第四章で、山田昌弘の『パラサイト・シングルの時代』に沿って、親と同居しているリッチなOLが「被差別者の自由」を享受することができることを記した。ここでも、山田の記述を引用したい。山田が主に想定しているのは、地方出身の親を持つ、大都市圏の未婚女性である。山田が指摘するように、近年の女性の初婚年齢の上昇とパラサイト・シングルの増大とは無関係ではないと思われる。パラサイト・シングルの女性にとって、親の経済的利用価値が高ければ高いほど、結婚前の生活の満足度が高く、結婚は生活水準を下げることを意味するのである。日本では男性も女性も、親と同居可能ならば同居する。進学や仕事の都合で、親とは一緒に住めない場合に限り別居する。これは、「親と別居する理由がない限り別居しない」という日本独特のパターンである。アメリカなど欧米諸国では、成人したら「同居する特別の理由がない限り、別居する」のが原則である。似たような表現だが、この原則の差は、非常に大きい。[i] このような差が、先に紹介した渡辺えりこのエッセイの中にあるように、日本では、自分のことだけを思い、自分のために働くことのできることを可能にしているのである。パラサイト・シングルの女性は、家事を行う時間も格段に少なく、“上げ膳下げ膳”の人が多い。[ii] 基本的な生活コストを負担することなく、親に依存しながら生活する「いいとこ取り」の状態は非常に楽である。楽だから社会人となっても、親元を離れることなく、お給料は全部お小遣いという生活を平然としている。
戦後から経済の高度成長期にかけて、若者の生活水準を決めるものは、男性の場合は、親の経済力から、自分の経済力へと移行した。高卒後、一人暮らしをする人が多く、また、親の経済力もまだまだ低かったからである。日本では、若いうちの収入にそれほどの格差はつかないから、実質的に高度成長期の若者の生活格差は大きくなく、また、結婚しても、その生活水準に大きな変化はなかった。女性の場合は、高度成長期は、平均初婚年齢が低かったため(平均24歳強)、短い未婚時代の後は、結婚相手意の収入に生活水準が左右されるという状況だった。但し、結婚相手の収入は多くなく、収入格差は若いうちは小さいから、だいたいどの相手と結婚しても、結婚当初は、余り豊かな生活は送れなかった。そういう意味で、平等的だったといえる。高度成長期の若者は、生活水準の格差があまりなく、少々の格差は、「(男性の)能力」の違いとして意識できたのではないか。機会の均等やそれに基づくメリットクラシー(能力主義と訳されたりする。自分の能力によって社会的地位が決まるという理念)を信じやすい環境にあったと考えられる。それは、生活水準が低かったこと、社会が成長期にあった(豊かになりつつあった)こと、年功序列賃金制度の定着期であり、男性の賃金の上昇が期待できたという条件によっている。つまり、今は生活水準が低くても、努力(男性は仕事、女性は家事育児)しさえすれば、豊かな生活が約束されるという希望があったのである。そして、その希望は、多くの若者にとっては現実のものとなった。
しかし、日本が豊かな社会になるに及んで、パラサイト・シングルが増大する。そして、親の経済的利用可能性によって若者の生活水準が上下するという状況が生じてくる。自分の収入格差がほとんどない中、親の経済的利用性が高い若者は、豊かな生活を享受し、そうでない若者は、あくせく生活に追われるという格差が生じ始めている。つまり、生活水準が自分の努力では決まらず、自分がどの親(経済力、住居のある場所)のもとに、どのような条件(きょうだい数、家の広さなど)で生まれたかによって決まってしまう社会ができてきたのだ。これは、未婚の若者に関しては、メリットクラシーが実質上崩壊し、「生まれ」が生活水準を決めてしまうという社会が復活しつつあることを意味する。メリットクラシーを建前とする社会の中で、事実上の階層化が進行している。親の援助でリッチに暮らせるパラサイト・シングルと非パラサイト・シングル(一人暮らしなどで親の援助を期待できない層)に、若者の二極化が進行しているのが、現代日本の若者の姿なのだ。
メリットクラシーの崩壊が、若者の社会意識に与える効果は、大きいものがある。自分の努力によらずに豊かな層は、生活にあくせくしなくてもよいと思い、逆に、親に依存することができないあまり豊かでない層は、生活に追われ、努力しても仕方がないと思い始める。「努力しても、しなくても、所詮同じだ」、「依存できれば依存した方がよい」、「なら今を楽しんでしまえ」と考える人が多くなってもおかしくない。パラサイト・シングルだって努力しないわけではない、苦労がないわけではないと反論するかもしれない。さらだたまこ氏の『パラサイト・シングル』(メディアワークス刊、1998年12月刊)の中には、仕事に趣味に社会活動にと努力しているパラサイト・シングルがたくさん出てくる。しかし、その力の入れ方が問題なのである。山田は、パラサイト・シングルの「承認欲求」と有閑階級のもつ「承認欲求」との類似を指摘する。引き続きみていこう。
