フランクル『夜と霧』より-第二段階収容所生活-感動の消滅(アパシー)
「感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心。これら、被収容者の心理的反応の第二段階の徴候は、ほどなく毎日毎日殴られることにたいしても、なにも感じさせなくさせた。この不感無覚は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ。なぜなら、収容所ではとにかくよく殴られたからだ。まるで理由にならないことで、あるいはまったく理由もなく。
たとえを挙げよう。わたしが働いていた建設現場で「食事時間」になった。わたしたちは列を作った。わたしのうしろの男は一列ほど列から横にはみ出して立っているらしく、それが親衛隊の監視兵には、たぶんシンメトリーの感覚にてらして気に入らなかったのだろう。そんなことは規律を重んじる立場からしてもとやかく言うほどのこともない。どうでもいいことだし、だいい足元は整地されていず、でこぼこだった。しかし、その監視兵には気に食わなかったのだ。とにかく、行列のわたしのうしろで、ましてや監視兵の心のなかでなにが起こったか、さっぱり見当がつかないままに、突然わたしは頭のてっぺんから二度したたかに殴られた。それからようやく、すぐそばに監視兵の姿を認め、この男が棍棒を振るったのだと知った。
殴られる肉体的苦痛は、わたしたちおとなの囚人だけでなく、懲罰をうけた子どもにとってすら深刻ではない。心の痛み、つまり不正や不条理の憤怒に、殴られた瞬間、人はとことん苦しむのだ。だから、空振りに終わった殴打が、場合によってはいっそう苦痛だったりすることもある。たとえばあるとき、わたしは所外の線路にいた。吹雪が襲った。にもかかわらず、作業を中断することは許されなかった。体が芯まで凍えてしまわないように、わたしはせっせと線路の間を砕石で埋めた。ほんの一瞬、息をつくために手を休め、つるはしにもたれた。運の悪いことに、同じ瞬間に監視兵がこちらを振り向き、当然、わたしが「さぼっている」と思いこんだ。そして、とっくに感情が消滅していたはずのわたしが、それでもなお苦痛だったのは、なんらかの叱責や、覚悟していた棍棒ではなかった。監視兵は、このなんとか人間の姿をとどめているだけの、尾羽(おは)打ち枯らし、ぼろをまとったやつ、彼の目に映ったわたしというやつを、わざわざ罵倒する値打ちなどないとふんだ。そして、たわむれのように地面から石ころを拾いあげ、わたしに投げた。わたしは感じずにはいられなかった。こうやって動物の気をひくことがあるな、と。こうやって、家畜に「働く義務」を思い起させるのだ、罰をあたえるほどの気持ちのつながりなど「これっぽっちも」もたない家畜に、と。」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、37-39頁より)