった。
電話で二十分くらい話をしただろうか。まだまだ細かいところもあるので、後日、私の知る限りの母の事を書いて送ることにした。介護のチームでも共有してもらえたらと思う。
今回の事で思いがけず母の百年の生き様を思い返せた。だが、どこまで母の気持ちを分かっていたのだろうかと、考えさせられた。

 母がお世話になっている施設の担当者から嬉しい報告があった。より良い介護を目指す対象になった母の経過報告だ。「目標としている水分摂取が一日で六五〇CCしか摂れていなかったのが、一五〇〇CCまでになり、覚醒時間も長くなってきて、歩行距離も延びています」明るい兆しが見えてきた連絡に頬が緩む。水分摂取量はそんなにも大事なのだと改めて思う。
百歳になる母の生い立ちレポートを送ったのもチームで共有して役にたっているらしい。
 お寺の次女として生まれ結婚するまで過ごした記憶は最近強くなっているようだった。「今日はお客様が多いから忙しい、抹茶を沢山立てないと」母が夜になってからそわそわしていると、話を聞いた介護の方が「そうだねー」、と母の気持ちを分かって、話を合わせていく。情報を共有しているから対応出来ているらしい。母に合わせていくと穏やかな表情になって、眠りにつくそうだ。家族としては有り難くて電話の前で頭を下げる。
 さらに花の好きな母のために近くの園芸店まで外出をやってくれた。手押し車につかまりながら歩く外出は、時間がかかり大変だと察する。スタッフが「鉢植えの花を籠に入れようとしたら、「その花は元気がないから、こちらがいいのよ」と、教えて貰ったとか母の口調を思い浮かべ口の中で笑った。元気な頃は毎週のように通った店に行けて悦んだと思う。生き生きした姿が目に浮かぶ。買い求めた花は、施設の中庭で皆さんと一緒に世話をしているそうだ。
少し前まで施設でクラスターが発生して、部屋から二週間出られなく、足が弱り歩けなくなるのではないかとの不安がよぎったことがあった。外出出来るなんて嬉しさも倍に感じる。現実と自分の世界を行き来している母には、外出は何よりも良薬だ。
「これでより良い介護を目指す三カ月の実践期間は終わりましたが、良い結果が出てきているので繋げていこうと思っています」さらに、「自分の親は居て当たり前だったが、考えさせられました」電話口からのやり取りは、以前より親し気に話す。
 今回の事が無ければ百歳の母は半分呆けた年寄りの一人に過ぎなかった。食事以外は椅子に座りうつらうつらして、ぶつぶつ独り言を呟いていた時間も長かったのだから。おそらく、若いスタッフから見れば老人は十把一絡げだったのだと思う。母の気持ちを少しでも分かって寄り添って貰えるようになった機会があって良かった。個人情報を嫌がる人もいるが、私は情報を提供して共有してもらえて、思いもよらずいい結果に繋がったと思う。若いスタッフさん達に感謝している。
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随筆  極淺蒸し茶のこと   文科系

2023年02月07日 00時00分36秒 | 文芸作品
 今の日本の茶は、粉っぽい深蒸し茶が多い。昔はこんなではなかったというのは、関西は関東と違って淺蒸し茶が多く、静岡から取り寄せる極淺蒸し茶を今の僕が愛用しているから、知っていることである。他の名のある茶が育つ近くの観光地などで買おうとしても、こんな淺蒸し茶などどこにもない。岐阜の白川茶、三重の員弁茶など近い茶所でも。大量生産から平地に近いような土地でも茶を作るようになってから、極淺蒸し茶(葉)も何もなく深蒸し一辺倒になったのではないかなどと思うこともある。深蒸し茶では、茶の本当の味はほんの一瞬、上手くだして二煎目まで。

 一方、極淺蒸し茶は、いわゆる茶葉としては最上級と昔から語られてきた朝霧の立つ山間傾斜畑の葉で作ることが多いようだ。そうでないと茶葉が持つ価値が半減してしまうからだろう。だから、できあがりも大きな茶葉が丸まっただけの長い針のような形で、そんな高級茶の最初の温度60度くらいから順に熱くしていく温度調節に慣れれば、中国茶のように五煎目まで美味しく飲めるのである。だから、100グラム1500円というような値段も、僕には全く高くはない。外で飲むコーヒーの4杯分と思えば、ずいぶん割安と思う美味しさなのである。自国の茶をとても大事にしてきた中国に比べて、深蒸し茶ばかりということも重なって、日本の茶はどんどん斜陽になって来たのではないかと思うこともある。
 淺蒸し日本茶の出し方はコーヒーと同様に奥の深いものだ。その努力をした分、コーヒーに比べても、日本茶はそれだけ美味しくなるということでもあるが。

 さて、僕の家では、この極淺蒸し茶をだすのは僕の仕事と決まっていて、娘一家が我が家で飯を終えると必ずこう言う。
「爺、お茶をお願いできますか」
 こう言われた僕は、鼻高々、いそいそと動き始める。子どもにはお茶は良くないとも言われるが、孫たちもこれが大好きで必ず飲んでいく。孫用の茶は常に何倍かに薄めてだすのだが、これをいつも、実にきれいに飲み干して、必ず「お代わり」と言う。極淺蒸し茶は煎が利くから娘などは3杯も飲み干し、「こんな茶は、他では飲めないよねー」などと言ってくれるから、僕という老人の日常の中で、とても嬉しいひとときになっている。