パラサイト・シングルが求めるものは何であろうか。それは、パラサイト・シングルは、基本的な生活の心配をする必要がないというところから、導き出される。それは、経済学者ヴェブレンが、約100年も前に「有閑階級の理論」で明らかにしたように、「他者からよく思われること」である。またに、近年のパラサイト・シングルは、ヴェブレンのいう有閑階級の正嫡なのである(ソースティ・ヴェブレン『有閑階級の理論』高哲男訳、ちくま学芸文庫)。生活のために働く必要がない有閑階級がもつ欲望は、「承認欲求」である。それが、消費に向かえば「顕示的消費」となり、労働に向かえば「承認のための労働」、もしくは「趣味的労働」となる。パラサイト・シングルは生活のための消費を行わず、ブランドものなど「高級品志向」が強い。その理由は、他人によく思われたいからである。自分がどれだけ流行に敏感であるか、センスがよいかということを他人に示すために、情報を集め、高級品にお金を使う。いわゆる自己満足というのも、内面化した他者の視線を通して、自分を評価して満足するものである。とにかく、他者の視線に敏感なのが、パラサイト・シングルなのである。
また、労働観にも影響を与える。お金のためではなく、「自分の好きな仕事」にこだわるというのは、一見、いいことのように思えるが、哲学者の今村仁司が明らかにしたように、「やりがいがある仕事」とは、実は、「他人からよく思われる仕事」である。総務庁実施の世界青年意識調査(1997年)においても、日本の若者は、「収入のために」働くという意識は、先進国の中では最低である(図5-3)。欧米諸国の若者は、とにかく、働かなくては生活できない。日本の若者はパラサイトしていて、生活のために働く必要がないから、「仕事を通して自分を生かすこと」を求める人が多くなるのである。
それが、やりがいのある仕事を求めて、というよりも、本当の理由は、嫌な仕事は避けて、自分が気に入って、プライドの持てる(他人がうらやましがるような)仕事を探す。これはまさに、一昔前なら所有する財産で暮らせる貴族か有閑階級の労働意識なのである。[iii] 先に記したような20代の葛藤の時期に、パラサイト・シングルは、子供時代のように、親の経済力に完全に依存しているわけではない。かといって、自分の収入のみで独立して生活をおくっているわけでもない。この半依存、半独立状態では、あくせく働く必要はない。こうした立場で、嫌な仕事は避けて、自分が気に入って、プライドの持てる仕事を探す、好きな仕事ならやる、というのは、労働が「趣味化」していることを意味する。パラサイト・シングルが仕事に「自己実現」を求めるのは、豊かな生活を他人に保障してもらったうえでの労働観であるといえる。今村仁司は、今や他人からの評価が労働の動機になっていることを、次のように説明している。
労働する者は労働と企ての「成功」ないし「成就」を承認欲望の充足のために使用しなくてはならない。しかし成功も成就も自分でそのように評価するのでは十分ではない。他人から評価されてはじめて、労働の結果は、成功か否かが確定する。このように、労働の結果は、他人による評価の素材になるが、素材以上のものではない。商品は素材的要素をもっていても、商品の社会的評価つまり交換価値がすべてである。それと同様に、労働と企てが成功であったかどうかの意味での「価値」は、労働の素材的要素にあるのではなくて、労働の「社会的評価」にある。他人の評価によってだけ労働は運動する.労働の現場において原料の知識に精通しているとか、精算手段の科学的技術的性質の知識とかを職人的労働者はかつては重視していたが、いまではそうしたことは消滅した。その理由のひとつは、結果を含めての労働全体が実在性を喪失したからであろう。実在性の喪失は、労働がついに全面的に承認欲望だけで動く時代が到来したからである。昔も承認欲望はあった。しかしその欲望の作用の強度が今とは違うのである。労働は実在性を喪失し、承認のための余儀ない「手掛かり」以上のものではなくなった。人はブランドと名声の高い企業に就職する。労働の質とか自分に最も適した仕事とかで企業を選ぶのではない。労働の種類は何でもいい。企業の内部での労働であろうと、他の職種であろうと、何でもこなすが、社会的に格が高いと想像されるのであれば何でもいいのである。問題は、そのこなす労働の結果によって、上司と同僚から「格が高い」と評価されることだけが、今や労働の動機になった。こうして労働は、消費財的になったのである。労働は、地位の上昇を求めるひとつのチャンスでしかない。労働は、現実的な、あるいは象徴的な、社会的地位の顕示のための記号に過ぎない。