九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

来週水曜11時NHK総合で、沢田研二・我が窮状の歌熱唱!!

2008年09月10日 20時22分52秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
まだお聞きでない方はどうぞ、
9月17日、ついに「我が窮状」がテレビに登場します。
http://qjomiuchi.exblog.jp/7182920

番組タイトル: SONGS 沢田研二part1
チャンネル: NHK総合
放送日: 9月17日(水)午後11:00~11:30 (part2は9月24日です)
曲目: 「ROCK’N ROLL MARCH」「我が窮状」「君をのせて」
    「勝手にしやがれ」「神々たちよ護れ」 
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私の戦争体験 ④ 満州引揚者として

2008年09月10日 10時37分26秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 その後私達の村に大きな動きもなく昭和20年(1945)も終わり、翌年(1946)も私達はなすことも無く売り食いで過ごしていました。
 初夏のある日、村は慌しくなりました。
 あの戦線を越え蒋介石国民党軍の治下に行けば日本に帰れる。そこで村の日本人、数十人は家財を整理してリュックサックと手に持てるだけの荷物で帰国の途につきました。
 正直、本当に日本に帰れるかは半信半疑でしたが、独り我が家だけ残れないので付いていくことにしました。後で判った事ですが共産軍は日本人の技能を利用したくて日本人の帰国に消極的だった様です。
 禁止では無かったので全員の出発が認められたのでしょう。
 満州では夏しか野宿は出来ません。冬の野宿は間違いなく凍死します。よく凍死体を見たものです。
 私達は文字通りトボトボと歩き、とある所の道端の広地に野宿しました。ところが2、3人の夜盗が現れました。夜盗は反撃を受け殺されても仕方が無い状況ですから向こうもおっかなびっくりです。
 先ほども言いましたが、こちらには守備隊から逃げてきた屈強な人達が多く居たにも関わらず誰も反抗防御する者はいませんでした。
 最初、弱腰だった夜盗も図々しくなり思うままにリュックサックの中身を略奪して去って行きました。

 私はその時に、声掛け合って、武器は無いまでも、女、子供、老人を囲み防衛体制を取組めばよいのにと思っていましたが、なすすべも無い有様でした。
 それに引き換え、以前に連山関に居たとき、帰国する朝鮮人が、自分たちの引き揚げ集団の列車に夜盗が乗り込んで来たのを撃退したと自慢げに話していたを思い出して、本当に情けなく感じたものです。
 他の民族の人々は女子供を皆で守るのに、日本人にはその気概を見ることが出来ず情けない限りでした。

 山を越え(山は登るのは何とかできますが、降りるのは本当に難儀です、膝が、がくがくして歩けません)、河を渉る何日かの野宿の内(何日野宿したかいまとなっては定かではありません)、案内人はこの近辺は伝染病が流行っているから生水は飲まぬよう注意した或る河の畔に野宿の準備をしている時、私は数人の中国人に理由も言われずに拉致されました。
 前々から母から私達子供3人は言渡されていました。
この動乱の中で何時誘拐されるか判らないが、その時に身代金を払えば一家全滅するから身代金は出さない、自力で生き抜きなさいと。ですから救助は望めない、自力脱出あるのみとすぐ覚悟しました。

 私が連れて行かれたのは或る民家です。日本人は悪いことをした、おまえは鉱山で重労働だなど脅かされました。                       然し、私は脱走する事しか考えませんでした。
 ある日、鍵も掛けずに一人置かれました。しかし、日本人引き揚げ集団が目の前に居ては逃げられません。皆が遠く離れるのを待ち、脱走する覚悟で、まずは休養と体を休めていたところ、疲れていたのでいつしか眠ってしまい、やかましい話し声で目が覚まされました。
 この様な時は、不思議と外国語(中国語)でも判るものです。
こいつ寝ていると言って驚いていました。怖くて震えているところを大いに脅かすつもりだったのでしょう。
 ところが事態は深刻になりました。なんと上の妹まで拉致されてきたのです。
またも野戦病院の二の舞かとがっかりしました。
 然し親は有難いものでお金を出して私達を助けてくれたのです。
 後で判った話では、真の身代金目当てでなく、伝染病(恐らくコレラ)の治療薬(持っているはずがありません)目当ての脅迫だったのです。
 日本人集団が持っていない事がわかり、そこそこの金額で釈放したのでは無いかとの話でした。
 そういえば、誘拐にしては相手の真剣さが薄いと感じていたところです。
母は遂に支払い金額を教えてくれませんでした。ただ人前でお金は見せるものでは無いと言っただけです。何か財布でも入れ直していたのが遠くから見られたのでしょう。
 何とか目的の蒋介石国民党軍の支配地区の本渓湖につきました。
 そこで、国民党の偉い人と思われる人の演説を聞かされました。諸君は共産匪(盗賊集団、共産軍の蔑称)から逃れてきた人達で大いに歓迎する。
 蒋介石総統は日本の暴に報いるのに恩をもってすると言っている。責任を持って日本に帰れる様にする。と、このような内容でした。

