フランクル『夜と霧』より-第ニ段階収容生活-灰色の朝のモノローグ
「収容所では、個々人の命の価値はとことん貶められた。これは、その状況をみずから体験した人にしかわからないだろう。しかし、そんなことには慣れっこになった者でも、個人の存在が蔑(ないがし)ろにされていることをしたたかに思い知らされるのは、収容所から病気の被収容者が移送される時だった。
移送と決まった病気の被収容者の瘦せ細った体が、二輪の荷車に無造作に積みあげられた。荷車はほかの被収容者たちによって、何キロも離れたほかの収容所まで、吹雪をついて押していかれた。死んでいてもいっしょに運ばれた。リスト通りでなければならないからだ。リストが至上であって、人間は被収容者番号をもっているかぎりにおいて意味があり、文字通りただの番号なのだった。死んでいるか生きているかは問題ではない。「番号」の「命」はどうでもよかった。番号の背後にあるものなど、これっぽっちも重要ではなかった。ひとりの人間運命も、来歴も、そして名前すら。
たとえば、わたしが医師としてバイエルン地方のとある収容所から別の収容所につきそった病気の被収容者の移送団には、ひとりの若い仲間がいた。仲間は、兄弟をもといた収容所に置いていかねばならなかった。リストに入っていなかったからだ。仲間は収容所の上官にくどくど嘆願し、上官もついに折れて、土壇場でリストからひとりを外し、代わりにこの仲間の兄弟を入れた。しかし、リストは首尾一貫していなければならない。だが、たやすいことだ。仲間の兄弟が、身代わりに収容所に残ることになった仲間と、被収容者番号も氏名も取り替えればすむ。なぜなら、すでに述べたように、収容所のわたしたちは全員、身元を証明するものをとっくに失っており、とにかく息をしている有機体のほかには、これが自分だと言えるものはなにひとつないこの状況を、だれもがありがたいと思っていたからだ。
土気(つちげ)色の皮膚をした骸骨同然の人間の身にそなわっているものと言えば、垂れ下がるボロのたぐいでしかなかったが、それすらが収容所に残る者たちの関心の的だった。靴が、あるいはコートが自分のよりまだましかどうか、移送を待つ「ムスリム」たちは、ぎらぎらとしたまなざしの吟味にさらされた。「ムスリム」たちの運命は定まったのだ。けれども、収容所に残る、まだなんとか労働に耐える者たちにとっては、生き延びるチャンスをすこしでも増やすのに役立つものはなんでも歓迎なのだ。感傷的になっている場合ではなかった・・・。
主体性をもった人間であるという感覚の喪失は、強制収容所の人間は徹頭徹尾、監視兵の気まぐれの対象だと身をもって知るためだけでなく、自分は運命のたわむれの対象なのだと思い知ることによって引き起こされた。ふつう5年、あるいは10年たってはじめて、人生なにが幸いするか禍いするかがわかるものだ-わたしはつねにそう考え、また口にしてもきた。ところが、強制収容所で学んだことは、それに訂正を迫った。禍福が10分、あるいは5分もたたないうちに判明する経験を、わたしたちはいやと言うほどしたのだ。
アウシュヴィッツにいたころ、わたしはすでにひとつの原則をたてていた。その「妥当性」はすぐに明らかになり、ほとんどの仲間がそれを採用した。つまり、なにかをたずねられたら、おおむねほんとうのことを言う。訊かれないことは黙っている。いくつだ、と訊かれたら、年齢を答える。職業を問われたら、「医師です」と言う。ただし、はっきりと専門を訊いてこなければ、専門医であることは言わないのだ。
アウシュヴィッツで迎えた最初の朝、親衛隊の将校が点呼にやってきた。仲間は、40歳以下はこっちへ、以上は向うへ、と分けられた。さらに、金属加工工と自動車整備工が別にされた。それから、わたしたちはズボンを下ろさせられてヘルニアの有無を検査され、そこでまた数人の仲間がはねられた。
一グループは別の収容棟につれていかれ、そこでまたしても点呼のために整列させられた。」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、87-88頁より)