いわゆる労働の喜び、伝統的な喜びは、労働にはもうない。喜びがあるのは、他人の評価によって、自己評価が充足されるときに限られる。上司であれ、同僚であれ、そうした他人の評価を求める欲望が満たされないで挫折するときには、人はさっさと職場を放棄し、別の職場を求めてあてもなくさまようであろう。新規採用者の企業定着率が低い、あるいは一年以内に放棄する率が高いのは、今や労働が消費財的記号としてしか受けとめられなくなったのが大きな要因のひとつであろう。古典的労働は現在では消滅した。勝利したもの、それは虚栄心である。[iv] 「とらばーゆ」の創刊号で、求人情報の職種名に関して、コンピュータ関係、事務職、販売、専門職、営業の5つに限って取り出した職種名の9割以上が、和製英語というべき「カタカナ文字」の職種で占められていたこと、聞こえのいい<かっこ良い仕事>へと女性がいざなわれたことは、この今村の「労働の記号化」に沿って説明することができる。
現代の親は経済的に豊かである。娘一人ぐらい家で遊ばせておける経済力がある。親と同居する未婚の多くの女性にとって仕事とは、小遣いを稼ぐための趣味的な作業であって生きがいとはいえない。OLは労働の対価としての報酬を受け取るという意識が低いことを第四章で述べたが、周縁労働力に押し込められ、男性と同じ能力なのに、就職できなかったり、昇進できない職場に夢を見出すことは難しい。OLが仕事に行きがいを見出そうとすれば、いま就いている仕事とは別の仕事を探す必要があるだろう。事務屋は結局、事務屋でしかない。そこに夢と希望を持つ方が無理というもの[v]なのだ。だが、多くの人は辞めれば生活できなくなるので、「嫌なこと」があっても我慢して働き続けることを考えれば、生活の心配がないパラサイト・シングルの労働観は、贅沢なものといえないだろうか。そもそも、労働は「嫌なこと」を抜きにできるものだろうか。ここで、松原惇子の次のような記述を引用したい。
私は、尊敬する友人から言われた言葉を、ふと思い出した。その方は、会社で働くということについて、こう語った。「自分の能力を生かした仕事を組織の中でしたい、と考える方がおかしい。その考えは甘い。能力を生かしたいなら、組織に属さないでやるべきだ。お給料というのは、その人の能力に払われているのではない。その人の労働に対する屈辱賃なのよ」屈辱賃・・・。窓ぎわにされた。目障りだと思われている。つまり、その屈辱に対して給料が支払われているのである。だから、給料取りは文句言うな、ということになる。[vi]
松原惇子は、別の著書の中で、労働というものはもともとつまらない仕事なのだ、とも述べている。つまる仕事をしているのは、特殊なひとにぎりの人たちだけ。男性で、どれだけ、つまる仕事をしている人がいるというのか。雨の日、自転車で営業まわりしているおじさんを見たことがあるか。雨の日の雪の日も毎朝、魚をとりにいくおじさんを見たことがあるか。あれが、労働の真の姿。わたしたちはオフィスの中で雨にぬれないで働けるだけ幸福と思わなくてはいけない。もし、あなたがそれでも、労働の中に幸福を見出したというなら、わたしはあなたに、OLを辞めることをおすすめする。そして、福祉関係の仕事につくことをおすすめする。なぜなら、人は人の役に立つ仕事をして、はじめて喜びを得られるものだからである。「ありがとう、あんたがいてくれたんで助かったよ」障害者やお年寄りの感謝の言葉以外、わたしたちの労働をいやしてくれるものはない。3Kの仕事こそ、幸福を感じられる仕事である。オフィスでかっこよく働いている人に空しい人が多いのは、自分のためにだけに働いているから。いくら、仕事が認められ、管理職に抜擢されようが年収が一千万をこえようが、幸福って、かっこいいところにはない。地味なところにこそある。神様がそのように配置なさったのである。じゃなかったら誰が重労働のわりには決して報酬が多いとはいえないヘルパーや看護婦になるというのですか。OLたちは、真の幸福と正反対の方角に幸福をみいだそうと暮らしている。だから、空しいのではないだろうか。[vii]
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引用文献
[i] 山田昌弘『パラサイト・シングルの時代』65-66頁、ちくま新書、1999年。
[ii] NHK放送文化研究所編『日本人の生活時間・2000』69頁、NHK出版、2002目年。
[iii] 山田昌弘、前掲書、121-127頁。
[iv] 今村仁司『近代の労働観』153-155頁、岩波新書、1998年。
[v] 松原惇子『OL定年物語』173頁、PHP研究所、1994年。
[vi] 松原惇子『クロワッサン症候群 その後』52-53頁、文芸春秋、1998年。
[vii] 松原惇子、『OL定年物語』136-137頁。