たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ヒルティ『眠られぬ夜のために(第一部)』より‐6月1日~6月30日

2024年08月31日 14時22分48秒 | 本あれこれ

「6月1日

 神の慎重な、ゆるやかな導きは、みずからそれを体験しないかぎり、だれもが信じがたい、最も不思議な経験の一つである。それはいつも不思議な経験の一つである。それはいつも苦痛と不安とを通して行われるものである。人はたえず、自分の所有する一切のものを捧げ、とくにこれだけはほんとうに自分のものといえる自己の意志をも、完全に神にゆだねる覚悟をしなければならない。そうすると突然、新しい段階が開けてくる。この段階に立つと、自分の過去の歩みがはっきり分り、特に、自分が幸福な道を選んだこと、そして今や一つの新しい自由が、しかも永遠に、増し与えられたことが明白になる。

 というのは、神の導きの道においては、一度過ぎ去ったことは再びくり返されることがないからである。この点が、人間がみずから選んだ自己改善の道との大きなちがいである。自分で選んだ道では、たいてい、いたずらに飛び立とうとはばたいた挙句、疲れはてて、また世間なみの考え方に落ち込むにすぎない。

   ラエタレ(四旬節第四の日曜日)

 わが心よ、おまえが囚われている

 苦悩を脱して、立ちあがれ

 なお、しばらくの我慢だ、

 もはや心を痛めるな。

 春の嵐がすぎたあとには、

 こよなく美しい夏の喜びがくるのだ。」

 

「6月4日

 ヨハネの黙示禄の20には、神の霊が心の戸の外に立ってたたくとき、われわれがその戸を開けるとしるされている。つまり、われわれの願いに応じて神の霊がより善き生活の門をひらくのではない、という意味であるが、これは人間の意志の自由についての重大な見解である。しかし、わわれれが戸を開けることもしないなら、それだけまたわれわれの責任も大きいといわねばならない。なぜなら、この場合はできないということではなくて、ただ欲しないということがあるだけだからである。つまり、目の前に現存してすぐにも手に入れることができる救いを拒絶するということになるからである。」

 

「6月7日

 もしもわれわれが人間の事柄を同情をもって見ることができないなら、世間との接触はわれわれの内的人間をかならず害する。これが、修道院生活を正当化する理由である。もっとも、それはただ相対的な是認を意味するにすぎない。ほかにもそれをのがれる道があるからである。

 われわれはつねに、実際的な教訓に対して素直に心を開き、だれからでもそれを感謝の念をもって受け入れなければならない。

 これに反して、一般的な人生観に関しては、われわれはやはり絶えず、思索と経験とによってそれを自分の内部で深め、かつ純化するよう努めねばならないが、この点については、どんな人からの影響にもつねに心を開くというのではいけない。そればかりか、またもしわれわれが時代精神全体と相容れず対立するとしたならば、われわれの人格を犠牲にしてまで、それに従うほどの値打ちがあるものはめったにない。むしろ逆に、個人が時代精神に以前と違った方向を与えたという事実は、これまで少なくないのである。」 

 

「6月10日

 ブルームハルトや、その他の歴史的に確証されている奇跡を行った人びとの「力」の源をなしているのは、おそらくただ「私欲のない」愛であった。このような形容詞を添えねばならないのは残念だが、しかし必要である。これはまた、このような異常な人びとの無数の模倣者たちはもちろんのこと、彼ら自身においても、心の動揺が起きたり、時にはこの異常な力が減退したりする理由を説明するものである。なぜなら、このような愛は、それと不可分に結びついている信仰と同じように、聖書のいわゆる大きな真珠(マタイによる福音書13の45・46)であって、それを手に入れるには他の一切を棄てなければならないし、なおこの愛はたえず試され、用いられるものなので、いつなん時でも、現存しなくてはならないからである。またこの愛は、火と同じく、たえず強くなったり弱まったりして、ある程度の水準に保つわけにはいかない。その上、ごまかすことなど決してできない。信仰についてなら、自分でそれを持っているように思い込み、また他人を説いてそう思い込ませることはできる。しかし、愛については、そういうことはできない。ここでは、ただ真実だけしか問題にならない。すべて見せかけのものは、試練の日に出会い、その時実に恐るべき酬いを受ける。愛というこの人類の聖なる宝は、それを偽造すれば、必ず罰せられずには済まない。

 信仰の鍵は、ほんらい愛である。神かキリストかに対する反感のおそらくほんのわずかな痕跡でも心に残るかぎり、信仰は困難である。しかし、のちにひとたびこの反感がすっかり消え去ったら、それは容易になる。この障害をのり越えるのに、神学などはまるで役に立たない。まことの信仰に達する道はただ一つ、つまりこの反感をすて去ることしかない。もしも、だれかが自分は信じることができないと言うなら、それは多分もっとも言い分であろうが、その根本原因はここにあるのであって、その人に面と向ってそれを非難してよいのである。」

 

「6月12日

 人間の経歴などというのは、実は大きな幻影にすぎない。そのなめらかな表面の下に隠されたものを、だれも見ないし、また見ようともしない。ただ時おり、この外被にとつぜん裂け目ができて、神が見給う通りの内部の実相が示される。だから、ほとんどすべての人の判断や、さらにすべての伝記類は、ただ半ばしか真実ではない。それらは皮相のことにふれているにすぎない。

(略)   

