フランクル『夜と霧』より-第ニ段階収容所生活-被収容者の夢
「ほとんどの被収容者は、風前の灯火(ともしび)のような命を長らえさせるという一点に神経を集中せざるをえなかった。原始的な本能は、この至上の関心事に役立たないすべてのことをどうでもよくしてしまった。被収容者がものごとを判断するときにあたりまえのように見せる徹底した非情さも、そこから説明がつく。アウシュヴィッツからバイエルン地方のダッハウ支所に送られたとき、わたしはまだそういうことにそれほど慣れてはいなかったのだが、このときそれをあからさまに思い知った。
わたしたち、およそ二千人の被収容者を運ぶ列車は、ウィーンを経由した。列車は、真夜中に、ウィーン市内のとある駅に停まった。もう少し走ると、線路はある通りと交叉するのだが、その家並みの一軒でわたしは生まれ、追放された日まで何十年もそこで暮していた。
わたしたちは、狭苦しい護送車に50人ずつつめこまれていた。護送車には、鉄格子のはまった小さなのぞき窓がふたつあいている。床に坐れるのは一部の者たちだけで、あとは何時間も立っていなければならなかったのだが、彼らはたいていのぞき窓に押しあいへしあいしていた。わたしもそのなかにいた。爪先立ち、人びとの頭越しに、そして鉄格子の向こうに見たふるさとの町は、やけに幽霊じみていた。わたしたちはみな、生きているというより死んでいるような気持ちがした。列車はマウトハウゼンに向っているらしく、だったら長くて一、二週間の命だな、とわたしたちは見積もっていた。わたしが子供時代を過ごしたふるさとの通りや広場や家並みが見えても、まるで自分がすでに死んでいて、死者としてあの世から、この幽霊じみた町を幽霊になって見下ろしているような気がした。これはなまなましい感覚だった。
数時間停車して、今、列車は駅を出る。あの通りに、わが家のある通りにさしかかる! わたしは頼みはじめた。のぞき窓の眺めに見入っていたのは、収容所暮らしが長く、このような旅がことのほか物珍しい若者たちだった。わたしは頼んだ。ほんのすこしのあいだ、前に行かせてくれないか、と。そして、わたしにとって外をひと目見るとはどういうことか、わかってもらおうとした。懇願はしかし、半ば邪険に、半ば嘲笑ぎみに却下され、こんな言葉で片づけられた。
「そんなに長いこと住んでたのか。だったらもうさんざん見たろう」」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、52-54頁より)