先にも参照した『現代日本人の意識構造[第5版]』の調査結果によれば、73年と98年の25年間で日本人が理想とする家庭像は、夫は仕事、妻は家庭という「性役割分担」から夫も妻も家庭に目を向ける「家庭内協力」へと大きく転換している。73年調査では「性役割分担」を支持する人が最も多かったが、83年の調査以降急速に減少し、98年の調査では半減している。かわって、「家庭内協力型」は83年以降毎回増加し、98年の調査では多数派になった。[1] これは、高度経済成長期に定着した企業に取り込まれた家庭、企業にとって都合のよい性別役割分業に基づいた「男女共生システム」が「女性が働き続けること」「男性が家庭のことに協力すること」というコインの表と裏を支持する国民の意識変化、つまり時代にあわなくなってきていることを示している。家庭のあり方や男女の働き方について社会や企業が変革を迫られているのである。性という要因で個人の能力とは関係なく仕事と家庭に分けられてしまうのではなく、女性にとっても男性にとっても、家庭と社会の両方とのかかわりがもっと自由に選べ、性によって固定されない生き方やまたそういう生き方が可能な社会が求められている。
これまで日本型企業社会は、会社以外の仕事の一切を主婦に割り当て、夫や父を地域から隔離することで企業に全てを集中させてきた。しかしこの結果、会社の論理はあまりにも肥大し、今や地域や家庭を食いつくし、自らの基盤を掘り崩しつつあるように見える。夫は賃労働に、妻は無償労働にと峻別するようになった結果、男女それそれがその分担をもち協力しながら暮らしていた時代に比べると、現代社会においては男性と女性がそれぞれの本性に基づいて協同し生活することができなくなってしまった。「会社人間」の夫と「内助の妻」の共生はさびしい。家庭をひたすら家計に還元したうえで、その経済合理性を追求するべく性別役割分担を維持することは、大きな「不合理」、人間的資源の「非効率」を招いている。もはやこの関係には終止符が打たれなければならない。[2] 企業は今、出世というひとつの価値観で造られたヒエラルキーに行き詰まりを覚えている。日本型企業社会は、従来のやり方にすがりつくことを辞めて、男女問わずに知恵を引き出せる仕組みへ向けて労務管理の一つ一つを再点検する時期だ。そのためには、異質な個人を個人として評価し活用していくことも必要だ。男性は、「男は家事や育児に向いていないからできない」のでなく、たとえ帰りたくても家庭に帰れない現在の仕組みを率直にみつめることだ。「男女共生システム」を「自分に有利」と錯覚し、支持している自分自身が自分の暮らしにくさを招いているのではないか、と立ち止まって考えてみてはどうだろうか。そして女性は、彼女たちの耳元で鳴り続けてきた「女性が無能で怠慢だから働けない」という呪文を断ち切り、「こんな仕組みでは女性は力を発揮できない」という事実を、先ず声を出してきちんと主張することだ。会社に適応しようと自分をねじまげて不幸になるのではなく、適応できない自分にいらだって、ただ会社に反発するのでもなく、自分がやりたいことのために仕組みそのものを変えていくことだ。虚構を前提に作り上げられた仕組みに無理やり合わせるのではなく、対外がそれぞれの実像を確認し、実像にあった本当に効率の良い組織をどう作っていくかを考える必要がある。[3] 企男性不在のもっとも明確なのは、育児においてである。女性が仕事を続ける場合、育児は大きな課題である。女性にのみ柔軟な働き方が求められる。子供の熱がでた、ケガをした、塾の迎えなど、仕事を辞める場合と同様、女性には女性の数だけ仕事を休む「理由」がある。そこに混迷を感じると遙洋子は述べている。どれも理由になり、どれも理由にならない。[4] 働く女性は働きながら出産する女性に対して、男性以上に批判的になってしまう。事態を変えるには、出産や病気などに対応できる人員の配置や職場の都合がすべてに優先する、という企業の倫理規範を洗いなおす根本的な作業が必要だ。従来、女性は職場での変更についての決定権や発言権をほとんど持たない。しかし、今後、少子・高齢化社会の労働の担い手となる女性からの情報をきちんと受け止め生かすことは不可欠だ。もっと下位職務の女性たちの発言権と決定権が高められなければならないだろう。また、仕事と家事・育児を両立できるようにしなければならないのは女性のみではない。男女ともになのだ。仕事と家庭の両立は今度働く女性の問題から男性も含めた働く人全てにとっての問題へと拡大するだろう。欧米では普通のことながら、日本でも男性サラリーマンがある契機で自らの家庭責任を痛感し、あるいは妻の就業権を尊重して、育児休業をとったり、過度の残業や遠隔地赴任を拒んだりするとしよう。そんな行為がいささかの不利益な処分もなく擁護されるような企業社会の風土を変えること、そうした職場の変革が求められる。[5]
