「全ての人間の生活は、自己自身への道であり、一つの道の試みであり、一つのささやかな道の暗示である。どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかし、めいめい自分自身になろうとつとめている。ある人はもうろうと、ある人はより明るく。めいめいの力に応じて。誰でも皆、自分の誕生の残りかすを、原始状態の粘液と卵の殻を最後まで背負っている。ついに人間にならず、カエルやトカゲやアリに留まるものも少なくない。上のほうは人間で下のほうは魚であるようなものも少なくない。しかし、各人みな、人間に向かっての自然の一投である。われわれすべてのものの出所、すなわち母は共通である。われ輪われはみんな同じ深淵から出ているのだ。しかし、みんなその深みからの一つの試みとして、自己の目標に向かって努力している。われわれは互いに理解することはできる。しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない」。[1]「私」とは誰なのか。今どこに立ちどこに向かおうとしているのか。こうした自分への問いかけをしない人はいないはずだ。
テレビの中で、女優が平凡なOLを演じている。彼女は何かに夢中になりたいと思っている。心から泣いたり怒ったり、思い切り情熱を傾けられる何かに出会いたい。けれど、何をしていいのかわからない。大都市のビルの屋上から、「わたしはここにいるんだぞ、バカヤロー」と叫ぶ。個として認められないOLの鬱屈した心情をよく現している場面ではないだろうか。
「労働力」という点で女性の役割はいつも大きい。女性労働者の絶対数の増大と未婚者から既婚者への構成者の変化は大きな社会的インパクトを与えた。「労働」の視野を「人間と社会に不可欠な営み」にまで拡げれば女性の役割は、全労働者の四割を占めるという程度に留まらない。女性たちはどんな時代も働くことで社会を支えてきたのだ。にもかかわらず、女性が労働の場で男性と対等のパートナーと認識され始めたのはつい最近のことである。近年女性の役割の幅は大きく広がった。あえて子供を作らない生き方、婚前交渉、同棲、働きながらの子育てなど、その生き方の多様化は数え上げればきりがないほどだ。女性の価値観やライフスタイルの変化と共にパートナーたる男性も変わり始めた。しかし、男女平等はまだ達成されたわけではない。根強くはびこっている男女の役割へのこだわりは、いまだに男性、女性の双方を縛り付けている。この役割へのこだわりをすてないかぎり、家庭でも、職場でも、政治レベルでも、男女平等は実現しないだろう。大切なのは、男女双方ともに、人間として自分の持てる能力をできるだけ伸ばすことだ。この最後の章では、「個」として生きること、真に「あること」について考察してみたいと思う。
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引用文献
[1] ヘルマンヘッセ著、高橋健二訳『デミアン』6-7頁、新潮文庫、昭和26年。