 ところがどうでしょう。夜になると女を出せと言ってくるではありませんか。
また街では国民党兵士が商店の品を略奪同然に持っていく姿がありました。
 また、街の要所、要所にトーチカ(防衛設備)があり、鉄道警備の列車がサーチライトをつけ終夜巡回運転している様をみて、私達のいた村の様子に比べて蒋介石国民党軍の敗勢を感じました。

 私達は、本渓湖から汽車(客車)に乗せられ、何とか奉天(瀋陽)の収容所に辿りつきました。着いた所は私達が鉄西とよぶ工場地帯の工場跡の一つでした。
 そこは屋根だけの建物で中には何も無く、コンクリートの床と残された鉄板だけでした。ソ連は満州にあった動かせる物は、機械、列車車両、はては鉄道のレールまで何から何まで略奪して運び去った跡です。
 村にいた時に、次から次へそう言った機材を満載した列車を眺めていたものです。
 体験して判ったことはコンクリートに寝ることはどんなにか体力を消耗するものかと言うことです、鉄板はなおさらです。
 食べ物はコーリャンを煮たものです。とうもろこしより小さな赤い粒の穀物です。皆消化不良で下痢しました。消化されず粒の儘、排出です、私達は見る見る衰弱して行きました。弱い老人から倒れていきます。朝眠りから覚めません、家族は呆然としているだけです。
 或る老夫婦のことです。老主人が起きて来ない傍で老婦人は正気を失い、
其の侭病院に運ばれました。
 収容所は伝染病の潜伏期間収容される隔離所でした。発病者が居なければ日本への送還列車に乗ることができます。
 所が期間満了に近づいた頃に決まって新しい引き上げ集団が到着し、伝染病患者が発生となり、また隔離期間が新しく始まる有様で何時出ることが出来るのか判らない日が続きました。

 日が過ぎるにつれて皆は弱って行きました。2ヶ月は経ったでしょうか?
何日経ったか判らなくなったある日の夕方、収容所から家族バラバラで馬車に乗せられて出ました。奉天(瀋陽)には、疎開前住んで居た所でしたが、行き先も知らされず、さっぱり判らない道を家族別れ別れに運ばれましたので、その不安は大変なものでした。
 着いた所で家族が揃い安心する間もなく無蓋貨物列車に乗せられました。時刻は夜で照明もなく、乗っている人達の顔も数も判らない儘でした。無蓋貨車は手すりなど捉るものない平面です。振り落とされまいとしても何の手立てもありません。
順番で中側に座る以外に方法はありません。私の家族は運悪く外側でお互いに手と手を握り合う以外ありませんでした。今でもその恐怖を忘れることは出来ません。
途中で雨に逢いみじろぎも出来ないまま本当に下着の中まで濡れてしまいました。
 何時間乗せられたのでしょうか思い出せません。
 着いた所はコロ島と言う港でした。港の収容所に入れられました。
 順番が来て乗せられたのは米国製リバティー型輸送船でした。乗るのにも自分達の食料に支給されたコーリャンを積まなくてはなりません。重い袋を手分けして積み込みました。いざ、出港かと思って居たら何やら信号灯が煌き足止めされました。捜索手配者がいるとの噂でした。
 船員が誰やらの名を呼んで探し回りまわしたが、出てくるはずもありません。
やっと船がでました。

 日本に帰れます。
 喜んでいる人も多く居ましたが、私達のように生活に当ての無い人々は単純に喜べず浮かない顔でした。
 博多港に着いても直ぐ上陸出来ませんでした。何かの手違いで伝染病発生船にされていたのです。