憲法13条の個人の尊厳と同14条の法の下の平等は、日本国憲法の人権保障の基本的原理である。13条は、全ての人が個人として尊重されることを謳っている。「人格の尊厳」あるいは「個人の尊厳」とも言われる。「生命、自由」に続いて「幸福追求に対する国民の権利」とあるが、これを「幸福追求権」といい、人格の担い手である個人が自らの幸福を追求する権利であり、自分の生き方を決める自己決定権を含む。この憲法13条は、憲法や法律の解釈基準になるとともに、憲法に明文の規程がない新しい人権を認める根拠になる規程である。近年13条を重視する考えが強まっているが、女性の労働権の確立にとって欠かすことのできない原理である。
14条は、全ての人が性別により差別されないと定めている。かつては、男と女は特性や役割が異なるということを前提にした性別特性論や性別役割論に基づく「平等論」が根強く存在した。この立場からは、結婚している女性は夫に扶養されるのだから、男性より定年を早くしても差別ではないとされてきた。しかし、13条の個人の尊厳の原理に立てば夫の収入がどうであれ、妻である女性にも個人の権利としての労働権があり、また、出産機能を持つ女性の労働権は保証されなければならない。[6] パートタイマーや派遣労働、契約社員の収入は、女性が経済的に自立していくには遠い金額である。これら非正社員の不当な低賃金の是正と共に、「女性に適した仕事」の低賃金を是正させる方法として重要なのは、「同一価値労働同一賃金の原則」である。「同一価値労働同一賃金の原則」とは、同じ仕事についての同一労働同一賃金だけでなく、仕事が違ってもその価値が同じなら、女性と男性に同一賃金を支払わなければならないという考え方である。長い間、「女性に適した仕事」の賃金は低いのが当たり前とされてきたが、大切なのは仕事の価値を評価する時に、性による偏見をなくすことである。例えば人の世話をする仕事は機械を扱う仕事より価値が低いとか、手先を使う細かい仕事は力仕事より価値が低いというのは性による偏った評価である。こんな偏見をなくし、女性が担っている細かい仕事、単調な仕事、頻繁に作業を中断したり、他人の後片付けをする仕事などの価値を正当に評価し直していくことがポイントである。[7]
また、現行の「世帯主」である男性を中心とした経済制度や社会保障制度は女性が基幹労働者として働くことの足を引っ張るものであり、根本から見直しを迫られつつある。「103万円の壁」と言われる、ライフスタイルの変化にそぐわない働く女性に制裁的な日本の税体系は問題だ。女性たちが伝統的な「女の規範」に従って「それなりの男女共生」観を自らのものとして内面化しているうちは現行の仕組みは性差別と意識され糾弾されることを免れてきた。しかし、今、女性の短期勤続、定型的または補助的な仕事、そして低賃金という「三位一体」構造も「男女共生システム」もはっきりと揺らいでいる。「三位一体」を構成する要因のいくつかはすでに変貌を遂げ、仕組み全体の安定性を揺るがせている。一方、職場の仕事においても充実したい、一人でも生きてゆけるよう職業人として自立したいと願うようになった一定比率の女性たちは、これまでの世帯単位とは異なる「シングル単位」(伊田広行『21世紀労働論』青木書店、1998年)の男女共生をようやく求め始めている。[8] 社会保障制度や福利厚生を「世帯主」単位から「個人単位」へと見直すべき時が来ている。人間本位の立場から社会制度は改善されなければならない。その時、男女共同参加型の社会が実現し、社会全体の民主化をもたらす。大切なのは、先の憲法に謳われているように「個人の尊厳」、女性にも人間として男性と平等な「労働権」が人権の柱として存在するという認識である。