九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

イラクで起きていること。   落石

2008年09月15日 16時07分06秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
田中宇さんのブログにこんな記事がありました。


イラク政府は、中露に石油利権を与えた。
イラク政府は、アメリカが作った従来のイラクの石油政策は、
欧米企業に利権を与えすぎており、国内世論の反発が強いので、
バランスをとるため中露にも利権を与えることにしたと説明している。

この説明、自体はもっともだが、この件について米政府は
阻止も反対もしていない。

1兆ドル以上の戦費を使い、100万人のイラク市民を殺し、
4000人の米兵の命と引き替えに得たイラクの石油利権を、
中露という敵方に取られそうだというのに。

   

イラク戦争は石油争奪戦じゃなかったのか?
日本の石油がアブバイと、叫んだ経済評論家は
この事態をどう説明するのか?

石破さんは悪い人じゃないが、こういう事態を説明できるのか?

同盟国アメリカが、いったい何を考えているのか?
本当に知っているのか?
総裁選の首を並べている5人じゃ心もとないな。

第二次大戦直前、「欧州情勢は不可解」といって
辞職した内閣があったが、当時と同じ位、
国民も政府も国際情勢オンチじゃないか?

それなら、ヘンに背伸びせず、9条を守って
おとなしく平和に徹したほうが
お利巧だと思うけれど・・・







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はたらく歌    落石

2008年09月15日 15時44分50秒 | 文芸作品
トナカイ語研究日誌、というブログに
こんな記事がありました。
とても興味深いので一部、転載します。


昭和のはじめ頃に「プロレタリア短歌集」という本が出まして、
厳しい生活を生きる労働者の姿が刻まれているわけです。

  あぶれた仲間が今日もうづくまつてゐる永代橋は頑固に出来てゐら
                    
                             坪野哲久

 軽口のような口語自由律、そして「仲間」という連帯意識。
そこには厳しい社会を生き抜いていこうとする
たくましさのようなものをも感じるのです。
「働く」ことに関する歌は、それこそ近代から現代に至るまで
絶え間なく詠み続けられています。 

  こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ

                             石川啄木  

  会社での俺が俺ではないならば一生(ひとよ)の大半俺でない俺

                             長尾幹也

 明治の歌人と平成の歌人を並べてみましたが、
「労働」に対する見方というのは昔から変わらないわけです。

そして現代の若い世代が労働を歌うとどうなってしまうのかというと、
こんな風になってしまうわけです。

  時給一一六〇円が時給七八〇円に「肉まんひとつ」

                             斉藤斎藤

  通勤のロングシートに六人の他他他他他人と一人の私

                             松村正直  

  放課後に見た夕焼けはこんなんじゃなかった気がする残業の窓

                             柳澤真実

 読めばなんとなくわかりますね。とにかく人と人とが「途切れて」います。
本当はアイデンティティとして仕事を生活の中心に据えることも悪くはない
と思っているんですね。
しかし働く自分の姿はあまりに孤独だ。
坪野哲久のように「あぶれた仲間」はいない。
時給一一六〇円と時給七八〇円の二人も、みんなどうしようもなく他者なんです。
決して連帯し得ないんです。
一体いつからこうなってしまったのかわからないまま、
昔とは違う夕焼けを残業の窓から見つめ続ける。
この他者との「ばらばら感」は社会全体が時間をかけて
植え付けてきたものなのでしょう。

そうなる方が都合が良くなる人間というのも確かにいるのです。
このように労働する人間が「極個人的」にデバイドされてゆく現状は、
かつてのプロレタリア短歌と違い口語が
逆に痛ましさを増幅させているような気さえするのです。

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私の昭和史 ラジオと玉音放送①   中野寂音

2008年09月15日 08時48分08秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
私の大先輩、中野さんの記事を紹介します。
戦後50年をきっかけに書かれたものです。
中野さんは戦後、NHKから転身、
CBCの創業にかかわってこられた方です。
ラジオとともに昭和を歩んでこられました。


