★いまさら手遅れという感じはあるのですが、それでも周りの人に聞くと、ほとんどが「裁判員制度は、何故、導入されたの?」といいます。
画期的な司法制度の改革と喧伝されていますが、国民にとって知らずに進行するほど怖いことはありません。今からでも遅くないので意義も、問題点も知るべきだと思います。そこで今回は「何故、導入されたの?」について前回の「裁判員制度を考える会}のHPから紹介したいと思います。
http://www.ac.auone-net.jp/~inolaw/saibannin-mondai.html
(まもる)
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「裁判員制度は、何故、導入されたの? 冤罪防止が目的?」
裁判員制度は、99年6月に内閣に司法制度改革審議会が設置され、司法制度全般にわたる議論がなされましたが、01年6月には意見書という形で内閣に提出されました。そこで初めて裁判員制度が提言されました。
そこでの導入目的を引用すると次のようになります。
「国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。国民主権に基づく統治構造の一翼を担う司法の分野においても、国民が、自律性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について、多様な形で参加することが期待される。国民が法曹とともに司法の運営に広く関与するようになれば、司法と国民との接地面が太く広くなり、司法に対する国民の理解が進み、司法ないし裁判の過程が国民に分かりやすくなる。その結果、司法の国民的基盤はより強固なものとして確立されることになる。」(101ページ)
司法審意見書原文 http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/report-dex.html
他方で、最高裁のホームページによれば、その目的は以下のように掲載されています。
「これまでの裁判は,検察官や弁護士,裁判官という法律の専門家が中心となって行われてきました。丁寧で慎重な検討がされ,またその結果詳しい判決が書かれることによって高い評価を受けてきたと思っています。
しかし,その反面,専門的な正確さを重視する余り審理や判決が国民にとって理解しにくいものであったり,一部の事件とはいえ,審理に長期間を要する事件があったりして,そのため,刑事裁判は近寄りがたいという印象を与えてきた面もあったと考えられます。また,現在,多くの国では刑事裁判に直接国民が関わる制度が設けられており,国民の司法への理解を深める上で大きな役割を果たしています。
そこで,この度の司法制度改革の中で,国民の司法参加の制度の導入が検討され,裁判官と国民から選ばれた裁判員が,それぞれの知識経験を生かしつつ一緒に判断すること(これを「裁判員と裁判官の協働」と呼んでいます。)により,より国民の理解しやすい裁判を実現することができるとの考えのもとに裁判員制度が提案されたのです。」http://www.saibanin.courts.go.jp/qa/c1_1.html(最高裁ホームページ)
要するに、これまで刑事裁判には、何も問題はなかったが、国民にとってわかりにくかった、長期裁判になっていた、というだけのものです。これは制度が導入されたがために、とってつけた根拠にすぎません。
司法審意見書では、あからさまに「国民は、国に依存するな、公共的精神を身につけろ。」と言っています。
もともと、司法審が裁判員制度を提言したのは、全くの思いつきでした。陪審制度導入を主張する中坊氏らとそれに反対する最高裁の議論の中で突如として出てきたのが「裁判員制度」でした。改革を提言するための司法審として、「大改革」を提言することに存在意義があると思い込んでいるような思いつきの改革案です。
結局、このような思いつきのまま制度が導入されてしまったもので、04年3月には、裁判員法案が国会に提出されましたが、わずか3ヶ月弱の超スピード審理で6月に可決、成立しています。何と全会一致で成立しているのです。
はっきりいって、多くの国会議員は、ほとんど内容を理解しているとはいえません。実施時期になって、「裁判員制度を見直す議員連盟」が広がっているのも、そのような事情があります。
裁判員制度の背景としては、司法審意見書にあるように「国民統合の役割」が上げられています。これは国民を統治機構に組み込むことによって、統治する側の意識を持たせるというものです。そして、その責任を負わせるということです。
これは、実は民主主義の思想とは全く相容れないものなのです。国民主権のもとで、国政に参与することは権利であれ義務ではありません。またそれは投票での意思表明であったり、表現の自由を駆使した権力批判です。しかし、裁判員制度は、内部に取り込むことによって責任を果たせと言っているものであり、発想は全く逆であり、むしろファシズム思想に基づくものなのです。多くの国会議員は不勉強であったためにすんなり可決成立しましたが、その方向性はきな臭いものと言わざるを得ません。
ところで、日弁連などから、裁判員制度の目的を、冤罪の防止だという主張があります。しかし、国会の審議ですら冤罪防止なる議論は出てきていません。また、制度設計上も冤罪防止を実現するためのものにはなっていません。この裁判員制度を冤罪防止のための制度と位置づけるのは無理があるどころか、国民を動員するために欺すようなものです。
08年8月には、社民党、共産党が相次いで裁判員制度の実施の延期を求めていますが、ようやくこの制度の恐ろしさが浸透してきたのだと思います。
他には、国民新党、新党日本、新党大地もこの裁判員制度に疑問を示しています。民主党、自民党の中にも疑問が広がっています。
これまで野党が賛成していた背景には、日本弁護士連合会(日弁連)が、裁判員制度を積極的に推進していることが大きいといえます。
★次回は 何故、日弁連が裁判員制度を推進するのか?
