フランクル『夜と霧』より-第ニ段階収容所生活-脱走計画
「まだ体力の残っている者は、早くも荷台に殺到し、重症患者や衰弱しきった者は足場を使って乗りこんだ。最後のトラックに乗る13名の確認が始まったとき、仲間とわたしは、もうこうなったらおおっぴらにリュックを持って、いつでも乗れるようにしていた。医長が13名としたのが、わたしたちは15名いた。医長はわたしたちを人数に入れていなかったのだ。13人がトラックに載せられ、あとに残されたわたしたちふたりは驚くやら、失望するやら、憤慨するやらで、この最後の車が発車するとき、医長に抗議した。医長は、あまりに疲れていてついうっかりした、と謝った。わたしたちがまだ脱走をくわだてていると誤解していたのだ、とも言った。
わたしたちは、リュックを背負ったまま、憤懣やるかたなくその場に坐りこみ、最後の数人の被収容者とともに車を待った。わたしたちはいつまでも待たされた。そこで、病棟の今やがらんとした板敷きに横になり、「神経戦」の最後の数時間、数日の緊張を解いた。天にも届かんばかりに歓喜の声をあげたかと思うと、ふたたび死ぬほどの落胆へと突き落とされた希望と失望の交錯から、完全に緊張を解いたのだ。わたしたちは「旅装を整え」、着衣のまま、靴も履いたまま眠りに落ちた。
銃声と砲声、照明弾の閃光、病棟の壁も貫く弾丸の風切り音に、わたしたちは眠りを破られた。医長が駆けこんで、床に伏せろ、物陰に隠れろ、と言った。蚕棚の上の段から、仲間がひとり飛びおりて、靴でわたしの腹を踏みつけた。わたしは完全に目がさめた。すぐに状況がわかってきた。ここが前線になったのだ。銃撃は次第に間遠になり、夜が明けた。外の、収容所のゲートのかたわらのボールに白旗がはためいていた。
わたしたち、この収容所に最後まで残ったほんのひと握りの者たちが、あの最後の数時間、「運命」がまたしてもわたしたちを弄(もてあそ)んだことを知ったのは、人間が下す決定など、とりわけ生死にかかわる決定など、どんなに信頼のおけないものかを知ったのは。それから数週間もたってからだ。あの夜、トラックの荷台で自由への道をひた走っていると錯覚した仲間たちのことを思うと、またしてもテヘランの死神の昔話を思い出す。と言うのは、数週間後、わたしは数枚の写真を見せられたのだが、それはわたしたちがいた収容所からそう遠くない、わたしの患者たちが移送されていった小規模収容所で撮られたものだった。患者たちはそこで棟に閉じこめられ、火を放たれたのだ。写真は半ば炭化した死体の山を示していた。」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、102-103頁より)