 
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随筆 「お百姓さん」  文科系

2023年01月14日 12時41分36秒 | 文芸作品
「Tさんって、お百姓さんみたいだね」
 入院四十日近くなってベッドに座ってテレビを観ていた僕の所に日々の定期回診にきていた看護婦さんが、いつものような何気ない会話の中でふと口にした言葉である。
「どこがお百姓さんなの? 僕がお百姓さんじゃないって、知ってるよね?」
「当然分かってるけど、毎日廊下を歩いてるのがお百姓さんみたいだって、皆が言ってるよ」」
 癌の第二ステージとかで膀胱全摘出手術からストーマという外付け尿袋を付帯する手術のために入院した。一週間近い事前検査などを除いた術後自身からでも入院生活が一ヶ月近くたった頃の話である。
 この病気が発見されて手術に至る前の僕は、月間一六〇キロほど走っていたランナーであった。その僕が、退院後もランナーに復帰できることを願って、主治医の許可を得て病棟の主廊下五〇メートルの速歩き往復を日々繰り返すようになっていたその姿を評しているのである。聞けば、こういうことらしい。同じような手術の後で廊下を歩いている「人種」を看護婦さんらはよく知っていて、その筆頭がお百姓さんなのだと。なるほど┉┉┉と思い、同時になんか嬉しくなった。両方とも退院後は最低限でもすぐに速歩きぐらいはできねばならないと心に決めているのだろう。そしてどうも、「今後もこれぐらいのことはできねばならないから」を持った手術後入院期間人種は、それが特に僕のような老人の場合には、入院の態度そのものもずいぶん違うらしい。一言で言えばこんなことのようだ。大病にがっかりして打ちひしがれたようになっているか、言動などに「活きている」という明日への姿勢とでも言えるものが感じられるか。ちなみに神の「別世界」などを信じたことがない僕にとっての死は永遠の無だと若いころから考えてきたが、今はその「怖さ」に対しても「たった一度の人生、きちんと活きていこう」とやってきたと思う。

 さて、この「お百姓」会話に関わって嬉しく思い出した僕自身の体験もある。同じ時に同じように廊下をせっせと歩いている人種を見つけてすれ違った時などに軽く挨拶を交わしあうのだが、その照れくさがっているような笑顔がなんとも温かく、親しげなのだ。「よう、御同僚。あんたも寝たままじゃおれん口なんだよな」と語っているようなお仲間同志の感じ┉┉┉。

 さて、こういう「お百姓さん」、「寝たままじゃおれん口」には、意外な退院祝いの贈り物もついて来る。退院して数日で、六年生の女孫シーちゃんから早くも声がかかった。「爺、ちゃんと歩けるんでしょ。前のように散歩しよ」。というわけで、彼女のダイエットを助けることになった。孫二人とも保育園時代も今の学童保育でも、僕らが迎えに行って我が家で面倒を見る時も多くて、小さいときから僕との散歩の習慣があったのだ。この散歩の最後は距離にして今は一キロちょっと離れた彼らと娘の家へ送っていくことになる。と、こうは言っても、六年生になった元気なシーちゃんとのダイエット散歩はかなりハードだ。一昨日などは、彼女らの保育園近くの川奈公園まで行って、旧飯田街道沿いを我が家近くの中華料理屋さんにまで帰り着き、イカスミラーメンとエビ焼きそばを僕はビールセット付きで頼むことになったのだが、そこから我が家まで含めて都合合計六キロ。中一五日ほど置くことはあっても、合計六〇日ほど三度の入院生活から復帰して半月もたたぬ身がやることとて、連れ合いには酷く怒られた。が、次の日は、このシーちゃんが学童保育の親友、中学一年生一人を自転車同士で我が家に連れてきて、三人の自転車散歩となった。学童保育への長い長いお迎えの日々から僕も入れた家族ぐるみで特に仲良しになっている女の子なのである。



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随筆 最高の退院祝い  文科系

2022年11月03日 20時50分14秒 | 文芸作品
 膀胱に癌ができて全摘手術、四十日ほどで退院になったその日の夜、二人の孫を連れて娘のマサがお祝いに来てくれた。九時間近い大手術が八一歳の身体に与えたストレス後遺症と言われたものだが胃にムカつきが続き味覚が狂っている中で、唯一何でも食べられるのが果物。娘が持ってきてくれたシャインマスカットの一粒を皮ごと一噛みした味は、まさに慈雨。やわらかな甘い香りとその中から飛び出て来た小さく鋭い甘さとが、乾きがちの身体全体に染み渡っていったものだ。
 さて、そんな僕に六年生女子になったハーちゃんが早速、ある近況のご報告。
「体操の授業でハードルやってるんだけど、また、学年一番。一つも倒さず速く通せるからね」
〈起立調節性障害から来る不登校で半分ほどは休んでると聞いてたけど、よしよし体操の授業は出てるんだ……〉、そう思い巡らしながら、二人だけに通じる過去についてのある質問を思いついた。
「二人でハードルの練習になるようなことをやったのを一つ思いつくけど、何か分かるかな?」
「分かって当然。この家から私の家に帰るときにいつもやってた馬跳びでしょ?」
 懐かしい思い出である。彼女が四歳から三年生ぐらいまで、保育園や学童保育にお迎えに行って我が家に連れ帰り、風呂、夕食などを済ませて四百メートルほど離れた娘の家に送っていくことになった夜のその道中の話なのだ。きれいに整備されたジグザグの生活道路の歩道端のポールの列をリズムよく馬跳びしていけるようになるまでの思い出がある。走りながらある高さを飛び越えていく感覚、その瞬間前後の上下半身の協調。馬跳びとハードルのスタイルは全く違うけど、根底にある原理は同じなのだと思う。
「ただ、ハードルは短距離ね。もう一方の長距離関係の方で、自転車はちゃんと乗ってるの? 近頃太り気味みたいだから、そんな君には最良のダイエットだよ」
「乗ってる乗ってる。ていうか、その自転車でジイに一つお願いがあったよ。ダイちゃんに『速い乗り方』を教えてほしい。ジイと三人でサイクリングしてみたいって言うんだよね」
 ダイちゃんというのは、最近母親同士含めて家族ぐるみで付き合っている同級生のボーイフレンドのこと。「速い乗り方」の方は、こんな解説になる。人が普通に乗るやり方よりも、サドルの高さを二段階ほど高くする。ペダルが最下段に来たときにその膝がほぼ伸びているほどに。こうすると、同じ脚の回転力でも優に時速五キロほどは速くなるし、長距離の疲れも少なくなるから、ハーちゃんは一日五十キロほどのサイクリング力を持っているのだ。ただし、この乗り方に慣れるのには少々の訓練がいるのである。こんな申し出はもう嬉しすぎるけど、はて九時間の大手術、四〇日の入院からの八一歳のこの身体のリハビリがちゃんとできて、ロードバイクにもきちんと乗れるようになるのだろうか。十日も延びた入院の間も、歩行訓練はしてきたから、退院一日目の今日も僕のリハビリの常道、家の十八階段往復を四〇ほどはできるようになっていたけど。
「分かった。ダイちゃんのバイクをちゃんと調節して、きちんと乗れるように教えるよ。こんな嬉しい目標があれば、僕の身体自身を戻すよう頑張りがいもあるというもの。むしろ僕がハーちゃんにお礼を言わんといかん」
「負うた子に教えられ」ならぬ励まされて、最高の退院見舞いに恵まれた。この翌日の階段往復は自然に五〇を越えて、肝心のウオームアップ後の心拍数も相当落ち着いてきた。普通の自転車はもう乗ったから、明日辺り、あのロード・バイクの方にまたがってみようか。
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学童保育キャンプにて  文科系

