たんぽぽの心の旅のアルバム

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第六章OLを取り巻く現代社会-⑫公的生活と私的生活のバランス (余暇と労働)

2024年10月08日 01時31分42秒 | 卒業論文

 日常生活の秩序ある営みは、役割の分担、役割のコントロールによって可能となることは明らかだ。様々な役割をどのように調整しながら、己自身をどのように他者にかかわらせてゆくのか、しかもバランスをとってどのようにしてあくまでも自分自身であり続けるのか、ということが問題となる。公的生活と私的生活との調整は、今日きわめて大きな問題となっているといえるだろう。[1] 仕事=労苦の対極にあるものとして余暇は位置づけられる。労働それ自体にも、また企業への帰属によっても、労働の「意味」が見出せないならば、労働はあくまでも手段とし、個性や創造性といった「自己実現」は、他の領域に求めるほかない、といった考え方に私たちは導かれる。労働の喜びであり本質であったものが労働以外のものに求められるようになったのである。現代の高度産業社会では労働と家族や余暇の生活は、場としても、あるいは時間の区切りとしても明確に二分されてきただけでなく、双方の間に質的な違いが生じてきた。公的領域としての国家や労働の領域は、様々な規則や価値によって構造化されているが、一方、それらの領域の巨大化、細分化によって、人々はそれらの領域を通したアイデンティティの確保が困難となってきている。そして、一方、私的領域は、構造化された公的領域から相対的に独立し、その組立てはかなりの程度、個人の裁量に委ねられるようになってきた。そのために、人々は公的領域ではなく、私的領域に人生の意味や自己のアイデンティティを求める傾向になるのである。[2] このように、現代の生活では、公的生活と私的生活に見られる生活態度の両極化、つまり、社会的諸領域の二元性が顕著であり、[3]両者は分断されている。

 ここで言う労働とは、雇用労働を意味し、余暇とは睡眠や食事などの生理的な活動のために必要な時間と、労働や家事などのために必要な時間を除いた時間と一般には定義されているが、ここでもその原則にしたがって考える。

 仕事と余暇のバランスについて、『現代日本人の意識構造[第五版]』によれば、近年の傾向として、男女共に仕事中心の生活から余暇を取り入れた生活へと理想を変化させている。このような考え方の変化は国民一人ひとりが変わったためではなく、余暇と仕事の関係についての考え方は、基本的には生まれ育った時代によって決まっている。男性について生まれた年を基準にした統計によれば、余暇も時には楽しむが、仕事のほうに力を注ぐという仕事優先と、仕事に生きがいを求めて全力を傾けるという仕事絶対の「仕事志向」タイプは、若い世代で少なく年をとった世代の方が多いが、25年前と比べるとその高年世代でも時代の影響を受け減少している。一方、「仕事・余暇両立」は、戦後に生まれた世代では四割以上に達し、それより上の世代では徐々に少なくなっている。このように男性に見られる「仕事志向」の減少と「仕事・余暇両立」の増加は、これまで仕事一筋の生き方がモデルであった男性が、仕事だけではなく余暇も含めて人生を楽しむことへと気持ちが動いていることを示している。戦後の日本はアメリカやヨーロッパに追いつけ追い越せと働き、現在の日本は物質的に豊かになり、衣食住に満足という人は25年前の59%から74%に達した。高度経済成長期を経て、今は豊かな生活を築くことよりも、「その日その日を自由に楽しく過ごす」ことや「和やかな毎日を送る」ことが生活の中で大切だと思われている。経済的にさらなる発展を求めるよりも、今の豊かさは維持しつつ人生を楽しみたいという意識が人々の中に芽生えている。このような生活目標の変化が「仕事と余暇」の意識に絡み合い、余暇を肯定的に評価する動きとなっている。余暇の過ごし方についても、明日の仕事のために体を休めるという消極的な過ごし方ではなく、男性のすべての年齢層で「好きなことをして過ごす」ことが「休息」を上回っている。「自分の自由になる時間をもちたい」という気持ちのあらわれは、右上りの成長が望めない現在の日本において、これ以上の経済的なゆとりを手に入れることが困難であることを人々が感じ取り、生活に求めるものが従来とは異なるものへと変わってきているといえるだろう。[4]「勤労・勤勉の精神」が効率を追い求め、余暇の時間をも、濃密な時間、意味のある時間、充実した時間を体験しなければ、と義務のように私たちに思わせることは先述したが、『日経ウーマン2003年2月号』には、「あなたを幸せにするスローライフ宣言」と題して、効率、スピードの象徴としての食べ物「ファストフード」に対する言葉として話題になった「スローフード」、ここから転じて生まれた「スローライフ」という発想を提案している。「スローライフ」は何も、「特別な生き方」ではありません。自分のペースで無理なく生活するスタイルなのです。あなたなりの「スローライフ」を送ることで心に余裕が生まれ、心身のバランスがよくなる。“自分流”の生き方を見つけ、実践することで、仕事もプライベートもうまくまわり始めます。[5] こうした新たな発想は、今日の余暇には労働からの免除という意味もあるが、さらに労働との関連ばかりでなく、余暇独自の意味づけが生まれてきていると考えられる。

