たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

【新型コロナ】ワクチン接種直後、13歳男子中学生が死亡 鎌倉市公表 遺族要望で明らかに

2024年08月26日 22時28分39秒 | 気になるニュースあれこれ

2024年8月26日神奈川新聞、

【新型コロナ】ワクチン接種直後、13歳男子中学生が死亡 鎌倉市公表 遺族要望で明らかに(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

「新型コロナウイルスワクチンを巡り、神奈川県鎌倉市は26日、ワクチン接種直後に13歳の男子中学生が死亡したと公表した。遺族は国からワクチンの健康被害救済の給付金認定を受けたが、市は4月に補正予算案に給付金費用を計上した際、年齢などを非公表としていた。10月からコロナの定期予防接種を市が開始するのに当たり、遺族の要望で死亡者の年齢を明らかにした。

 市などによると、男子生徒はワクチン接種した当日に突然死したという。市は具体的な死亡時期や経緯などを明らかにしていない。」

 

鎌倉市/市長定例記者会見(令和6年度9月) (city.kamakura.kanagawa.jp)

 

Xユーザーの長嶋竜弘さん: 「◆鎌倉の13歳の死の公表💉❗️ https://t.co/N3UIWwMSSw 👆 2021年10月30日、ワクチン接種2回目4時間後に亡くなった鎌倉市在住の13歳の中学生の件が、2年10ヶ月を経てやっと公表されました。 あらためてお悔やみを申し上げるとともに、公表を促す為にご尽力頂いた皆様に心より感謝いたします。 https://t.co/zB0t01lpq3」 / X

「2021年10月30日、ワクチン接種2回目4時間後に亡くなった鎌倉市在住の13歳の中学生の件が、2年10ヶ月を経てやっと公表されました。

あらためてお悔やみを申し上げるとともに、公表を促す為にご尽力頂いた皆様に心より感謝いたします。

※過去の経過 http://kamakurasi.air-nifty.com/blog/2022/08/post-8d0d7d.html

 

※認定時臨時議会/2024/04/23 http://kamakurasi.air-nifty.com/blog/2024/04/post-07db5c.html


自民総裁戦出馬の河野氏、会見で「改革」9回訴え ワクチン接種推進など実行力をアピール

2024年08月26日 16時10分40秒 | 気になるニュースあれこれ

Xユーザーの藤江@日本人、謎の大量死※コロナでは説明できないさん: 「空前絶後の健康被害を生んだ新型コロナワクチンさえも、「改革の実績」にすり替える総裁候補 【河野太郎】自由民主党 総裁選 立候補に関する記者会見 https://t.co/9l0MNZfkyV https://t.co/yAAJZMmoAy」 / X

 

【河野太郎】自由民主党 総裁選 立候補に関する記者会見 - YouTube

 

2024年8月26日神奈川新聞、

自民総裁戦出馬の河野氏、会見で「改革」9回訴え ワクチン接種推進など実行力をアピール(カナロコ by 神奈川新聞)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース

「改革と言うのは簡単だ。傷だらけになりながら改革をとことん進めていく」

26日午後、河野太郎デジタル相(衆院15区)は国会内で100人を超す報道陣が詰めかける中、紺のスーツ、青のネクタイ姿で自民党総裁選への出馬会見に臨んだ。約25分に及んだ前半の決意表明だけで「改革」という言葉を9回使い、改革の旗手として「日本を引っ張るリーダーになる」と宣言した。

改革をとことん進める強い意志があるのか、改革をやった実績があるのか。そこが問われる」と強調。行政手続きに必要な押印の廃止や新型コロナウイルスのワクチン接種推進、ライドシェアの導入、マイナンバーカードの普及など個別政策で改革を積み上げてきた「実行力」を誇示し、最優先に掲げた「党改革・政治改革」を断行する覚悟を印象付けた。

 会見場に設置したパネルにつづったのは「有事の今こそ、河野太郎」のキャッチフレーズ。外相や防衛相など政府要職を歴任した実績を踏まえ、日本はさまざまな分野で“有事”に直面しているとして「有事を乗り越えるために、この国を前に進めたい」と持ち前の「突破力」を打ち出した。」

マイナンバーカードのゴリ押し、コロナワクチン接種推進が実績?!