2022年09月16日 09時58分08秒 | 文芸作品
 今年も彼は、孫の学童保育キャンプにやってきた。現在六年生の女孫シーちゃんが小学校入学以来、その母親である娘マサさんの要請で、祖父である彼が孫の学童保育一泊キャンプに出続けて来て、もう六年目になる。二人目の孫、男子のセイちゃんも今はご同伴幼児ではなくって、立派な二年生の主役の一人になっている。これは、この四人が出かけていった今年の郡上八幡キャンプで起こったあるお話だ。

 一日目夕食の主菜、鮎の遠火炙り焼き係の上級生らとその下ごしらえに取りかかっていた彼を見つけたマサさんが駆け寄って来て、こう告げた。
「シーちゃんは、あの後プールでバリバリに泳いだよ! プールの端っこじゃなくて、ど真ん中で何往復もしていた!」
 この話を一大事のように伝えに来たのは、この前段に訳があってのこと、こういうものだ。
 子どもらが市営キャンプ施設内の大きなプールで遊び始めたのは、午後二時近くから。集団遊び用の巨大な浮き袋船などもいくつか浮かび、児童個人が持ち込んだ遊具もカラフルな大舞台で、六〇人ほどの子どもたちがプールサイドも含めて激しく行き交い、弾け切っていた。彼は、こんな場面をあちこち観察、鑑賞するのが大好きなのだが、近くにやってきたシーちゃんをふと呼び止めて、一言。
「後でちゃんと泳ぐ機会があっても、あんまりバリバリ派手に泳いじゃいかんよ。向こうの一コースか二コース、隅の方でゆっくりね!」
 彼がシーちゃんにわざわざ注意したのは、こんな理由だ。彼女があるで巨大なスイミングスクールの中で選ばれた数少ない選手コースの一員であって、その側面援助コーチを保育園時代からずっと務めてきた彼として「多くの父母も見ていることとて、目立ちすぎるのは遠慮しといた方が良いよ」と。「分かった!」と応えてシーちゃんは再びプール遊びの渦の中に飛び込んでいったが、側で聞き耳を立てていたマサさんが彼に言葉を返した。
「別に遠慮などしなくて、真ん中で堂々と泳げばいいんじゃない。どうしてあんなこと言ったの?」
 このやりとりはちょっと続いていたが、そこに間もなくシーちゃんがやってきたので、彼はふと思いついて、このやりとりをそのまま彼女に伝えてみた。「僕はあー言ったけど、母さんは『気にせず好きなように泳げばよい』と言っている」。この一言がちゃんと伝わったかどうかのうちに、シーちゃんは何も言わず踵を返して離れていった。はて、結果はどうなるのかと、大変興味深い話が残ったわけだったが、八十一歳になる体がちょっと疲れていた彼は自分のバンガローに昼寝に戻って、自らこの結果を見ることはなく、この続きの場面が夕方のマサさんの彼への報告となったのである。

「真ん中で、長く泳いだの?」
「うん、先生がそこで泳げと指示してたようだし」
「何をどれくらい泳いだのかな?」 
「自由形をバリバリに泳いでたよ。折り返して二〇〇メートル以上はあったかな」
「泳いだのは、フリーだけだったんだね?」
 ここで彼はずいぶんほっとしつつ確認していたのである。
〈真ん中で泳いだのは、先生の指示だったようだし、シーちゃん、僕の言葉も守って、ちゃんと慎んでくれたんだ〉
 水泳の玄人がフリーだけならいくら長く泳いでも、バリバリに泳いだとは言わない。二〇〇メートルほどの個人メドレーとか、バタフライ、背泳などを正しいフォームで泳いで見せてこそ、初めてバリバリに泳いでいたというのである。そして、当然そう言う他人の目を知っているシーちゃんだったから、彼の言葉を守ってくれたと分かったわけだ。

 百匹をこえる鮎が焼けて、子ども、親みんなに行き渡り終わった頃、主食のカレーと一緒に食べているシーちゃんの所へ彼は出かけていった。そして、小さく声をかけた。
「シーちゃん、フリーだけ泳いだんだってね。僕は、その方が良かったと思うよ」
「うん」と、彼に顔を向けて応えたその表情が明るく、一種爽やかさを読み取れたのは、彼の気のせいだったかもしれなが、彼の意思、その内容がちゃんと彼女に伝わっていて、かつ彼女もそれを満足に思っていると感じたものだった。



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掌編小説 邪宗を撃退した話   文科系

2022年08月24日 16時29分46秒 | 文芸作品
 世界基督教統一神霊教会。政権党国会議員らとの「公僕としては汚すぎる」腐れ縁が世を騒がせている真っ最中のこの名が久々に聞こえ始めて、わが身に起ったある出来事をすぐに思い出した。何年か前、今と同じ夏の終わりに近づいた頃の事。庭のブドウ、巨峰の袋掛けが二〇を超え、珍しい豊作にもなったので、見栄えが良い何房かを選び出して、お隣の柴原さんにお裾分けに行ったのが事の始まりだ。この家は、今は成人になったばかりの二番目のお子さんが生まれた直後からここに住むことになった、我が家の店子に当たる仲良しだったが、お裾分けをめぐる型通りの応答の後で、当時はまだ四〇歳ほどだった奥さんがこんな話を切り出したのである。
「この頃、何か宗教団体みたいな女性が何人か訪ねてくるようになって┉┉┉。実家の母が大腸癌で亡くなったのを知っているその友人なんだけど、┉┉┉ 」
 そういえば僕も車の洗車をしていた日中になど二度ほど見かけたことがある。一台の車から二~三人が降り立ち、柴原宅の呼び鈴を押しているその姿を。しばらく様子を見て居たが、玄関口で何やら話し合い始めたようだった。初めは空いていた扉を間もなく一人が閉めたのでそう思ったのだ。〈あれが始まりだったのか、その後もう一度見た覚えもあるが┉┉┉┉〉
「宗教団体って、どうしてそう思ったの?」
「母が死んだお悔やみとか、『良い人だったからとても仲良くさせていただいてたのに、どうしてこんなに早く┉┉┉』だとか」
「お母さんが亡くなられたその因縁というのかな、そんな話も出て来たの?」
「そうそう、私いま、ほかにもいくつか困ってることがあって、そんなことも色々しゃべってたし┉┉┉、」
「大丈夫だろうけど、何か手伝えることがあったら、言ってね」
 とこんな風でその日は終わったが、気になって注意していたら、その後も何度か同じことが続いていたようだ。彼らの車を覚えたから僕にも分かったことなのであって、その車が帰っていったある夕方、考えていたこんな話を柴原宅の玄関口ですることになった。