 ようやくに博多に上陸できました。
 ところがどうでしょう、夜が明けると全員腰が抜けて立てず這って便所に行く始末です。港には復員して来た人達の宿泊小屋が並んでいました。
 係りの人があれは使わないことにしていると言います。休ませると気が緩んで死んでしまうのです。せめて身内の人に逢わせてからと、心を鬼にして休ませず
送り出していますと教えてくれました。

 下の妹の衰弱が激しく博多の病院に入院しました。しかし、故郷の山形に帰ることが出来なかったことは前にお話した通りです。
 漸く日本に帰る事が叶い、今こうして平和な生活を送ることが
出来る日々ですが、戦争、敗戦、引き揚げ、家族の死、戦後の混乱、を経て心から思うことは
 戦争以上の悪はない。
戦争は他国に侵略し、人の命を奪い財産を奪うことです。そして攻め入る方も、攻められる方も多くの人々が死に、傷つき、飢えに泣き、病に倒れ苦しみ、
寒さに凍える。嘆き悲しむ悲惨なことになります。

 絶対に戦争を起こしてはいけない。武器を造ることも、使うこともいけない。

 所が今日の事態は急速に悪化しています。
 あの時に心の底から二度と戦争は御免だと日本全国民が思ったことは、急速に薄れ又もや軍靴の響きが聞こえ、このままでは,総てを軍隊が支配する軍事裁判所をもつ軍事国家になり、日本国民を世界貢献の美名のもとに、他の大国の手先に使はれる道を歩み始める気配です。(自由民主党新憲法草案参照)

 今国民が目を覚まさないと、取り返しのつかない大変な事になります。どうしてこんなことになったのでしょうか、以下私の考えです。

      (つづく)
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私の戦争体験 ③ 満州引揚者として

2008年09月10日 07時23分15秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
戦争ですから死者や負傷者がでます。当然病院が要ります。
私達の村に野戦病院が出来ました。強制的に日本人の子女が
看護婦業務に着かされ、その父母の心配は大変なものでした。
同じ村の中でしたから逃げてもまた捕まりますから
逃げることも出来ません。
幸い私の妹二人は疎開者なので、名簿漏れで逃れることができました。
然し、徴用された身内の人からは随分白い目でみられました。
病院の移動で遠く連れ去られることが最大の心配でした。
地元の強みで地元日本人従業員の手で野戦病院の随所に
秘密の逃げ口がつくられました。

恐れていた移動の日が来ました。
徴用の日本人子女は全員逃亡することが出来て日本人子女の居ないまま
野戦病院は推定約40km遠くの地、鶏冠山に移動して行きました。
しかし、病院からは逃亡子女を拉致するための捜索隊が何度かきました。
遂に私の妹二人は捕まり移動先に拉致されてしまいました。
少女一人ならまだしも少女二人となると殆ど絶望的です。
取りあえず私は妹二人を何としても取り戻すべく汽車
(汽車は走っていました)に無賃乗車で移動先の野戦病院に行きました。

兄(17歳)妹2(15、13歳)の3人で知恵を絞りました。
作戦第一段階として下の妹を病人に仕立てました。
療養のため兄が付き添い家に戻る許可をとり帰りました。
さて次はもう一人の妹です、同じ手は使えません。
私は面会に来た父兄の立場で病院が指定した近く一軒の空家が宿舎でした。
食事は看護婦をさせられている妹が係にうまく話をつけて
病院から私の所に運びました。
今度は私が病人を装い妹は病院の周りの人々に兄の病気を吹聴しました。
一軒家ですから誰にも会わずに居られます。
何日かが過ぎ、ついに、私の介護輸送に妹が付き添う事で
帰宅する許可が降りやっとの想いで妹2人を取り戻すことが出来ました。

今にして思えば私が接した中国共産党軍の幹部の人は良識のある人々が
多い軍隊で、また兵士の人々は人民開放の理想を信じる善良な人達でした。
それで見逃して貰えたのでは無いかと思っています。

余談ですが昨平成18年に偶然或る中国共産軍に参加した日本人の手記を
読む機会がありました。
その中に妹達が拉致された鶏冠山野戦病院の記事がありました。
若しあの時に帰れなければ、この人のように何年間も中国の山野を
何千キロも彷徨う身になる危ない所でした。

続く
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