こんなんが自民党総裁に選ばれて総理大臣になったらほんとに日本終了。

地獄の自民党総裁選。誰がなっても地獄には違いありませんが河野太郎氏も小泉純一郎氏もほんとにやめてくれ。裏金議員たちが逮捕されることもなくいつまでも国会に居座って自分たちに都合のいい法律をどんどんつくり、総裁選という名の権力闘争を繰り広げている世界、なんなんでしょうか。

Xユーザーのしんかい10911さん: 「このままだと日本の総理大臣は「犯罪者が決めた総理大臣」になる。 だから検察が自民党の裏金議員を排除することが必要だったのに。 https://t.co/CDaHLCaE1X」 / X

野党第一党の立憲民主党、国会で素晴らしい質疑をしている若い議員がいるのにそういう方は表に出てこないのか、政権交代の大きなチャンスなのにもどかしいかぎり。

 

 


百日紅

2024年08月26日 15時39分40秒 | 日記

 かつて自死遺族の会に参加したあと気持ちを落ち着けるためゆっくりと紅茶を飲みながらパスタを食べた店、4年前おそらくコロナ騒動により閉店となってしまったのをバスの中からみかけましたが、先日久しぶりで近い所にいったらタリーズコーヒーが入っていました。趣のある佇まいの建物に外資発祥の大手チェーン店。タリーズコーヒー自体は嫌いなわけではないですが不似合だと感じました。そこにしかない場所が外資に乗っ取られていく。なくなってほしくない場所には時々いってお金を落とすことが大事ですね。自死遺族の会の話は自覚しているよりも心と頭が披露していたと思います。チェーン店にはない昔ながらのソファ席でほんとにゆっくりさせてもらいました。あらためてありがとうございましたという気持ちになりました。

 あと4週間ほどで、1994年9月に妹が家で首吊って亡くなってから丸30年が過ぎるということになるでしょうか。どういう性なのか、どういう巡り合わせでこういうことになったのか、結局どこにも辿り着くことが出来ず心はさまよったままで苦しいなあと思います。この事実から逃れることはできません。どう受け止めればいいのか結局わからず共に生きていくには許容できる範疇を越える事実。人はどういう死に方をしたかではなくどう生きたかが大切なのだとか、神様は試練を乗り越えられる人にしか与えないとか人に言われてきたし認知行動療法ではそういうことになりますが、この事実と一緒にここまで生きてくるのは重かったです。わたしは現場を見ていません。現場をみたのは第一発見者の母親と警察官と母親が電話したら来てくれた実家のおじさんおばさんか。発見された時は紐が切れて下に落ちていたとだけ弟から聞かされました。それ以上詳しいことは聞いたことがあるのかもしれませんが何も思い出せません。自死遺族の会の中には第一発見者となった方もいらっしゃいます。もしわたしだったらと想像すると背すじが凍りつきます。気が狂ってしまってその後普通に生きることはできなくなっていたのではないかと思います。それでも生きている方も社会の表にはでませんがいらっしゃいます。10代、20代、30代の死因の第一位は自殺なのですからたくさんいらっしゃるということです。

 生まれる前からの右足股関節脱臼により死ぬまでトアラセットをのみ続けるしかない人生。こんなものを何錠ものみ続けることは気持ち悪くって無理なので痛みで歩くことができなくなった時にはそこで終わりかなあと思っています。妹の分まで自分が生きなければならないという気負いはもうありません。それは若かったから思えたこと。終りが見てきた今はいかに人生を終えていくべきかと毎日考えます。わずかずつわずかずつ荷物減らし。こんなに荷物を残したまま死ぬことはできないのでまだ死ぬことはできないなあと思います。自分で死ぬこともわたしにはできないだろうとは思います。でも今の日本のままだと老後の金を貯められなかった人の自己責任なのでそういう終りになるしかないのかもしれません。

 死を含めて生。幸福論とか人間論とかいかに生きるべきかとか西欧発祥の哲学書を何冊か読んでもなにもわからず、でも再読してもう一度整理し直そうとは思いますが仏教とか禅とか実は殆ど何も知らないので知りたいと思うこの頃ではあります。日本人の宗教観、人生観ってどうなっているんでしょうね。もともと深いものがなかったのかもしれませんが、コロナ騒動でさっぱりわからなくなりました。

 


第六章OLを取り巻く現代社会-①前のめりの時間意識

2024年08月26日 01時43分18秒 | 卒業論文

  序章で少し触れたが、働きがい、生きがいを考える時、仕事=労苦、遊び=安楽といったステレオタイプ的な捉え方から出発するのが私たちの日常生活では一般的である。そこには、仕事には何かを生み出す、何かを創り出すという加算のポジティブな意味があるのに対して、遊びの方には普通、何かを使う、あるいは消費するという減産のネガティブな意味しか認められない。こうした一般的な捉え方のように仕事=労苦であるなら、学校を卒業して就職するのはとても辛いことであるはずだ。反対に定年退職を迎えた人たちはそうした苦しみから解放されてゴージャスな時間が約束され、その表情は輝いているはずである。なのに、定年退職にはなぜか悲哀が伴う。ここで先ず、鷲田清一の記述に沿って、現代を生きる「人々」には、「前のめり」の時間意識切が浸透していることを記したい。「前のめり」の時間意識は、性別役割分業によりかかった日本型企業社会を見るのに有効な切り口の一つかと思われるからである。ここでいう「人々」とは、あえて男性とは書かれていないが、男性をイメージしていることは間違いないであろう。このように、人間といえばあえてことわらなくてもイコール男性であること自体が、日本型企業社会は男性中心に動いてきたことを物語っている。