「あの宗教団体が今もまた来て帰っていったようだけど、撃退法というのか、ある話をちょっと聞いてくれます?」 
 仏教の一部を除いて、ほとんどの宗教はまず「霊魂不滅」という考え方を持っている。ここから、死後の世界に永遠の命を導き出すものだ。だから、そこを拒めばよい。夫も私も、肉体を離れて霊魂は存在しない、肉体が滅びればその肉体と結びついた魂も滅びると考えていると強く言い続ければよい。とここまで話すと、彼女からいくつかの質問が出て、こんな応答が起こった。
「魂もないという死後って、怖くないですか?」
「怖いから魂があると思おうって、おかしいでしょう。それに、自殺や、最近は死刑覚悟の犯罪もあるようだし、怖すぎたら自死なんて起こらないのとちがうかなー?」
「臨死体験って、どう思われます? 死の床から生き返った人が死後の世界を垣間見ていたという体験談のことらしいですが」
「死にかけた人でも脳が働いてれば夢は見るでしょう。夢って、実体のない漠としたものだから、死後の世界の断片のような映像や内容もあることでしょう。人間ってもともと、肉体が眠っていても夢を見るから、肉体を離れた心つまり霊魂があると考えてしまったんじゃないのかな。という細々とした話には彼らも色々と返してくるはずですから、正体も現していない彼らを拒否するにはとにかく『霊魂はない』と言い続ける。必ずお連れ合いの名前も出してね」
 と強調してその日を終わったが、以降何回か彼らの車を見た後に、柴原奥さんから「もう来なくなった」と告げられたものだった。その時に早速、僕の方からこんな話を出させていただいた。先日の話の続きで、僕の宗教観として。
 宗教にも自然宗教から、多神教、一神教などいろいろだが、すべての宗教が自然科学の発展によってその信仰領域をどんどん狭められてきたという歴史がある。このことが案外まとめては語られていないのだが、どうしてなのか。「それでも地球は回る」と天動説は地動説に取って代わられたのだし、どの宗教にもある創世記はビッグバンに始まる宇宙膨張史に席を譲った。「神の似姿」として造られた人間も、現生人類すべての祖先である一〇数万年前に東アフリカにいた一部族の、一人ないしは数人の女性にまで行きつき、意外に多く存在した他の別系統人類は、数万年前までにすべて死に絶えているという。そんな人類進化史がほぼ究明され尽くしているのである。それでも「信仰と科学とは共存できる」と語られるのだが、狂信カルトの定義もない日本だから、カルトが政権を支えることになってしまった。
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随筆紹介 十分間の面会   文科系

2022年02月28日 02時06分48秒 | 文芸作品

 随筆紹介 十分間の面会   K・Kさんの作品です

 老人ホームにお世話になっている98歳の母と、2年ぶりに面会できた。昨年の冬には肺炎で4か月入院、その間も面会禁止で様子も分からない。このまま最後まで会えないかと覚悟をしたこともあった。何とか持ちこたえてこの日を迎えた。
 博多から私の弟夫婦も10分間の面会のためだけにわざわざ名古屋に来た。私と妹は名古屋に住むが、弟は遠い。たぶん高齢の母が少しでも元気なうちに会いに来たのだろう。兄弟3人が揃ったのも10年ぶりだ。

 母はおぼつかない足取りだが、シルバーカーを押しながらゆっくりと歩いて来た。一瞬立ち止まり顔を傾げて考える。私たちを思い出したようだ。笑顔で近寄る。弟家族の結婚式の写真を母に見せると、楽しそうに見つめる。コロナ禍で写真だけ撮影した結婚式だったとか。
 すると、側に居た小学5年生のひ孫を見て「知らんなあ」と、困った顔をした。今までは会いに行くと「大きくなったなあ」と喜んでいたのに。目の前で知らない人と言われた孫はショックだったらしく、大きな目に涙がふくれあがってきた。仕方がないかもしれない。コロナの前は施設で年に3回、クリスマス会、敬老会、夕涼み会など、家族と一緒に食事会で顔を合わせていた。その機会がなくなったのだ。帰り道、孫は「おばあちゃん、私のこと、忘れないで」と私の手をぎゅっと握った。

 

(2021年12月の作品です)  

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随筆紹介  料理の社会化に敗北した話  文科系

2022年02月27日 06時32分59秒 | 文芸作品

 随筆  料理の社会化に敗北した話   K・Kさんの作品です

 娘夫婦は共働き。帰宅は七時頃になり、連れ合いはもっともっと遅い。共働家庭でも妻の家事負担が多い上に、食育だ、手作りだ、と家庭料理に対する圧が、諸外国に比べて強い日本。企業や政治家の、料理は母親がするものだという思い込みに、うんざりさせられることもまだまだ多い。料理を好きとか楽しいより義務感の方が大きいのではないだろうか?