 悪い人間であって、しかも長く名声を保ったという例を、すくなくとも私は、歴史上ただ一つも思い浮べることができない。その逆の場合の方が多いとすれば、それは明らかに何よりもまず、善い人間もまたしばしば弱点を持っており、あるいは重大な誤りをおかしかねないということに、基づくものであろう。それでもなお、その人たちの根本的性質が善いものであれば、そのような誤りも特にゆるされるのである。いわゆる教父たちから宗教改革者にいたるまで、教会のほとんどすべての有名な教師たちが、そのよい実例である。ビスマルクやゲーテやフリードリヒ大王もやはり同様である。

 ここから明らかに知られうるのは、人間の胸のなかには正義へのやみがたい要求が存在するということである。しかもこの要求は、真に実在しており、かつわれわれが生死をかけて信頼するところの、神の正義の余韻であり、そのはたらきにほかならないのである。」

 

「6月15日

 弱い信仰でも、全く信仰がないよりははるかによろしい。最後の小さな信仰の火種をもすっかり消してしまうことのないようにしなさい。そうすれば、またそれを吹きおこすのは、容易である。だが、初めから新しく火をつけるのは、ずっと困難なものである。

「勇気を失わず、勇敢な人でありなさい。そうすれば、慰めは必要な時にあなたに与えられよう。」勇気は、あらゆる純人間的な性質のなかでも最も有用なものである。普通、勇気はほんの短い期間だけ必要なものであって、そうすれば、事情が前よりよくなる。しかし、たちまち過ぎさってしまう重大な瞬間に勇気を失うならば、そのために一生の努力も水の泡となることがある。

 したがって、およそどんなことがあっても勇気をすててはならない。もしあることをやめるのが明らかに神のみこころであるなら、そのことからただしばらく手をひいて、とにかく神の力づよい助けを固く信じて待つべきであろう。実に、神の助けはなにものによってもさえぎられることなく、またすべての損失をも償うことができるものである。

 ヨエル書2の13・21・25‐27、ルカによる福音書22の61・62,(略)

 このような意味に解すれば、つぎの仏陀の言葉もまた結構である、「心が正しい思いにみたされているかぎり、どんな悪事も決して入りこむすきがない。」たしかにわれわれは、正しい想いをいつも持ちつづけることはできない。それはしばしば、風に吹き払われるように、消え去ることがある。もとより即座に、そのような思いを呼び戻すことはできない。しかし、勇気は、つねにいくらか努力すればしばらく持ちつづけられる一種の気分であり、やがてそのうちに助けも与えられ、事情が好転することになる。戦争においてもその通りである。人生は戦争とよく似たところがあって、同じような戦術的原理に従っていとなまれるものである。」

 

「6月17日

 悪人がもはや深い後悔を感じえないようになったら、それは彼に下された最も重い罰を意味する。自己の悪を知りながら公開を覚えないということは、すでにこの世ながらの地獄である。そういう場合、ついに往々狂気にいたることも、きわめて理解できる事柄である。」

 

「6月21日

 苦しみは人を強めるが、喜びは大体において人を弱くするにすぎない。勇敢に堪えしのぶ苦難と苦難との間の休みの時が、害のない喜びである。けれども、すべての苦難は、それをやわらげるに必要なだけの喜びを内に秘めていることも事実である。

 あなたが、神からあなたを遠ざける喜びよりも、あなたを神へと駆りたてる苦難の方を好むようになるならば、あなたは正しい道にいるのである。

 神の子が完全に絶望しきって死んだという歴史上の実例を、私は一つも知らない。しかし、どんなに善い人間にも、このような絶望への誘惑がしばしばまぢかに迫ってくることがある。」

 

「6月22日

 立派に人生を生きぬき、とくに、平凡にただ生活を維持するだけでなく、より偉大な人生の目的を見失わないためには、どうしてもある種の感激が必要である。実際、人生を空しいものにすまいと思うならば、ぜひとも人生をそのような偉大な目的にささげなければならない。

 けれども、このような感激には、なお健全で冷静な良識の相当量が結びついていなければならない。この両者の混和・協力から、世に役立つような人間の性格がうまれでるのである。」

 

「6月25日

 大きな危機が過ぎたあと、しばしば人間の考えのなかに、ある全く囚われない、ほとんど普通の人間的なものを越えた評価をもって、自分の生活を過去と未来にわたって見渡すような瞬間が訪れることがある。このような場合、自分の過去をかえりみて、あやうく邪路に陥ろうとしてほとんど奇跡的ともいうべき神の処置と保護とによってわずかにそれをのがれえた、かぎりなく多くの時機があったことに気づくならば、このすでに与えられた恩寵に対する感謝のために胸はふくらみ、なお将来の人生行路も祝福にみちているであろうという強い確信が高まってくる。全生涯の終りにも、おそらくこれと同じ感慨を覚えるにちがいない。」

 

「6月26日

 信仰というものは、もとより、自分で自分に与えることはできない。1527年の『キリスト教城市法』に述べてああるように、信仰は「われらの分にすぎた神の恩寵の賜物」である。従って第三者のどんな信仰の勧めや、さらには命令も、結局のところ全く無益である。ところが、今日家庭や教会や学校で行われる宗教教育はおおむねこの類いである。しかしわれわれは、普通の実在論の世界とは別の、よりよい世界を憧れ求めることができる。そしてこの憧憬が、信仰という大きな賜物を授かるために、神にさしのべた手なのである。子供たちはこのような憧れを抱くように導かれねばならない。

 ヨハネによる福音書6の37・44・65、同胞教会讃美歌176番。

  われわれは、キリストをわれわれの主にして救い主として受けいれることによってのみ、神の前で認められる義を手にいれることができる。しかもその場合、われわれはその義を、神の賜物として、それ以上なんらの条件もなく授けられるのである。」

(ヒルティ著 平間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために(第一部)』岩波文

庫、168~194頁より)

 

 

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