 「ザンギョー」という国際語もあるくらい、日本人のワーカホリックは名高い。そのような中で、ふと、なぜ働くのかという問いがもし自分の中から否応なく頸をもたげてきたら、私たちは生活するため、自分や家族の豊かで安らいだ将来の生活のためといった理由を挙げるにちがいない。少なくとも、高度経済成長期を迎えるまではそうであった。満ち足りた老後を迎えるために人は気張る。あの時がんばっておいたから今このように安楽にしていられるのだ・・・というわけだ。ここで幸福な老後とは過去の業績に乗っかっている。それは過去の記憶と過去から蓄えてきた財に寄りかかって生きるということなのだ。皮肉な見方をすれば、これは別の生き方をあらかじめ封じ込める生き方である。それはすでに確定した過去の延長線上で生きるということであり、したがってその満ち足りた老いの生活はますます枠を限られた狭い世界に入っていくともいえる。成年の間は未来のために働き、老後は過去の業績に寄りかかって生きる。どちらにも、「現在」の充溢というものはない。働いても、働かなくても、どちらの場合も、生が輝いていないと、当事者は心のどこかで感じている。

  次にこれから就職する人の場合、就職するということは、しばしば「社会に出る」と表現される。このことに関して鷲打は、社会学者藤村正之の論考を紹介している。子供たちこそ、本来「遊び」が「仕事」であるかもしれないのに、現代日本社会では幼年期の「お受験」から大学入学までの受験競争が、むしろ彼らの「仕事」として与えられている。年間3,000時間も越えなんとする勉強時間は日本の普通の労働者の労働時間の比ではない。そのような「仕事」としての受験に、深刻さとともに偏差値に代表される「遊び」的ゲーム感覚が複雑に同居するのは子供たちにとって、ある意味で当然なのかもしれない。そのような「仕事」から解放された青年たちが大学で「遊び」に走ることもうなづけよう。なぜなら、大学時代とは「仕事」たる受験を「定年退職」した彼らが、就職という「死」を迎えるまでの「余生」の時間なのだから。この論考の根底には、就職とは「死」であるという意識が根底にある。

 「社会から下りる」定年退職者の意識も、「社会に出る」就職予備軍の意識も、ともに「社会」に出入りするというイメージで今の自分を捉えている。この対照的な二つの意識が共に同じ時間意識に囚われていることに鷲田は注目した。先ず、どちらの意識においても人生がまっすぐな「線」のようにイメージされている。労働に携わる前の未成年の段階から、労働する者としての成年、そして労働という形での公的生活からリタイアしたあとの老年。まだ成年でない段階と、もう成年でない段階とにはさまれたものとして、労働する世代があるということになる。それぞれの年代にも「線」のメタファー、もっといえば「段階」のメタファーが適用される。(略)さらに、それぞれの世代にはさらにそれぞれのイメージや価値意識が投影され、例えば無垢な子供時代、静かな侘びの老境といったイメージがそれぞれに押し付けられる。そしてその区切りのところで、例えば「社会に出る」といった表現がなされるのである。(略)人生といえばすぐ、まっすぐな線のように思い浮かべる癖は根深い。人生のある時期までは無垢で、ある時期からは汚濁にまみれだす、そしてやがて枯れる、というのはフィクションである、と鷲田は述べる。ある時期までは人生は幸福で、ある時期からは不幸になるというのもうそである、という。

 さらに「社会」に出入りするというイメージに共通に前提しているのは、共に現在というものが別に時間のためにあるという価値観である。先に記した「満ち足りた将来のために働く」ということは、未来の幸福のために現在を貧しくすることなのだ。決済のつめを先送りにしているとも言える。人生がまっすぐな「線」のようにイメージされていることと、現在が別の時間のためにあるという価値観とは、ともに、常に前方を見ている「前のめり」の意識、つまりprospective(前方的)な時間意識を前提にしている。prospective は、proという「前方」を現す接頭辞と、specereという「視る」を意味する動詞との合成語である。proという言葉で表示されるこの「前のめり」の時間意識は、近代の社会経営を巡る様々な場面に浸透しているものである。例えば、「進歩」(progress)、「企業」(project)、「プログラム」(programme)などは、proという接頭辞を多角的に用いた例である。と同時に、「前のめり」の時間意識は、近代社会を生きる人々の生活意識の非常に深い部分にまで入り込みその行動を規定してきた観念である。[i]