 だが、サラリーマンのほとんどが余暇の量と質の充実を望みながら、現実には働き中毒を余儀なくされている。『週間SPA2003年9月30日号』から1日13-14時間労働のサラリーマンの激務の例を紹介したい。「毎日朝4時にタクシーで帰宅。土日出勤も、3ヶ月間休みがゼロなんてことも当たり前。当社の場合『定時帰り』とは『終電に乗れた』ことを指すくらいですから」と言うのは、28歳ビジネスコンサルタント。とにかく短期間で結果を出すことを要求されるため、必然的に仕事量は多くなる。それでも朝は9時に定時出社である。月に150時間残業しながら5時間分の残業代しかつけられないというOAメーカーの男性(35歳)はそれでも「仕事だから仕方ない」と割り切る。「仕事は“その時”で評価が決まるので時期を逸すると“駄目”の烙印をおされてしまう。その烙印を払拭する手間を考えれば自分のプライベートな時間を惜しんではいられない」のだ。[6] 『日本人の生活時間2000』によれば、平成不況は企業が大規模なリストラにより経営の合理化を図って乗り切ろうとしているので、有職者一人当たりの仕事時間が1995年と2000年との比較で増加している。不況による仕事の総量の減少を上回って働く人が減らされたため、残された人に長時間労働というしわ寄せが来ているのである。[7] 

 

 公的生活と私的生活を考えるときに、公的領域においては匿名的な存在になる昼間の職業人としての私たちは、いわば機械の中で作られてしまった仮の人間であり、私的領域にある夜の時間が本当の人間なのだ、という考え方が一般的にある。しかし、一人の人間を考える時、その人の意志と立場とその両者が統一された総体(あるいは分裂しているならば分裂したままの全体)こそが、その人の本当の<人間>に違いない、と黒井千次は述べている。これは大げさに言えば、例えば同じ寝巻で眠るにしても、普通の人と警察官とでは眠り方が違うのだということになるかもしれない。一人の人間の内容は昼間の機能面だけでなりなっているわけではないが、昼間の職業人として求められている役割を果たす動く人間の現状を捉えるところから出発しなければ、あまりに茫漠とし、あまりに流動する現代の人間を捉えることはきわめて困難なことになる。しかし、昼間の人間は人間のトータルではない。問題は昼間と夜のどちらに視点を置くかであり、黒井は昼間の職業人としての人間を重視する。昼間を貫いて夜に至る視線をもって、闇の中にうごめくものの形をおぼろおぼろにでもつかみたい、と考えたのだ。[8] 昼間の公的な領域にある人間も夜の私的な時間を過ごす人間もどちらも固有の人格をもつ全体的人間として存在する。毎日の生活において、いわば集団人として生活している私たちには、役割演技者であるpersonとしての生活に集団人の一面がみられるが、私たち自身は一面的断片的な役割演技者としてだけ存在するのではないのだ。あくまでも、現実には固有の人格、全体的人間として存在しているのだ。けれども日常生活のさまざまな場面においては、私たちは、ある役割を演ずる-personとして、他者の前に現れる。かけがえのない一人の人間は、そうした役割の背景に隠れてしまっているのだろうか。あるいは人間の姿は見られても、人格は見失われてしまっているのだろか。[9] 山岸健によって役割演技者と言う視点が示された。黒井がこだわる昼間の私たちは、組織の拘束を受けながら、組織人としての役割を果たさなければならない。私たち人間は様々な役割を果たしながらそこに意味と価値を創り出していくのだ。[10] 私たちは実に多くの集団に属している。集団人として生活している私たちにとって、どのような集団にどのような状態で所属しているかということは、日常生活の基本的な問題事項である。どの所属集団をとってみても、私たちの全生活を包括するものはない。私たちは、おのおのの集団で果たさなければならない「役割」に必要なかぎりにおいて、その集団に参与し、それに応ずる物質的・精神的報酬を受け取っているに過ぎないのである。だから生活の全関心を充足しようとすれば、多くの集団に「分属」し、空間的にも時間的にも、それらの集団を渡り歩かなければならない。どの集団にも埋没しない「複数の所属集団」が現代人の運命となる。[11] 断片的に様々な集団に属し役割を果たす現代の私たちを全体的人間として捉えることは容易なことではないと思われる。

 

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引用文献

[1] 山岸健、『日常生活の社会学』12-13頁、日本放送出版協会、1978年。

[2] 片桐雅隆「労働・余暇・私化」山岸健・江原由美子編『現象学的社会学・意味へのまなざし』279-282頁、三和書房、1985年。

[3] 山岸健、前掲書、107頁。

[4] NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第五版]』151-158頁、NHKブックス、2001年。

[5] 『日経ウーマン2003年2月号』22頁、日経ホーム出版社。

[6] 「仕事だから仕方ないはどこまで仕方ないのか?」『週刊SPA2003年9月30日号』38-44頁、扶桑社。

[7] NHK放送文化研究所編『日本人の生活時間・2000』50頁、NHK出版、2002年。

[8] 黒井千次『仮構と日常』17-20頁、河出書房新社、1971年。

[9] 山岸、前掲書、12頁。

[10] ボーヴォワール著、『第2の性を原文で読み直す会』訳、『第二の性・Ⅰ』48頁、新潮文庫、2001年。

[11] 日本社会学会編集委員会編『現代社会学入門[第2版]』26-27頁、有斐閣、1980年。

 

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