このブログ、9条をテーマに生まれたもの。
いよいよ9条が俎上に。
私は9条をそのままに、変更しないようにと考えていますが、
世の中、変えても良いじゃない、いや変えるべし、という声が大きい。
極東の政治状況も9条を変える方向に風が吹いている。
それでも変えないという考えは、説得力があるのだろうか?
いよいよ9条が俎上に。
私は9条をそのままに、変更しないようにと考えていますが、
世の中、変えても良いじゃない、いや変えるべし、という声が大きい。
極東の政治状況も9条を変える方向に風が吹いている。
それでも変えないという考えは、説得力があるのだろうか?
先日、反原発を争点にしようとして、同じ穴に落ちました。
九条があっても、世界屈指の軍隊を持っている国です。
戦争だって、できるでしょう。
敢て、そこを争点にする、どんな理由があるのでしょう?
このどちらも、硬直しているとは思いませんか。
そうではない言葉の正しい意味での討議をしたいと…。
これに対して、護憲派はやはり何も言わないに等しいワンフレーズしか返さなかったのではないか、との思いの上での発言です。
「攻めてこられたらどうする」という詰問の背景にあるのは、憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」があると思うのです。「信頼して」という受け身(性善説)なのです。これに護憲派はどう答えるか。
一方、今アメリカでは「銃規制」が再び俎上にあがっています。
これに対して、先ほど見たテレビでは共和党議員が、「校長もライフルで立ち向かえばよかったのだ」と銃規制に反対していましたが、9条廃止論者はこれをどう考えますか。
敵が攻めてきたら、というお話も、
どこの国が、どうしてせめてくるのか?
を明確にしないと対応も難しいでしょう。
敵は、どこで何故せめてくるのか?
9条改憲論は、この点があいまいでは?
まあ現状で考えれば尖閣諸島を舞台にした中国との武力衝突だろう。或いは韓国に実行支配された竹島の奪回武力衝突。
なんだが、これは何も憲法改正しなくてもやろうと思えば可能と考える。要はそこまでやるかやらないかだろう。
おそらく、安部新総理の頭にあるのは集団的自衛権だからこれを行使可能にするのは中々一筋縄ではいかないな。
先ず国会で3分2は自民、維新、みんなの党でいけるがその次の国民投票の3分2は相当ハードル高いね。今回の選挙で自民に投票した人間は景気回復や仲間割れのぐだぐだに懲りた人が少なからずいるわけで、戦争上等迄了解済で投票した訳ではない。しかし、選挙という形ではなくこうしたワンイシューを国民投票で決めるのはいいと思う。コロコロ政権が変わるよりはね。少しじっくり経済を立て直して欲しいんで。
他にも、日本をせめて世界経済をがたがたにするのは自分もがたがたになると知っているはずだ。これほど世界が緊密に結びついたときは、大きな戦争など決して起こせない。特に日本を全面的に巻き込むようなそれは。
むしろ心配はこのこと。嘘の理由でイラク戦争を始めたアメリカや、日本の慎太郎みたいなプライドの高い国粋主義の輩。アメリカはもう、斜陽がはっきりした軍事経済大国だから局地戦争を起こしたくて仕方ないはず。日本が今憲法改正などしたら、こう言い出しかねないと思う。「自分の片棒を担げ」とか、「我が国に輸出する以上それが義務だろう」とか。日本の局地戦争なら、アメリカは起こしたくて仕方ないだろう。この不景気に大量の武器が売れるのだから。
無意識の社会ダーゥイニストは、「争いは絶えず、人間も同じ」と感覚的に決め込んでいるから、むしろ逆に個々の国のことを見ていないのではないか。その必要さえないと思っているのかも知れない。
戦争も他の思考と同じ事がいえるが、目前のことと中長期的なこととを区別して考えられる人が少なくなったと思う。会社でも中長期計画が弱い所はすぐにつぶれる。その意味では、この超格差・グローバリズム時代を見ている目だけでは、本質的思考にはならないと思う。いつも言うことだが、人類は打製石器だけで数百万年。磨製石器が発明されて今までは5万年にもならぬ。急激な変化は人間にとって簡単に創れるが、微々たる変化を長期間かかって与え確実なものを創るような思考が人間にとってそれほどむつかしいということだろう。世の中に迎合したい輩ばかりだとそういう思考は生まれにくいから、それが怖いとは思っている。
『中日』12/18付に中村桂子氏が、「人の心には戦争を引き起す性質があり、それは取り除けそうもない」というアインシュタインとフロイトが交わした書簡を紹介しています。
思うにこうした論は、最初の人類化石の発見者であるレイモンド・ダールによって提唱された「戦いが人類を進化させた原動力」論に多分に依拠しているところあると思うのですが、
『毎日』12/16付の山極寿一氏(京大教授)によれば、
「ところがダートが主張した化石の頭骨についた傷は、人類によるものではなく豹に殺された傷だと判明した。人間が人間に武器を向けたのは約1万年前に農耕が始まってからの出来事で戦争が人間の本性などととても言えない」。
日本住宅バブルと、それを見習ったサブプライムバブルとの破裂以降の今も、100年に一度の世界大恐慌時代だということは忘れてはならぬと思う。20世紀前半と違って銀行取り付け騒ぎにならぬのは、国家による救済があり、主要国家が紙幣の出し入れにも長じてきたからだと思う。でも、20世紀前半の恐慌と本質的には同じ事で、有効需要がないから不景気なのだ。日本など過去20年名目成長率さえ伸びていないと言われてきた。今の1000兆の国家累積赤字だって、「景気対策」と称してダムや箱物を自治体ぐるみで無制限に創らせてきたその果てのことだ。また、資本をマネーゲームに投ずること中心の景気など、失業者や派遣労働者などには何の恩恵もないから、一般消費がますます減っていることも忘れてはならぬと思う。上が潤えば下にも金が回るというのは、ほんの一部のサービス業のこと。
こうして、結局どん詰まりの世界状況であることもやはり忘れてはならないと思う。簡単に景気が上げられるようなことを言うが、それは幻想に近いはずだ。例えば、アメリカから世界のすべての軍隊を集めたよりも遙かに大きな軍隊と軍事産業を除いたら、世界景気などと言っておれるかどうか。つまり、もうすでに、過去のドイツのように不自然な軍事超大国が存在しているのである。
戦争を起こしたくて、人殺しをしたくて、戦争始めるような指導者は大国にはもう出ないと思う。人が一応平等になって、すべての命が平等に大切となってきたのだし。それよりも、人間疎外社会からそれが起こると、上はそういう説明のつもりだ。マルクスもケインズもそう言っていたはずである。アメリカの経済学者たちは、あんな不自然な軍事大国家へと、産軍政複合体によって動かされてきていて、異議を唱えないのが不思議でならない。マルクスやケインズのような倫理的発想が欠如しているとしか僕には思えない。今の時代、体制順応の、世に迎合したい人物ばかりなのだろうか。生きていくのにもやっとの時代には、皆がそうなりやすいことも事実であろうが。
僕が書くと、盛り上がるねW