 終身雇用にすがっていれば過去から蓄えてきた財に寄りかかって老後を生きることができた例として、松下電器産業の「福祉年金」と呼ばれる退職年金は、少し前まで7.5から10%という高利回りで給付されていた。それが2002年6月松に会社側が年金利率の2%を発表すると、松下OBの一部が猛反発。「裁判で争う」というOBまで出てきて大騒ぎになった。[ii] このようなOBは、第二章で記した終身雇用にすがり企業に依存してきた、一見自発的に残業しているようだが、実は半ば強制されているという会社人間の姿だ。彼らには会社を通した「個」しかない。会社は実に巧みに彼らに期待されているという錯覚を持たせてきた。清水ちなみの記述から引用しよう。

 おじさんはほとんど会社を休まない。病気になっても、二日酔いでも、骨折しても会社に来る。おもしろいのは、もし万に一つ、おじさんが会社を休んだとしても、昼頃に必ず電話がかかってくるのである。「何か、困ったことはないか」おじさんは本当に責任感が強い。しかし、困ったことがあったためしがないというのが現実だったりする。こうやって考えていくと、おじさんに対する思想統制のようなものが実にまんべんなく行き渡っていて、スゴイもんだなーと思う。平日には絶対に休まず、休日にも会社のために働いたり、仕事のために遊んだりして、そして一歩会社から出ると、アレを着るコレを着るという自己主張もない。全く会社のために生きているかのようだ。会社にいた頃、自分の上司を見ていて「この人は、あー オレは会社のために尽くしたーって満足しながら死ぬのかな」と思って怖かった覚えがある。取引先の人に向かって「わが社としては」とつい、威張っちゃう人だった。「まったく電通もしょーがねぇなー」などという独り言を大声で言ってしまう人だった。周りの視線を見ていると「しょーがねぇなーのはおまえだ」と全員心の中でつっこみをいれているのがわかる。でも、たぶん、本人としては、会社名を名乗る幸せを感じているはずだ。会社はその「幸せ」を彼に与えている。だからこそ、おじさんたちは、ここまでがんばることができたんだと思う。OLは会社から期待されていない。会社がおじさんに与えている「幸せ」は、ズバリこの「期待されている(という錯覚)」じゃなかろうかと思う。「オレは、期待されている!」この気持ちが、どんな困難でも乗り越えさせてしまう。会社の仕組みや中で行われていることを見ていると、この期待という錯覚をおじさん達に見破らせないように、すごーく慎重にていねいに会社側が考えていることがわかる。(略)おじさんのメンツを満たすために会社は気を配る。おじさんのメンツは、「実力」ではなく、「男」であって「年とっている」人であれば誰にでも与えられる。どんなボンクラにも希望を持たす。[iii]

 日本型企業社会に生きる人々を規定してきた「前のめりの」時間意識、それは、第一に、より良い未来に向けて今前進しつつあるという歴史感覚と深く関わる。第二に、資本主義社会の企業も近代市民社会の個人も共に未来における決済を前提に今の行動を決める、未来志向の姿勢をとるのである。第三に、そのような未来志向は、単に人間の活動は価値を生み出すべきものだからより多くのものをより速く、より効率的に産出していかなければならない、という資本主義の基本的な思考法であり、さらに単に価値を生み出すだけでなく、より生産的な未来に備えるという目的性のある生産をしなければならない、という思考をも含む。後にも記すが、ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」は、未来に価値を生み出すものをこそ作らねばならないという資本主義の精神を象徴的に含みこんでいる。第四に、決済を未来に先送りする思考法の変奏として「青い鳥」幻想が挙げられる。それは、今の自分の存在がひどく頼りなく感じられるとき、別のところへ行けばもっと違った自分になれる、ここでは不可能な自分にであえるという幻想を追いかける、「こうすれば自分はもっと自分らしくなれるんじゃないか」という、自分を常に未来の「自己」に至る途上にあるものとして意識する心的メカニズムをいう。そういう形で欲望を再生産していくのである。そして第五に、「新しいものはみなよい」という、欲望の対象を絶えず交替させることで欲望そのものを絶えず再生産していく、そういう意味装置に対応するような感覚と「前のめりの」時間意識とは関わる。少し細かく見たが、こうした未来の始まりとしての現在の意識、proという「前のめり」の意識は、私たちの生活に深く浸透している。そして、仕事=労苦であるという近代的な理解の仕方と深く結びついているのである。

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引用文献

[i] 鷲田清一『だれのための仕事』7-15頁、岩波書店、1996年。

[ii] 『日経ウーマン 2002年12月臨時増刊号』日経ホーム出版社。

[iii] 清水ちなみ「OLから見た会社」内橋克人・奥村宏・佐高信編『就職・就社の構造』126-128頁、岩波書店、1994年。