 お腹が空いて待ちきれない孫達のために、近くに住む私が毎日手伝いに行っている。なるべく旬や栄養や味について考えて、手作りを心掛けてきた。肉巻きロール、ハンバーグ、酢豚など。
 だが、どれだけ考えて料理しても、食べないときは食べない。給食でお代わりしたというメニューを再現しても、食べないときはもう絶対に食べない。もうヤダ!と、しんどさに料理は作らない。総菜を買ってくるか、冷凍食品にした。

 ところがこれが好評だった。スーパーの総菜コーナーから選ぶ、チーズの入った二重ミンチかつ、海老カツ。冷凍の小籠包は胡麻油の香りで肉汁たっぷり。餃子は油も水も要らない。凍ったまま焼くだけ。パリパリに仕上がる。かなわない。今までの手作りは私の一人相撲だった。でも、これが料理と言えるのか? そんなことより簡単で美味しい。家庭は平和だ。

 別格は、夫が作っているカボチャの煮物。ダイエット中の中学二年の孫は、食後のデザートと毎日楽しんでいる。ちょっと悔しいけれど、良しとしよう。

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随筆 都会の真ん中に見つけた僕の宝物   文科系

2022年01月21日 16時01分02秒 | 文芸作品

 名古屋中区に近い千種区の境界辺り、築六〇年の我が家の庭には松柏などは皆無で、花木、果樹ばかり。一九年前に亡くなった母の好みを受け継いだと言えば聞こえ良いが、母が生きていた頃は連れ合いと二人で、亡くなってからは僕も加わって最低限の手入れをしてきた「自然風の庭」である。と言っても建物面積を引いた図面上は五三坪の多くが南向きだから、木々も相応に大きくなる。さて、この庭に近年いろんな宝物を「見つけた」。

 まずはキュウイや巨峰葡萄の実。畳一畳ほどに広がったジャムを作る柚の木。そして、今年は金柑酒を作ろうしているその木は僕の身長の倍近い高さで一坪以上に広がっている。これらすべてを相当楽しんできたが、どっさりと実が成って独特の甘さが美味しいキュウイの方は残念ながらその木の猛烈な「乱雑さ」に閉口して、十年ほど前に涙を呑んで綺麗に伐採してしまった。すると、そのキュウイなどに圧倒されていた一重咲きの極薄ピンク梅が久々にどっさりの実を付け始めた。それまでの倍などというものではなく、剪定してもなお一坪ほどにびっしりと広げたそのすべての枝にほぼ満艦飾なのだ。母を習って連れ合いが細々と作っていた梅酒が急に増え始めて、数年前の十一月には一シーズンに三リットルほどが飲めるようになっていた。それから間もなく、僕らの代で持ち込んで実が成らないと信じ込んでいた濃いピンクの丈高い八重咲き梅にもいきなりどっさりの実がなり始めたのは、どういうわけなのか。

 さて、ここでわが連れ合い、懸命に梅酒の研究に努め始めた。そして昨年、彼女お得意のネット検索から見つけ出したのが、僕の大好物、ブランデー入りリカーを使ったブランディー梅酒のレシピである。この梅酒は、ホワイトリカーつまり焼酎だけのものよりも、味に丸みと深みが出る。梅と葡萄の味と香りがうまく溶け合ったうえにアルコール臭も消してくれて、年代物スピリッツのような趣が生まれるのだ。これも半分含めて去年十一月には実に八リットルも出来上がったから、僕が遠慮無く飲み親しい人に贈呈しても、この一月末現在まだ三分の一ほどが残っている。
  そしてこの新春、連れ合いがネットで「日本酒梅酒」なるものを見つけてきた。これによって、今年十一月から先には、三種の梅酒が飲めることになった。

 そんなこんなのこの新春、僕は庭に出ては、自分の背丈の倍以上に伸びたピンク八重咲きの枝にびっしりとついた花芽などが日を追って膨らんでくるのを確かめている。今年六月の枝を想像しているのだ。

 

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親友の旧聞、中日歌壇年間最優秀賞  文科系 

2021年12月05日 12時55分52秒 | 文芸作品
 
 以下のエントリーは古いものの再掲、12年年末の話。今病と闘っているこのブログ創始者の1人、らくせきさんの短歌のこと。彼は、俳句の世界の人とばかり思っていたから、驚いた話なのだ。彼の俳号は遅足という。もう1人の創始者は、すでに亡くなってしまい、僕1人細々と孤塁を守ることになったという次第。
 
 
 昨日の中日新聞を見ていたら、見覚えのある顔が載っている。それも3センチ四方以上かと思われるカラー写真の顔アップで。大学同級生時代からの友人の顔に違いない。見れば、中日歌壇の年間最優秀賞で、短歌ではたった二首の一方なのだという。毎日曜日の「中日歌壇」に選ばれたすべての歌の中で本年分の最優秀作品というのだが、その歌がまたとても気に入った。長いつきあいの彼だが、俳句をやっていることは知っていても、短歌もやっているとはぜんぜん知らなかったのに。

 生れ落ちこの世へひらく掌に雪の香はあり前の世の雪

 気に入ったことだらけだが、惹かれたことを順に上げてみたい。
・最初にまず、下二句の語調が気に入った。ここに、一種の品格を感じた。なぜかと考えてすぐに分かったのだが、「の」が三つ並ぶその調子、リズムの中に、「香は」の「は」が効いていると感じ、惹き付けられたようだ。
・次いで、輪廻転生を乗せた掌が白くこの世へひらいていくというこの歌のモチーフ自身に惹かれた。この子のこれからの「生老病死は?」とか、「愛と憎しみは?」とかまでに思いを馳せるのである。手塚治虫の「火の鳥」ではないが、輪廻転生が欲しいと思うかどうかは、人様々だろう。と、こんな事までも考えさせられる歌だと思う。
・動きがあって、意外にダイナミックな歌だとも感じる。「(生れ落ち)この世へひらく掌に」にそれを感じるのだろうが、この情景から思いがこの子の前世の雪にまで飛んでゆくのだから、確かにそうに違いない。記事にあった作者の言葉では「テレビで見たモンゴルの家族が話す輪廻転生」からヒントを得たのだそうだから、モンゴルの雪なのだろう。

 おめでとうございます。
 
 
(2012年12月27日 当ブログエントリーの再掲) 
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随筆 僕の「人生と芸術」   文科系

2021年12月01日 00時27分06秒 | 文芸作品
 

 大金持ちが有り余った金をその余生などにおいて芸術、美に費やし続けてきたという話は多い。「○○美術館」と個人の名前を冠したものがいかに多いかとか、名古屋の「宗次ホール」のように弦楽器の世界的名器を山のように揃えて若手有望芸術家に貸与してきたとか。昔に遡れば、信長、秀吉らがある茶道具と城一つとを取り替えたとかの話もある。音楽の歴史をもっと古くまで遡れば、音楽が宗教の世界のものだったとか、仏教の「音声菩薩(おんじょうぼさつ)」とかにも辿っていける。これらは、大金持ちが人生の喜びをそういう芸術、美に発見し、求めてきたということだろう。僕はこのことを、ある宗教に財産をつぎ込むのとちょっと似ていると、いつも推論してきた。つまり、自分の人生を何に懸けうるかという、死生観の話にもなっていくのだと。