21世紀が少子化社会、逆の言い方をすれば高齢化社会であることを考えれば、高齢化社会の労働サービスを提供する労働者としても、また高齢化社会を財政面から支える納税者としても「個人として」の女性の存在が経済に与えるインパクトは測り知れない大きさであると言えるだろう。女性も基幹労働者として位置づけられなければならない。こうした変革は、日本型企業社会の利潤創出の仕組みの一つを崩すことで、一時、産業社会にダメージを与えるかもしれない。しかし、長いスパンでこれを考えるとき、男女共同参加型社会の実現は、内では少子・高齢化社会を乗り切る知恵と活力を生み出し、外に向けては日本型企業社会の国際化に道を拓くであろう。
社会全体の民主化のために、社会全体が女性の役割を定義し直すことを受け入れ、支持する体制にならなければ、これまでのステレオタイプ的な、固定された性による役割を打ち破ることはできない。男性が人間らしい生き方をするためにも、性役割の変化は必要である。男性が性役割に捉われると、出世しなければならないし、人に頼ってはいけないという圧力から相互で支えあう精神はそっちのけで人間的な感情も押し殺すようになってしまう。こうして男性の役割は社会的に豊かな人間関係を築く機会を男性から奪いとっているといってよい。男女はもともとお互いに支えあうべきである。双方が人間的な幅を広げ、お互いに連帯しあうようになれば男女の間を隔てる溝は埋められ、ずっと調和の取れた円満な関係を築くことができるだろう。しかし、双方が人間として自分の持てる能力をできるだけ伸ばすためには、成長期の子供たちに親が何を押し付けているか、その態度から見直していかなければならない。調和のとれた人間関係を築くのに必要な自立心と相互連帯の精神の両方を、女の子にも男の子にも育てていくことである。親たちがこれらの特質を、男の子にも女の子にも平等に身に付けさせようと努力するなら偏りのない、バランスのとれた大人に成長していくはずである。そして、自立心と他人の心や痛みを思いやる精神は両立することを教え、人を思いやる道を示していくことである。同時に本やテレビなど、マスコミに登場する人間像にも変化を求めなければならない。マスコミの影響力は大変強力なので、本や子供の番組を作る担当者は、男女の役割に関する固定観念を捨てて柔軟な男女観を描き出す義務がある。そのような人間像を幼いうちから目にしていけば、伝統的な男女の役割に束縛される必要などないことを子供たちは肌で学んでいくだろう。学校制度も男女の伝統的役割に深く根を下ろしている。教育の目的は個人の創造力や知的探究心を伸ばすことにあり、男女の性役割を基準として生徒の評価を下すことは断固としてやめなければならない。性役割をなくすことがそのまま男女の平等につながるわけではない。男性と女性には違いがあると考えることと、女性は男性より劣っていると考えることは全く別のことである。この両者の混同が社会的政治的なジェンダー差の根底にある。意識的にせよ無意識にせよ、この混同は、民主主義の世界で理想とされる原則とは真っ向からぶつかるものである。また、人類の半数を占める女性に十分な社会参加をさせる妨げとなってきたのである。[9]
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引用文献
[1] NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第5版]』49-50頁、NHKブックス、2000年。
[2] 大沢真理『企業中心社会を超えて』123頁、時事通信社、1993年。
[3] 竹信三恵子『日本株式会社の女たち』200-201頁、朝日新聞社、1994年。
[4] 遙洋子『働く女は敵ばかり』19頁、朝日新聞社、2001年。
[5] 熊沢誠『女性労働と企業社会』201頁、岩波新書、2000年。
[6] 東京都産業労働局『働く女性と労働法 2003年』4頁、東京都産業労働局労働部労働課。
[7] 女たちの欧州調査団『なくそうパート/契約労働/派遣差別』54頁、2000年。
[8] 熊沢、前掲書、2-3頁。
[9] エスター・グリーングラス著、樋口恵子編訳『女と男はどうつくられる?』235-237頁、三笠書房、1985年。