  ラジオと玉音放送①

私は大正十四年三月九日、東京市牛込区にラジオ放送誕生と同時に生まれた。
日本最初のラジオテスト放送が、この年三月一日
東京芝浦の仮放送所から開始された。
日本のラジオ放送最初の声は「あーあー聞こえますか、聞こえますか」
であったという。  
ラジオ放送の第一声「JOAK」が電波として出たのは
三月二十二日午前九時半であった。

昭和戦前の時代(昭和の子供)という歌があった。
昭和 昭和 昭和の子供よ僕たちは・・・・

この歌は良く歌われたが、私は替え歌を作った。

昭和 昭和 ラジオの子供よ僕たちは・・・・・

ラジオが家庭の生活すべてを支配する時代になって行く。
それはラジオの誕生から始まった。
私の育った昭和の戦前期は、家の中には毎日、
暮らしの音と響きが満ちあふれていた。
物心ついたとき、家の中には時計がチックタクと時を刻み、
ボーンボーンと振り子時計が鳴っていた。
時はゆったりと流れ時計は未来を呼ぶ音であった。

そしてラジオが聞こえていた。
今でもこの振り子時計とラジオを聞くと、戦前のちゃぶ台のある
我が家の居間が浮かび上がってくる。

昭和二年、我が家は東京市荏原郡大字小山字滝原に転居した。
関東大震災後、山手線の目黒から蒲田まで目蒲線が開通した、
目黒から二つ目の武蔵小山駅から線路沿いに歩いて五分、
急激に開けた新興住宅地。
まわりは空き地だらけ、目蒲線の線路から十メートルしか離れていない
二軒続きの長屋住宅。
電車の走る音と踏切の警笛が一日中家の中に飛び込んでくる。
それが我が家であった。

そんな中で昭和の子供の生活が始まる。
昭和戦前の我が家には、鴨居の上に神棚。
低い棚の上に仏壇。柱にかかる時計、タンスの上にはラッパのついた
ラジオが鎮座していた。
朝起きると神棚に手を合わせる、仏壇に灯明を付けてチンーと鐘を叩く
これが毎朝の仕事、ラジオのスイッチを入れる。
JOAKの声は頭の上から降ってきた。

当時のラジオはマイクロホンの性能が悪く、
アナウンサーの声は絶叫型と言われた。
ラジオの時報と番組が、我が家の暮らしを決めて行く。
朝は真っ先に家を飛び出して学校の校庭でのラジオ体操に参加する。
ラジオ体操の歌は最後のフレーズでは、
ラジオは叫ぶ 一、二、三。であった。
父親の出勤時間も、朝の食事も、夜の食事寝る時も
ラジオが決めていた。
              つづく


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長く生きるということ          まもる

2008年09月15日 08時33分24秒 | 文芸作品
孫が出来てから、生老死ということがよく頭をよぎる。
 孫の生老死とは全く無縁・無邪気に駆け回り、おしゃべりするその姿に癒されているが・・・・

 虚子は子福者あったが、四十歳の時四女六亡くしている。          そして、四十五歳で初孫を得ていて、五女晴子の長女防子は九人目。その防子が昭和十六年、疫痢で急逝。五歳だったと言う。呆然としている若い母晴子に付き添って、虚子は最後を看取った。
 そして晴子を呼んで「悲しいだろうが、これもさだめだ、召されたものは仕方がない。今度死ぬのはお父さんだ。お父さんがあちらへ行って防子の面倒は見てあげるから心配しないでおいで。」とひたすら慰めたそうだ。虚子六十七歳であった。
 その時の悲しみの句が残っている。

    防子追憶

 手を出せばすぐに引かれて秋の蝶
 汝が為に鋏むや庭の紅蜀葵
 白露の母の涙につゝまれて

最近は医学・医療の進歩で若者が先に逝くというのは少なくなった。
 しかし、世界に目をやれば多くの地域で貧困・災害・戦闘で逆縁も数知れない。
長く生きるということは、それだけ不幸や不条理を多く見るということだ。
 そんな人々の哀しみが少しでも減るように残りを生きたいものだ。
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日本サッカー急進の予感   文科系