画期的な司法制度の改革と喧伝されていますが、国民にとって知らずに進行するほど怖いことはありません。今からでも遅くないので意義も、問題点も知るべきだと思います。そこで今回は「何故、導入されたの?」について前回の「裁判員制度を考える会}のHPから紹介したいと思います。
http://www.ac.auone-net.jp/~inolaw/saibannin-mondai.html
(まもる)
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「裁判員制度は、何故、導入されたの? 冤罪防止が目的?」
裁判員制度は、99年6月に内閣に司法制度改革審議会が設置され、司法制度全般にわたる議論がなされましたが、01年6月には意見書という形で内閣に提出されました。そこで初めて裁判員制度が提言されました。
そこでの導入目的を引用すると次のようになります。
「国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。国民主権に基づく統治構造の一翼を担う司法の分野においても、国民が、自律性と責任感を持ちつつ、広くその運用全般について、多様な形で参加することが期待される。国民が法曹とともに司法の運営に広く関与するようになれば、司法と国民との接地面が太く広くなり、司法に対する国民の理解が進み、司法ないし裁判の過程が国民に分かりやすくなる。その結果、司法の国民的基盤はより強固なものとして確立されることになる。」(101ページ)
司法審意見書原文 http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/report-dex.html
他方で、最高裁のホームページによれば、その目的は以下のように掲載されています。
「これまでの裁判は,検察官や弁護士,裁判官という法律の専門家が中心となって行われてきました。丁寧で慎重な検討がされ,またその結果詳しい判決が書かれることによって高い評価を受けてきたと思っています。
しかし,その反面,専門的な正確さを重視する余り審理や判決が国民にとって理解しにくいものであったり,一部の事件とはいえ,審理に長期間を要する事件があったりして,そのため,刑事裁判は近寄りがたいという印象を与えてきた面もあったと考えられます。また,現在,多くの国では刑事裁判に直接国民が関わる制度が設けられており,国民の司法への理解を深める上で大きな役割を果たしています。
そこで,この度の司法制度改革の中で,国民の司法参加の制度の導入が検討され,裁判官と国民から選ばれた裁判員が,それぞれの知識経験を生かしつつ一緒に判断すること(これを「裁判員と裁判官の協働」と呼んでいます。)により,より国民の理解しやすい裁判を実現することができるとの考えのもとに裁判員制度が提案されたのです。」http://www.saibanin.courts.go.jp/qa/c1_1.html(最高裁ホームページ)
要するに、これまで刑事裁判には、何も問題はなかったが、国民にとってわかりにくかった、長期裁判になっていた、というだけのものです。これは制度が導入されたがために、とってつけた根拠にすぎません。
司法審意見書では、あからさまに「国民は、国に依存するな、公共的精神を身につけろ。」と言っています。
もともと、司法審が裁判員制度を提言したのは、全くの思いつきでした。陪審制度導入を主張する中坊氏らとそれに反対する最高裁の議論の中で突如として出てきたのが「裁判員制度」でした。改革を提言するための司法審として、「大改革」を提言することに存在意義があると思い込んでいるような思いつきの改革案です。
結局、このような思いつきのまま制度が導入されてしまったもので、04年3月には、裁判員法案が国会に提出されましたが、わずか3ヶ月弱の超スピード審理で6月に可決、成立しています。何と全会一致で成立しているのです。
はっきりいって、多くの国会議員は、ほとんど内容を理解しているとはいえません。実施時期になって、「裁判員制度を見直す議員連盟」が広がっているのも、そのような事情があります。
裁判員制度の背景としては、司法審意見書にあるように「国民統合の役割」が上げられています。これは国民を統治機構に組み込むことによって、統治する側の意識を持たせるというものです。そして、その責任を負わせるということです。
これは、実は民主主義の思想とは全く相容れないものなのです。国民主権のもとで、国政に参与することは権利であれ義務ではありません。またそれは投票での意思表明であったり、表現の自由を駆使した権力批判です。しかし、裁判員制度は、内部に取り込むことによって責任を果たせと言っているものであり、発想は全く逆であり、むしろファシズム思想に基づくものなのです。多くの国会議員は不勉強であったためにすんなり可決成立しましたが、その方向性はきな臭いものと言わざるを得ません。
ところで、日弁連などから、裁判員制度の目的を、冤罪の防止だという主張があります。しかし、国会の審議ですら冤罪防止なる議論は出てきていません。また、制度設計上も冤罪防止を実現するためのものにはなっていません。この裁判員制度を冤罪防止のための制度と位置づけるのは無理があるどころか、国民を動員するために欺すようなものです。
08年8月には、社民党、共産党が相次いで裁判員制度の実施の延期を求めていますが、ようやくこの制度の恐ろしさが浸透してきたのだと思います。
他には、国民新党、新党日本、新党大地もこの裁判員制度に疑問を示しています。民主党、自民党の中にも疑問が広がっています。
これまで野党が賛成していた背景には、日本弁護士連合会(日弁連)が、裁判員制度を積極的に推進していることが大きいといえます。
★次回は 何故、日弁連が裁判員制度を推進するのか?