 さて、彼ら大金持ちの芸術はもちろん、鑑賞者のそれだろう。が、その芸術を行う者の楽しみはどうなのか。鑑賞者よりもはるかに楽しいのではないかと思われるが、などと歴史を見つめてみた。「素晴らしい旋律が夢のように湧き出てきた」と語られるシューベルトは、栄養失調に近い状態のうちに30歳ちょっとで亡くなっている。まるで、そういう多くの作曲と親しい人との演奏に開け暮らして、命を縮めたというようにも見える。生前一枚の絵も売れなかったといわれるゴッホは、まさに炎のように色彩豊かな絵をほとばしりだした。自殺したのだから人生が楽しかったかどうかは分からないが、絵画に懸けたその情熱が凄まじいものだったことだけは、誰もが認めるものだろう。
 
 とこんなことを考えて僕は、晩年の生きがいの一つに音楽、楽器演奏を選んだ。小中学校に7年ほどバイオリンを習っていたから迷ったのだが、独学で拙く弾いていたクラシックギターの方を改めて50歳代から復活させ、停年後に先生についた。それからもう19年目に入りかかって、近年は年とともに下手になっていくようにも思われるが、それでも毎年の発表会には出続けている。また、この年月で特に好きになった長短20数曲の暗譜を維持すべく月何周りか弾き回して来たが、この「暗譜群」は僕のギター生活の宝物になっている。

 ちなみに、ギターは「楽器の王様」とも言われるピアノと兄弟のような和音楽器であって、単音楽器よりも楽しみが深いと思われる。単音楽器の和音がアルペジオ奏法(フルートで奏でる変奏曲、例えば「アルルの女」を思い出していただきたい。ギター教則本の初めにあるアルペジオ練習だけでも、とても楽しいのだが)しかできないのに対して、ギターの重和音一つをボローンと弾いて、聞くだけでも楽しめるのだ。和音一つで、澄んで晴れやかな、あるいは重厚で悲しげな・・・とか。自分であれこれと出してみた音を自分で聞くというのが、また格別に楽しいのだろう。

 これからどんな拙い演奏になっても、弾き続けていきたい。和音一つでも、あるいはアルペジオ一弾きでも楽しめるのだから、下手になったなどと言ってやめるようなのは音楽に対して失礼な変な自尊心というものだ。下手になっても音楽は音楽。「技術を聴く」ものではないと考えてきた。

 
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随筆 僕の「死生観・人生観」  文科系

2021年11月30日 10時07分58秒 | 文芸作品
 

 僕は、「あの世」、つまり死後の僕が存在しこれが行くべき世界があるとは考えていない。僕の肉体とともに僕の心も死滅し、死後の魂は存在しないと考えるからだ。ちなみに、肉体を離れてその心が存在すれば、この世以外の心の来し方、行く末が存在することになり、それがこの世ならぬ神(の世界)なのだとなる理屈だろう。と語ると、昔からすかさずこんな反論が返ってくるもの。
「ということは、牛飲馬食だけで、罪や愛は存在しないと?」
 これに対してはこう答えることにしてある。「飲食は大事だが、例えば、罪や愛はもちろん、真善美なども存在する」と。これを言い換えればこういうことか。人生に予め決まった目的などはないが、これまで生きてきた人々は皆それぞれ何かを求めてきて、そういう人々の生活、歴史の中には、真善美、あるいは偽悪醜と言えるようなものは存在してきたと。その上で自分自身は、前者寄りに生きたいと考えてきた。

 この真善美に関わって、話は変わるが、三つの学問(対象)がある。例えば日本の旧帝大学制などではこれを自然、社会、人文と分けて、三種の科学の名を冠してきた。自然科学は自然とその応用の学問、社会科学は経済、政治など人間社会の学問、人文科学は哲学、歴史学、文学など人間文化を研究対象とする学問というように。そして、善や美は、直接扱う学問がそれぞれ倫理学、美学であるにしても、医師の倫理とか社会的正義つまり公正とか、全ての学問に不可分なものと言えるだろう。

 さて、以上を理論的前提とした僕の死生観だが、上のように生と死を観ているから現生をこう生きてきたし、今後もそうしていく積もりだ。

 活動年齢を延ばし、できるだけ長くしなやかな身体でありたいという目的を含めて生涯スポーツを意識したのは48歳の頃だった。これは今、「八十路ランナーの手記」や100キロサイクリングという形で続いている。この二つの関係は、こういうものだ。若い頃からサイクリングをしていたから、59歳にして容易にランナーになれたと。ちなみに、(長距離)サイクリングは最高の有酸素運動スポーツである。

 楽器をやろうとも若い頃から準備していたのだが、これが2003年からのクラシックギター教室通いになっている。そして定年を意識した55歳頃、文章を仕入れようと考えてある同人誌に加わり、小説、随筆などを学び始めた。これも現在継続しているわけだが、この同人誌執筆活動が2006年以来のこのブログ参加にも役に立つことになっていく。ちなみに、同人誌やブログでは、僕なりにこの日本社会に関わっているつもりだ。また、このグローバル時代には日本だけ観ていても良い政治にはならないと考えてきて、特にアメリカの国連無視悪政を批判してきた。ここ20年の日本政治は、アメリカの経済的・軍事的暴力政策への追随が酷すぎると考えている。

 なお、ギターやスポーツに込めた僕の思い(人生目的と言っても良いような思い)などは、明日から各一回ここに書いて行くつもりでいる。

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随筆 死に因んで  文科系

2021年11月17日 13時27分23秒 | 文芸作品

 心臓カテーテル手術をやった。麻酔薬が入った点滴でうつらうつらし始めてちょっとたったころ、執刀医先生の初めての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
 ところがなかなか眠りに入れない。眠ったと思ったら、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識が薄らいでいくのだが、また覚醒。そんなことが三度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたように何か声を出していた。
 さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と、意識していたからでもあろう。手術自身はちっとも怖くはなかったのだけれど、こんなことを考えていた。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢を見ない永遠の眠り、か」
 知らぬ間に生まれていたある心境、大げさに言えば僕の人生の一つの結実かも知れないなと、噛みしめていた。

