2020年5月10日:茂木健一郎『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』より_神様を想像してはいけないの?
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/dc7b08a04a16359519385d73414fac6a
「この小説は、「仮想」と「現実」の関係についても、丹念に描いています。仮想と現実との関係についてのメタフィクションと言ってもいいくらいに。「メタフィクション」とは、それが作り話であることを意図的に気づかせることで、虚構と現実の関係について問題を提示することです。
「わたし、ダイヤモンドって、紫水晶みたいなんだって思っていたの。ずっとまえの、まだダイヤモンドを見たことがなかったころ。読んだことはあったから、どんなものか想像してみたの。それでかすかに輝いている、すてきな紫色の石だろうと思ったの。でもあとになって、女の人がダイヤモンドの指輪をしているのを見て、かっがりして泣いちゃったわ。確かにすばらしかったけど、わたしが考えていたダイヤモンドとはちがっていたんですもの」
アンは、ここで本物のダイヤモンドを見てショックを受けて泣いてしまいます。これは、現実への異議も仕立てです。自分の想像していたダイヤモンドというものが、アンの中では非常に強いイメージとして存在していた。それは彼女にとってはほとんど実際にあるものに近かったので、現実がこのイメージを裏切るとは露ほども思っていなかった。それがみごとに裏切られるのです。石の価値はさておき、アンにとっては、少なくとも、無色よりも淡い紫色の方がはるかに素敵な色だと思えた。それが裏切られたのです。この場面は、仮想と現実との「ずれ」に対する心の機微を、非常によく表しています。
「仮想」の世界は、必ずと言っていいくらい「現実」に裏切られます。たとえば、日常的な例を挙げてみても、誰か初めての人に会う機会が訪れるとする。その人の顔はまだ見たことがない。けれどもその人の職業や、周りからの情報で、ある程度その人がどういう人かということを想像してから、僕たちはその場に臨むものです。全く想像もせずに人と会うということはまずない。しかし、そうして出会ったその人は、必ず自分の「想像」とは異なるイメージを持っています。思った通り百パーセントそのままということは、まず絶対にありえません。
このような「ずれ」が、僕たちが生きていく人生には常に横たわっている。ここに「仮想というものの切実さ」が潜んでいるのです。
たとえば、子どもにとってのサンタクロースも仮想の切実さを物語っています。ここに、サンタクロースが実在していると信じていて、自分なりのサンタクロース像を持っている子どもがいるとします。次に、その子どもの前にサンタクロースの格好をした、でっぷりと太った赤服に白い髭をはやしたおじさんを連れて行くとする。そこで、子どもに「サンタさんだよ」と言っても、それは心の中に大切に抱いていたサンタクロースとは別の何者かであることを子どもはしっています。そして、それは子どもたちの仮想の中にあるサンタクロースという存在に比べると、必ず小さいものになってしまう。現実とは必ず、仮想しているものより小さくなってしまうものなのです。
「仮想」は、どんなに素晴らしいものであっても、必ず「現実」によって裏切られます。つまり、私たちにとって仮想というものが切実なのは、それがこの世のどこにも存在しないものだからなのです。」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/dc7b08a04a16359519385d73414fac6a
「この小説は、「仮想」と「現実」の関係についても、丹念に描いています。仮想と現実との関係についてのメタフィクションと言ってもいいくらいに。「メタフィクション」とは、それが作り話であることを意図的に気づかせることで、虚構と現実の関係について問題を提示することです。
「わたし、ダイヤモンドって、紫水晶みたいなんだって思っていたの。ずっとまえの、まだダイヤモンドを見たことがなかったころ。読んだことはあったから、どんなものか想像してみたの。それでかすかに輝いている、すてきな紫色の石だろうと思ったの。でもあとになって、女の人がダイヤモンドの指輪をしているのを見て、かっがりして泣いちゃったわ。確かにすばらしかったけど、わたしが考えていたダイヤモンドとはちがっていたんですもの」
アンは、ここで本物のダイヤモンドを見てショックを受けて泣いてしまいます。これは、現実への異議も仕立てです。自分の想像していたダイヤモンドというものが、アンの中では非常に強いイメージとして存在していた。それは彼女にとってはほとんど実際にあるものに近かったので、現実がこのイメージを裏切るとは露ほども思っていなかった。それがみごとに裏切られるのです。石の価値はさておき、アンにとっては、少なくとも、無色よりも淡い紫色の方がはるかに素敵な色だと思えた。それが裏切られたのです。この場面は、仮想と現実との「ずれ」に対する心の機微を、非常によく表しています。
「仮想」の世界は、必ずと言っていいくらい「現実」に裏切られます。たとえば、日常的な例を挙げてみても、誰か初めての人に会う機会が訪れるとする。その人の顔はまだ見たことがない。けれどもその人の職業や、周りからの情報で、ある程度その人がどういう人かということを想像してから、僕たちはその場に臨むものです。全く想像もせずに人と会うということはまずない。しかし、そうして出会ったその人は、必ず自分の「想像」とは異なるイメージを持っています。思った通り百パーセントそのままということは、まず絶対にありえません。
このような「ずれ」が、僕たちが生きていく人生には常に横たわっている。ここに「仮想というものの切実さ」が潜んでいるのです。
たとえば、子どもにとってのサンタクロースも仮想の切実さを物語っています。ここに、サンタクロースが実在していると信じていて、自分なりのサンタクロース像を持っている子どもがいるとします。次に、その子どもの前にサンタクロースの格好をした、でっぷりと太った赤服に白い髭をはやしたおじさんを連れて行くとする。そこで、子どもに「サンタさんだよ」と言っても、それは心の中に大切に抱いていたサンタクロースとは別の何者かであることを子どもはしっています。そして、それは子どもたちの仮想の中にあるサンタクロースという存在に比べると、必ず小さいものになってしまう。現実とは必ず、仮想しているものより小さくなってしまうものなのです。
「仮想」は、どんなに素晴らしいものであっても、必ず「現実」によって裏切られます。つまり、私たちにとって仮想というものが切実なのは、それがこの世のどこにも存在しないものだからなのです。」