『東北歴史紀行』より-「チョウクライロ舞<鳥海山>」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/8ebe88b82b08a9f05f88977d1c269960
「小滝には、今日も、平安中期にさかのぼる丈六(じょうろく)(四メートルほど)の観音一木彫(いちぼくちょう)(一本の木で彫った仏像)があります。奈曾の滝前には、熊野神社があって、ここにも平安末期まではさかのぼる蔵王権現(ざおうごんげん)像がまつられています。これらの仏像をまつる小滝の寺は、もと竜頭寺と称して、すなわち鳥海の神の神宮司だったのです。だから、竜王たる神をまつる神事をいまに伝えてきたのです。
大物忌神は、チョウクライロ舞によってまつられる神でした。そこで、この舞を奉仕する人たちにとっては、チョウクライロの神こそは、大物忌神でした。大物忌神というのは国家の権威でよぶ政治の神(まつりごとの神)です。これにたいして、人々が祭事の神(まつりごとの神)としてよぶ名は、チョウクライロの神になっていたとおもわれます。
チョウクライロ。これがチョウカイになり、鳥海と書きあらわされるようになったというのが、この紀行ガイドの結論なのです。ですから、今日でも、この鳥海の神の正式の呼称は、依然として大物忌神なのです。
どうして、大物忌なのか。竜王の山というのはなぜなのか。二つはどう関連するのか。きっとそういう疑問をみなさんは残しておられるでしょう。そのことにも簡単にふれておきます。実は、その答えは、いまから1114年前の貞観13(871)年5月16日条の『三代実録』という正史にちゃんと出ているのです。こうあります。
「4月8日、山上に噴火があり、山は雷のように鳴り、土石は焼け、川は泥水となって流れ、魚はみな死んだ。その死の川を二匹の十丈余もある大蛇が、相連なって流れ下り、海に出ていき、無数の小さな蛇がこれについていった。占ってみると、神をまつるにあたって、すこしもささげものがなく、また、付近の人々の墓が設けられたり、死体が棄てられたりして、山がけがされたのを、神が怒って、この災異をいたしたことがわかった。そこで、国司に命じて、奉賽(ほうさい)(神に供え物をする)させるとともに、厳重に山を忌みきよめさせた」
二匹の大蛇が、ここでは山の神と見られていたことは、いうまでもありません。その神は、川を下って海の国に去ったのです。それは山の清浄をけがし、まつりをおろそかにしたことを怒っての天譴(てんけん)(天のいましめ)でした。川を下り、海に去る大蛇の神。それは龍神です。この神を厳重にいわいまつらないから天災が重なり、人災がつづいたのです。だから正二位(しょうにい)などという別格の神階を贈り、これを特別に忌みきよめ、いわいしずめたのです。それが大物忌ということでしょう。また、陵王・納蘇利(なそり)、両竜王の舞というのも、ここでは、二匹の蛇神のいかりをいわいしずめることにかかわること、いうまでもありません。」
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「小滝には、今日も、平安中期にさかのぼる丈六(じょうろく)(四メートルほど)の観音一木彫(いちぼくちょう)(一本の木で彫った仏像)があります。奈曾の滝前には、熊野神社があって、ここにも平安末期まではさかのぼる蔵王権現(ざおうごんげん)像がまつられています。これらの仏像をまつる小滝の寺は、もと竜頭寺と称して、すなわち鳥海の神の神宮司だったのです。だから、竜王たる神をまつる神事をいまに伝えてきたのです。
大物忌神は、チョウクライロ舞によってまつられる神でした。そこで、この舞を奉仕する人たちにとっては、チョウクライロの神こそは、大物忌神でした。大物忌神というのは国家の権威でよぶ政治の神(まつりごとの神)です。これにたいして、人々が祭事の神(まつりごとの神)としてよぶ名は、チョウクライロの神になっていたとおもわれます。
チョウクライロ。これがチョウカイになり、鳥海と書きあらわされるようになったというのが、この紀行ガイドの結論なのです。ですから、今日でも、この鳥海の神の正式の呼称は、依然として大物忌神なのです。
どうして、大物忌なのか。竜王の山というのはなぜなのか。二つはどう関連するのか。きっとそういう疑問をみなさんは残しておられるでしょう。そのことにも簡単にふれておきます。実は、その答えは、いまから1114年前の貞観13(871)年5月16日条の『三代実録』という正史にちゃんと出ているのです。こうあります。
「4月8日、山上に噴火があり、山は雷のように鳴り、土石は焼け、川は泥水となって流れ、魚はみな死んだ。その死の川を二匹の十丈余もある大蛇が、相連なって流れ下り、海に出ていき、無数の小さな蛇がこれについていった。占ってみると、神をまつるにあたって、すこしもささげものがなく、また、付近の人々の墓が設けられたり、死体が棄てられたりして、山がけがされたのを、神が怒って、この災異をいたしたことがわかった。そこで、国司に命じて、奉賽(ほうさい)(神に供え物をする)させるとともに、厳重に山を忌みきよめさせた」
二匹の大蛇が、ここでは山の神と見られていたことは、いうまでもありません。その神は、川を下って海の国に去ったのです。それは山の清浄をけがし、まつりをおろそかにしたことを怒っての天譴(てんけん)(天のいましめ)でした。川を下り、海に去る大蛇の神。それは龍神です。この神を厳重にいわいまつらないから天災が重なり、人災がつづいたのです。だから正二位(しょうにい)などという別格の神階を贈り、これを特別に忌みきよめ、いわいしずめたのです。それが大物忌ということでしょう。また、陵王・納蘇利(なそり)、両竜王の舞というのも、ここでは、二匹の蛇神のいかりをいわいしずめることにかかわること、いうまでもありません。」