 小学校の中頃友人を亡くして、考え込んでいた。「彼には永遠に会えない。どこにいるのだ」。ひるがえって「僕もそうなる」。それ以来自分が死ぬということを強く意識した。間もなくこれが「永遠の無」という感じに僕の中で育っていって、何とも得体が知れぬ恐怖が始まった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時はいつも、冷や汗がびっしょり。そしてこの「症状」が、思春期あたりから以降、僕の人生を方向付けていった。「人生はただ一度。あとは無」、これが生き方の羅針盤になった。大学の専攻選びから、貧乏な福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計まで含めて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと思う。四人兄弟妹の中で、僕だけが違った進路を取ったから、「両親との諍い」が、僕の青春そのものにもなっていった。世事・俗事、習慣、虚飾が嫌いで、何かそんな寄り道をしなかったというのも同じこと。自分に意味が感じられることと、自分が揺さぶられることだけに手を出して来たような。こうした傾向を、二十歳の春から五十年付き合ってきた連れ合いはよく知っており、「修業している」といつも評してきたものだ。
 ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りであって俺のこの苦しみがなくなるとしたらこんな良い終わり方はないと言えるが、この苦しみがその眠りに夢で現れるとしたら、それも地獄だし?」というような内容だったかと思う。この伝で言えば、今の僕のこの「症状」ははてさて、いつとはなしにこんなふうに落ちついてきた。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いも何もありゃしない」

 どうして変わってきたのだろうと、このごろよく考える。ハムレットとは全く逆で、人生を楽しめているからだろう。特に老後を、設計した想定を遙かに超えるほどに楽しめてきたのが、意外に大きいようだ。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてブログ。これらそれぞれの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができて、それぞれそれなりに楽しめてきた。中でも、ギター演奏、「音楽」はちょっと別格だ。自身で音楽することには、いや多分自分の美に属するものを探り、創っていく領域には、どういうか何か魔力がある、と。その魔力ぶりは僕の場合、こんな風だ。
 この二月から、ほぼある一曲だけにもう十ヶ月も取り組んでいる。南米のギター弾き兼ギター作曲家バリオスという人の「大聖堂」。楽譜六ページの曲なのだが、この曲だけを日に一~二時間練習して先生の所に十ヶ月通ってきたことになる。長い一人習いの後の六十二の手習い七年で上級者向け難曲なのだから、通常ならとっくに「今の腕ではまーここまで。上がり」なのだ。習って二ヶ月で暗譜もし終わっていたことだし。が、僕の希望で続けてきた。希望するだけでは、こんなエネルギーが出るわけがない。やればやるほど楽しみが増えてくるから、僕が続けたかったのである。「この曲はもっと気持ちよく弾ける、その為には」。ギターの構えから、長年の悪癖までを、この半年ほどでいくつ苦労して修正してきたことか。こんな熱中ぶりは、自分でも訝しいほどである。
 ギターを習い始めて、これと同類の事をもういくつも体験してきたように思う。

「何かに熱中したい」、「人が死ぬまで熱中できるものって、どんなもの?」若いころの最大の望みだった。これが、気心の知れた友だちたちとの挨拶言葉のようにもなっていたものだ。今、そんな風に生きられているのではないか。日々そう感じ直している。

 

(2010年所属同人誌に書いた物)

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随筆 「孫はなぜ面白くて、可愛いか」  文科系

2021年11月12日 00時43分38秒 | 文芸作品
 
 「じい、今日は満月なんだねー、いつも言うけど本当に兎がいるみたい……」。
 小学三年生になったばかりの孫のはーちゃんがしばらく夜空を仰いでいたが、すぐにまた「馬跳び」を続けていく。綺麗に整備された生活道路の車道と歩道とを分け隔てる鉄の棒杭をぽんぽんと跳んで行く遊びで、俺はこの光景が大好き。確か、四歳ごろから続けてきたものだが、初めはちょっと跳んで片脚だけをくぐらせるような下手だった……。我が家から五百メートルばかり離れた彼女の家まで送っていく道の途中なのだ。それが今では、学童保育に迎えに行って、我が家でピアノ練習、夕飯、宿題の音読に風呂も済ませて、俺は一杯機嫌で送っていく日々なのである。こんなことを振り返りながら。

 学童保育でやってくる宿題や、音読は好きだからよいのだが、ピアノ練習は大変だった。これがまた娘も俺も、勉強以上というか、ここで勉強の態度もというか、とにかく物事に取り組む態度を身につけさせようとしているから、闘争になってしまう。憎しみさえ絡んでくるようなピアノ闘争だ。はーちゃんは娘に似て気が強く、『嫌なものは嫌』が激し過ぎる子だしなー。ピアノの先生の部屋でさえ、そう叫んであそこのグランドピアノの下に何回潜り込んでしまったことか。そんなふうに器用でも勤勉でもない子が、馬跳びや徒競走となるとまー凄い執念。
と、最後を跳び終わった彼女が、ふっと、
「じいが死んだら、この馬跳びやお月様のこと、きっと良く思い出すだろうね」
 俺が死んだらというこの言葉は最近何回目かだが、この場面ではちょっと驚いた。死というのは俺が折に触れて彼女に口にして来た言葉だから?またこの意味がどれだけ分かっているのか? などなどとまた考え込んでいた時、「孫は、何故これほど面白く、好きなのか」という積年の問題の答えがとうとう見つかったような気がした。
『相思相愛になりやすい』
 一方は大人の力や知恵を日々示し、見せる。他方は、それに合わせてどんどん変化して行く姿を見せてくれる。それが孫と爺であってみれば、それまでの人生が詰まってはいるが寂しい晩年の目で、その人生を注ぎ込んで行く相手を見ているのである。これは人間関係に良くある相思相愛の良循環そのものだろう。これに対して、あのピアノには明らかに悪循環がある。憎しみにさえ発展していきかねない悪循環。という所で、ふっと気づいたのが、その証明のような一例。最近小学四年生だったかの女の子をDVの末に殺してしまった父親はどうも典型的な教育パパだったようだ。教育パパが転じて憎しみの権化になる。そう、俺らの良循環とピアノの悪循環は、あの父と子の悪循環と兄弟なのかも知れない。だから、思春期の子どもに起こって来るものと昔から言われてきた激しい家離れ、家への憎しみも、この兄弟の一方・悪循環の結果でもあるのだろう。「可愛さ余って憎さ百倍」、俺にもあった激しい家離れ、家への憎しみの時代を思い起こしたものだ。