2008年09月15日 02時06分34秒 | スポーツ
グラの1位抜け勝利に、友人からこんなメールが来た。
【 素晴らしい!昨日のガンバ戦、小川のローヘッドでの飛び込みTVでのダイジェスト版観戦でしたが胸ときめくゴール、勝利へのあくなき執念を感じました。今朝の中日でも小川選手曰く「大分の守りだけのサッカーでなく、攻めて面白いサッカーで勝ちたい」という言葉に感銘を受けました。さあ、これから2週間ACLでしばらくお休み、そうです28日の浦和との対決が楽しみです、彼らもテヘランで勝って上昇気分で来るか、それとも疲労困憊して瑞穂に来るか、いずれにせよ見逃せない素晴らしい舞台となってくれそうです。 】

これに対してこんなお返事を出した。
【 早速のメール嬉しいですねー! もう僕らのブログをお読みかも知れませんけど、昨夜0時過ぎにこの闘いをいち早く僕は投稿しました。題して「高度な1点で、グラが抜け出た!」です。
本当に高度な1得点でしたね。小川のダイビングヘッドも見事だったが、マギヌンのクロスが良かった。あれは0・5点以上のアシストというやつね。でもまた、あそこにいた小川も偉い! 詳細はブログで確認してください。
さて、浦和には勝ちますよ。ナビスコでグラとやり、昨日浦和とやった大分が誰よりもグラの手ごわさを感じているはず。「崩してチャンス」が、グラのが多かったから。観戦が楽しみです。誘ってくれてとにかくありがとう。こんなに良い局面になるとはなー!
それにしても大分は強い。大分に触れた2回ほどのブログ投稿で僕は「俄然優勝候補!」と書きましたよ。守備ばかりに目が行きますが、そしてそんなに攻めないのですが、攻めれば大変鋭い。1、2点とれば勝つんですから、しょっちゅう攻めなくても良いんですね。まるでイタリアみたい。金崎19歳、森重21歳ですよ。こういうチームが現れると、リーグ全体が急に変わります。適応が遅れたシニセは取り残される。ベルディ・カシマの時代、磐田の時代、ガンバ・浦和の時代と来て、次は大分・名古屋、それとも清水? 清水は連勝していくような気がします。苦手な守備も手直ししてくるでしょうし。「大分の守備を破るチームが出れば、日本苦手の点取りも進む」ってね。そしたらヨーロッパにも追いつきます。それが、名古屋なのか、清水なのか? 楽しみになってきました。】

そう、上の末尾に書いたように、日本のサッカーが急変、急進するという予感がする。たいした根拠もない夢のような話なのだが、とにかく書いてみよう。

奇しくも同じ1965年生まれの3人の若い才能溢れた監督がシノギをけずって競い合いつつ、リーグ全体を引っ張っていく。大分の守備の凄さ。現下清水の点取り術の急進。特に岡崎が間もなく、かっていなかった日本人FWに育っていくように思う。タイプとしては中山雅史、その最新版のような。そして、監督初体験1年目のピクシーがこれだけ原則的かつ的確な指導ができ、成果を上げえていること。鹿島はともかく、浦和、ガンバはこの流れに付いていけないのではないか。
急進の予感方向はこんなものだ。まず近い将来、大分から少しずつ今よりも得点を取るチームが現れてくる。今のように90分間攻め続けるのではなく、ここぞというときの集団攻撃の鋭さで。そのチームはもちろん、大分の攻守を徹底的に分析して大分のように守備も強化しつつのことであろう。もちろんこういう鋭い攻撃にはかって日本にいなかったような立役者が必要だ。清水では岡崎、枝村、藤本、矢島、グラでは小川、巻、阿部、玉田、マギヌンらがそのように育っていくのだろうか。攻撃内容としては「アジリティー集団でゴールに殺到して、多彩なシュート。特にこぼれだま狙いを全員が意識して」と、そんな感じか。

こんな「夢」を描くのも自由だし、楽しいことである。
とにかく、大分やグラのようなチームが、しかも若い監督に率いられて現れた以上、何か大きな変化がJリーグに起こっていくと思うのだ。川崎もこの流れに遅れないチームかもしれない。
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