①日本は犯罪が少なく、「世界で最も安全な国」と世界から見られてきました。陸地に国境がなく閉鎖的な、単一性、倫理性が強い国ということも関わっていると思いますし、短期間に比較的豊かな国になったということも関わっていると思います。
それが最近怪しくなった。国際化も進んできているし、格差が激しくなったりして、この単一性が急速に崩れ、さらにこの崩れが加速するということでしょう。
②他方日本は、アメリカとともに死刑制度を死守している先進国では数少ない国です。
ということは、今後急増すると予想される凶悪犯罪防止のために死刑を増やしていこうと、国家が考えているのだと、僕は思います。
最近、死刑の執行数もどんどん増やしていますし、「犯罪被害者の感情」などを大々的に世論化しようとの動きも感じます。
こういう動向に対しては、先進国などからの国際的な日本国家批判が予想されると法務省などは考えていると思います。
③この「国家の残酷性批判」を避けるために国家が考え出したのが裁判員制度なのではないでしょうか。「国家ではなく、国民が死刑を望んでいるのだ」という体裁を取っていくということだと思うのです。
国民に死刑への主体的抵抗力も少ない国ですから、法務省・検察が死刑増に向けて国民を御しやすいとも考えていることでしょう。宗教的生活が最も少ない国民だということなどが、これに関連してくると思うのです。
僕は以上のような「狙い」を見ています。これへの評価は今回はしません。
この「狙い」の当否や、それへの皆さんの評価を聞きたいと思います。
僕の結論を初めに書きますが、死刑はやはり廃止すべきです。
国家のよって立つ基盤は、個々の国民です。国民の上に国家が立つような国は全体主義的で、間違いなく悪い国でしょう。次に、その国民諸個人において最も大切なものは、その命ですね。
さて、こうして、国家が個人の命を奪うというのはそれ自体が自己矛盾のような例外的現象でなければならないわけです。殺人者が死刑になるときも、殺された人の縁者が報復をするという性格のものではありません。「社会の安寧のためにやむをえず」、国家の名で死刑執行がなされるという性格のもののわけです。
今回の措置はこうして、こういう国家として常に痛みをもつべきであるものを、国民諸個人に押しつけたという性格があるのではないでしょうか。どんどん増やしていく死刑を国民に押しつけても、死刑をするのは国家だということは忘れてはならないと思います。そして、その国家の痛みを減らし、見えなくするような措置なのだ。
①国家に国民、人間を殺させるのは絶対的に悪いことだと思います。
②「罪を憎んで人を憎まず」といいますが、そういう罪を犯すことが少なくなるような社会を作ることこそ、国家の本来の責任だとも言いたいと思います。
③こうして、犯罪が増えるような社会を作っておいて、「じゃんじゃん死刑にしてしまえ」というのは僕には全体主義的な臭いばかりが漂って来てなりません。
④「犯罪被害者の感情」についても、こんな側面がなぜ話題にならないのでしょうか。子供を殺された親がこのごろのマスコミの流行のように「極刑を望む」と語るとき、この殺人者にも親や子がいて「自分と同じ悲しみがもう一つ生まれる」ということです。自分が悲しければ悲しいほど、この悲しみをもう一つ作るという側面がなぜ問題にならないのでしょうか。こういうことが分かることこそ「人間」というものだと僕は思うのですが。
「人の命が重いからこそ、極刑で償え」と「人の命が重いからこそ、死刑はやめよう」と、僕は後者の立場だということです。