 さて、以降の俺は、激しいピアノ闘争の後などに度々こう付け加えることになった。
「いつも言ってきたように僕ははーちゃんが大好き。だからこそ、貴女にとって大事なこととママたちと話し合って来たことをさぼると、特に強烈に、怒るんだからね」
 でも、このやり方が思春期まで成功するとは到底思えない。ゲームとか動画、録画とか、成長期にやり過ぎてはいけないものが今の世には溢れ過ぎている。今の子育てに、我々年寄りは何て不向きなんだろうとも、度々悩んできたところだ。

さて、こう言い続けてきたせいか、あるいは彼女がそういう年になったということなのか、暫くしてこんなことが起こった。自分からピアノに向かうようになったし、その時間も長くなった。そして、先日のピアノ・レッスンに久しぶりに俺が頼まれて連れて行ったのだが、初めてという光景を見ることになった。先生のいつにない静かだが厳しく、長い小言を我慢して聞いているのである。ピアノの下に潜っていかないか、トイレに逃げ出さないかと俺はハラハラしていたのだが、結局頑張り通した。そして、終わった後、帰りの車で静かに泣き出した。そう、これがちょっと大人に近づいた涙。これからはこれを一杯流して、素敵な大人、人間になってゆけ……。などと思いながら黙ってその横顔を見ていたら、俺も涙ぐんでいた。
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掌編小説 血筋が途絶えていく社会  文科系

2021年10月29日 07時43分17秒 | 文芸作品
 
 照明が効き過ぎというほどに明るく、客も賑やかなワインとイタリアンのその店でこの言葉を聞いた時は、本当に驚いた。
「我が国の合計特殊出生率は一・一七なんですよ」
 思わず聞き返した。「一体いつの話なの?」
「確か二年前の数字だったかと……」。

 このお相手は、長年付き合ってきた友人、韓国の方である。最初に訪れた時の東部などは、僕が馴染んだ里山そのままと感じたし、食べ物は美味いしなど、すっかり好きになったこの国。何せ僕は、ニンニクや海産物は好きだし、キムチは世界に誇れる食べ物と食べるたびに吹聴してきたような人間だ。そしてこのお相手は、三度目の韓国旅行が定年直後で、連れ合いの英語教師出張に付いてソウルのアパートに三か月ばかり滞在した時に意気投合しあって以来、何回か行き来してきた仲のお方である。知り合った当時は二十代前半で独身だった彼は、十数年経った最近やっと結婚したばかり。子どもはという話の中から出てきた言葉である。ちなみに、合計特殊出生率というのは、女性一人が一生で出産する子どもの平均数とされている。既婚未婚を問わず一定年齢間の女性全てを分母としたその子どもの平均数という定義なのだろう。

「一・一七って、子どもがいない女性が無数ってこと? 結婚もできないとか? なぜそんなに酷いの?」
「そうなんですよ。我が国では大論議になってます。日本以上に家族を大事にする国ですし。原因は、就職難と給料の安さでしょうか? 急上昇した親世代が僕らに与えてくれた生活水準を男の給料だけで支えられる人はもう滅多にいなくなりましたから」
「うーん、それにしても……」
 僕があれこれ考え巡らしているのでしばらく間を置いてからやがて、彼が訊ねる。
「だけど、日本だって結構酷いでしょ? 一時は一・二六になったとか? 今世界でも平均二・四四と言いますから、昔の家族と比べたら世界的に子どもが減っていて、中でも日韓は大して変わりない。改めて僕らのように周りをよーく見て下さいよ。『孫がいない家ばかり』のはずです」
 日本の数字まで知っているのは日頃の彼の周囲でこの話題がいかに多いかを示しているようで、恥ずかしくなった。〈すぐに調べてみなくては……〉と思った直後の一瞬で、あることに気付いた。連れ合いと僕との兄弟姉妹の比較、その子どもつまり甥姪の子ども数比較をしてみて、びっくりしたのである。
 この後で正確な数字を調べたところでは、こんな結果が出てきた。

 連れ合いの兄弟は女三人男二人で、僕の方は男三人女一人。この双方の子ども数、つまり僕らから見て甥姪、我が子も含めた総数は、連れ合い側七人、僕の方十人。このうち既婚者は、前者では我々の子二人だけ、後者は十人全員と、大きな差がある。孫の数はさらに大差が付いて、連れ合い側では我々夫婦の孫二人、僕の側はやっと数えられた数が一八人。ちなみに、連れあいが育った家庭は、この年代では普通の子だくさんなのに、長女である彼女が思春期に入った頃に離婚した母子家庭なのである。「格差社会の貧富の世襲」などとよく語られるが、こんな身近にこんな例があったのである。

 それからしばらくこの関係の数字を色々気に留めていて、新聞で見付けた文章が、これ。
「とくに注目されるのは、低所得で雇用も不安定ながら、社会を底辺で支える若年非大卒男性、同じく低所得ながら高い出生力で社会の存続を支える若年非大卒女性である。勝ち組の壮年大卒層からきちんと所得税を徴収し、彼ら・彼女らをサポートすべきだという提言には説得力がある。属性によって人生が決まる社会は、好ましい社会ではないからである」。
 中日新聞五月二〇日朝刊、読書欄の書評文で、評者は橋本健二・早稲田大学教授。光文社新書の「日本の分断 切り離される非大卒若者たち」を評した文の一部である。

 それにしても、この逞しい「若年非大卒女性」の子どもさんらが、我が連れ合いの兄弟姉妹のようになっていかないという保証が今の日本のどこに存在するというのか。僕が結婚前の連れ合いと六年付き合った頃を、思い出していた。彼女のお母さんは、昼も夜も髪振り乱して働いていた。そうやって一馬力で育てた五人の子から生まれた孫はともかく、曾孫はたった二人! その孫たちももう全員四〇代を過ぎている。「母子家庭が最貧困家庭である」とか、「貧富の世襲は学歴の世襲。それが日本の常識になった」とかもよく語られてきた。今の日本社会においては、どんどん増えている貧しい家はこれまたどんどん子孫が少なくなって、家系さえ途絶えていく方向なのではないか。

 こんな豊かな現代世界がこんな原始的な現象を呈している。それも、先進世界共通の格差という人為的社会的な原因が生み出したもの。地球を我が物顔に支配してきた人類だが、そのなかに絶滅危惧種も生まれつつあると、そんなことさえ言えるのではないか。
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