
イスラエル軍による12月27日以来の空爆と1月3日以降の地上侵攻で、1月6日現在、パレスチナ自治区ガザ(人口150万人)で550人以上の死者、2500人以上の負傷者が出ている。これに対し、年末から年始にかけて、中東・ヨーロッパ・アジア・アメリカなど全世界で約100万人の労働者・学生・市民がイスラエル弾劾とガザ連帯の集会・デモ行動に決起している。この数はこの数年間で最大だ。さらにきわめて重要なことは、イスラエル国内でパレスチナ人とユダヤ人がともに手を組んで決起し始めていることだ。とくに1月3日、地中海に面する大都市テルアビブで1万5000人が参加したデモが闘われた。また同日、パレスチナ人の多い北の都市サクニンで10万人以上が参加した巨大なデモが闘われた。
しかもテルアビブの闘いでイニシアティブを握ったのは急進的な左派統一戦線で、「ユダヤ人とアラブ人は敵同士であることをやめよう!」「ユダヤ人とアラブ人は人種差別・民族差別に対して闘おう!」「平和なくして安全なし。資本の支配を解体しよう!」といったスローガンが多数掲げられた。サクニンではパレスチナの旗と黒の半旗のみが掲げられたという。
今回のイスラエルの攻撃はアメリカの全面支援を受けたものだ。イスラエルは06年のレバノン侵攻時のように、空爆から地上戦へという作戦をとっているが、これは地上戦での重大な敗北に転化する可能性がきわめて高い。すでに、ガザのパレスチナ人は多大の犠牲を出しながら英雄的な闘いに決起しており、イスラエル軍は各所で大きな被害を出しはじめている。この中で、これまで国内的危機をパレスチナ・アラブにたいする永続的侵略戦争でのりきってきたイスラエルの反革命政権が今回、国内での労働者階級による反乱の開始という決定的危機に直面している。また、イスラエルを全面支援するアメリカ帝国主義自体が、イラク・アフガニスタンにおける泥沼的な軍事的敗勢、世界恐慌による経済的・政治的・社会的危機の深まり、そして国内階級闘争の高揚によって絶望的危機に陥っている。今回のイスラエルのガザ侵攻が、イスラエルとアメリカの命取りに急速に発展していく可能性はきわめて高い。しかしデモに参加して逮捕され、裁判にかけられた人々も多い。
★写真はテルアビブのデモ
しかもテルアビブの闘いでイニシアティブを握ったのは急進的な左派統一戦線で、「ユダヤ人とアラブ人は敵同士であることをやめよう!」「ユダヤ人とアラブ人は人種差別・民族差別に対して闘おう!」「平和なくして安全なし。資本の支配を解体しよう!」といったスローガンが多数掲げられた。サクニンではパレスチナの旗と黒の半旗のみが掲げられたという。
今回のイスラエルの攻撃はアメリカの全面支援を受けたものだ。イスラエルは06年のレバノン侵攻時のように、空爆から地上戦へという作戦をとっているが、これは地上戦での重大な敗北に転化する可能性がきわめて高い。すでに、ガザのパレスチナ人は多大の犠牲を出しながら英雄的な闘いに決起しており、イスラエル軍は各所で大きな被害を出しはじめている。この中で、これまで国内的危機をパレスチナ・アラブにたいする永続的侵略戦争でのりきってきたイスラエルの反革命政権が今回、国内での労働者階級による反乱の開始という決定的危機に直面している。また、イスラエルを全面支援するアメリカ帝国主義自体が、イラク・アフガニスタンにおける泥沼的な軍事的敗勢、世界恐慌による経済的・政治的・社会的危機の深まり、そして国内階級闘争の高揚によって絶望的危機に陥っている。今回のイスラエルのガザ侵攻が、イスラエルとアメリカの命取りに急速に発展していく可能性はきわめて高い。しかしデモに参加して逮捕され、裁判にかけられた人々も多い。
★写真はテルアビブのデモ
虐げられた民族。
それが立場が替わって
加害者に転化していく。
まだ被害者だった記憶が消えても
いないのに。
平和的な解決が普遍的にものになるのは
遠い先ですね。
さて、イスラエル=ユダヤの人々の「暴走=力の信奉」についてですが、彼らは力のなさ故に虐殺=ナチスの蛮行に対抗できなかったことを悔いているのではないでしょうか?(これはひとつの仮説ですが……他の媒体[雑誌]に投稿するかもしれません) ナチス(ヒトラー)を止めるには、武力以外に手はなかったのではありませんか? そんなドイツやイタリアと同盟するしかなかったところに日本の悲劇はあったと思います。しかし想像してください。あの当時(よく日本はインドや中国と友好を結ぶべきだったという話もありますが、その道は今より遥かに酷い未来につながっていたのでは、と思います。当然憲法九条も存在しないでしょうしね)、日本が戦争をしなかったなら、アジアは、世界はどういう道を辿ったのかを。
あの戦争に賛成する者では全くないが、もし太平洋戦争がなかったら多分まだ、こんなふうだった。
まず、絶対主義的天皇制のもとにあるだろう。米軍でも残した天皇制はなおさら根強く、もとのままの形で残っているはずですからね。なにしろ、神様なのだから。
主権は天皇にあり、大臣や議会は国民に責任を負うのではなくって、まず天皇に責任を負うという政治でね。悪い奴らがこの天皇制を賢く利用して私利も図っているだろううしね。
女性に参政権がなく、その権利一般がない女性に「七去三従」(辞書で調べてください)があるし。
長男だけが特別扱いされる家父長制だし。
村の顔役は今の何倍も威張っているだろうし。
軍人が幅をきかせている。
こうして、先進国ではあるが政治的には最も遅れた国であるとかね。なにしろ国民主権がないのだから。
(七去三従は勉強になりましたが、儒教なら中韓のほうが影響が大きいのでは?)
2009年になってもそんな状態ならどう考えても「戦争して、負けた」ほうがよいのではないでしょうか。
Aと反Aとがあったら、このふたつのどちらかしか現実に存在しないというやり方が、形式論理というのです。だけども現実には、合従連衡も妥協や譲歩も、「敵の敵は味方(と、やむなくしよう)」もいっぱいあります。
現社長体制Aには反対である。それを倒そうとするB常務一派にも賛成できない。けれど、B一派がある条件を出してきたので賛成してC体制作りに協力した。今、C体制はAに比べれば遙かに良いと思っている。こういう場合に、あなたの論理はこういうことになる。Cに賛成したのだから、あなたはBに「全面的賛成」としたことになるのであると。
ニヒリズムでもなく相対主義でもないつもりですが、(我ながら)そうも見えてしまいますかねえ。
ご応答ありがとう。
この問いそのものがおかしいというか、下らないというか、どうでもいいというか、まーそんなものだと思います。
「戦争がなければ九条もなかったのでは?」
対して、だからどうだというのですか?というわけ。
「9条賛成。が、あの戦争には大反対」と語って悪いのか、とね。これを悪いというのが、質問のための質間であって、形式論理だというのです。
歴史的な後先の問題と、善悪の問題とをごっちゃにしてはいけません。あの戦争は9条の数ある親の一つとは見るべきでしょう。が、歴史的な後先での子を良いとみても、親の一つが全く悪いもんだと言うなどは、当然可能ですよね。
まぁ、私は九条に関してはある意味では楽観視というか悟っているわけですが……戦争は相手があって起こるものです。日本がいくら大人しく?(=ナチスドイツに対する英仏の初期反応のように?)していても「イザ」という時は九条など……。